読書週間が明けた昼休み。
教室の空気はいつも通りざわついていて、特別なことなんて何もないはずだった。
理緒は自分の席でノートを開きながら、隣の未来と軽く言葉を交わしていた。
「最近さ」
未来が、何気ない調子で切り出す。
「お兄ちゃん、なんか変なんだよね」
ペン先が、一瞬だけ止まる。
「変って?」
なるべく自然に返す。
「なんかさ、ソワソワしてるっていうか。落ち着きないし」
未来は頬杖をつきながら、少しだけ楽しそうに言う。
「前はもっと、クールぶってかっこつけた顔してたのにさ」
——かっこつけた顔。
その言葉に、図書室での晃の表情がふと浮かぶ。
言葉を探しているような顔。
何かを誤魔化そうとしているような沈黙。
それと同時に、思い出す。
手を引かれたときの感触。
離さなかった手。
自分が、握り返してしまったこと。
「……受験生だし」
少しだけ間を置いて、理緒は言う。
「勉強で疲れてるんじゃない?」
できるだけ、何でもないことのように。
未来は「ふーん」と短く返す。
少しだけ間を置いてから、視線をこちらに向ける。
「でもさ」
軽い調子のまま、続ける。
「最近、帰るの遅いんだよね」
理緒の視線が、わずかに揺れる。
「部活ない日も」
未来はそれ以上説明しない。
ただ、少しだけ笑う。
「……なんかさー」
ペンをくるくる回しながら、
「お兄ちゃん、分かりやすいんだよね」
——その一言が、妙に引っかかる。
理緒は何も言わない。
未来は続ける。
「お兄ちゃんって、いつも自分のやりたいことに熱中してる感じだから」
「……そうなんだ」
「今は何に夢中なんだか気になるんだよね。」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れる。
何かに夢中?
――何に?
——考える前に、止める。
「……受験勉強じゃない?」
なるべく軽く返す。
未来は一瞬だけ黙る。
それから、ふっと笑う。
「まあいいや……理緒ってそういうとこ鈍いよね」
それ以上は何も言わない。
チャイムが鳴る。
会話はそこで終わる。
周りの空気が一気に動き出して、いつもの昼休みが終わる。
理緒はノートに視線を落とす。
文字が、少しだけ遠く見える。
——何かに夢中。
その言葉が、頭の中に残る。
『誰でもってわけじゃない』
じゃあ。
——私は?
考えかけて、止める。
そんなこと、考える必要はない。
ただ一緒に帰っているだけ。
——委員会だから。
——暗いから。
それだけ。
……
本当に?
断る選択肢もあった。
それでも、送ってもらうって決めたのは――私。
あの日の帰り道が、浮かぶ。
手を握ったまま歩いた時間。
離すタイミングを、どちらも逃したこと。
——別に、普通のこと。
そう思おうとする。
思えばいいだけなのに。
その直後に、浮かぶ。
離したあと、もう少しだけ繋いでいたかったと思った感覚。
「……」
ペンを持つ手に、少しだけ力が入る。
考えなくていい。
考えたところで、意味はない。
そういうものじゃない。
——そういうことにしておけばいい。
「……それだけ、だよね」
小さく、呟く。
誰にも聞こえない声。
それでも、その言葉はどこか頼りなかった。
消化しきれず、ずっと喉の奥に残ったまま。
---
部活を終えて、理緒は部室を出た。
少しずつ日がのびてきて、外はまだ夕方の始まりだった。
読書週間はもう終わった。
だから——今日は、いない。
そう思いながら、昇降口へ向かう。
当たり前のことを、わざわざ頭の中で確認する。
そうしないと、どこか落ち着かない気がした。
下駄箱の前に立ち、靴を履き替えようとしたとき。
視界の端に、人影が映る。
「……」
顔を上げる。
昇降口の外。
柱にもたれるようにして、立っている人がいた。
——藤森先輩。
一瞬、思考が止まる。
どうして、ここに。
そのとき、近くにいた男子生徒が声をかけた。
「お前、帰んねぇの?」
先輩は少しだけ顔を上げて、
「ん? あぁ……帰る帰る」
そう言いながら、動かない。
男子生徒は「じゃな」と言って行ってしまった。
そのやり取りを見て、理緒は少しだけ迷ってから声をかけた。
「……誰か待ってるんですか?」
先輩の視線が、こちらに向く。
一瞬だけ間があって、
「……いや、帰る」
そう言って、足元に置いていた鞄を肩にかけた。
それだけ。
それだけなのに。
まるで最初から決まっていたみたいに、二人は並んで歩き出す。
同じ歩幅で、校門へ向かって歩く。
少しだけ、風が冷たい。
理緒は前を見たまま、口を開いた。
「……もう、帰るタイミング合わないと思ってました」
先輩は、少しだけ間を置いてから答える。
「そんなことないだろ」
短い返事。
それ以上は続かない。
でも、沈黙が重くはなかった。
むしろ、少しだけ慣れてしまっている自分に気づく。
しばらく歩いて。
理緒は、ほんの少しだけ息を整える。
——聞くなら、今。
そう思った。
でも。
踏み込みすぎてはいけない。
言葉を選ぶ。
「……あの」
先輩が少しだけ視線を向ける。
理緒は前を見たまま、続ける。
「先輩って」
一拍、置く。
「どんな人を送るんですか?」
言ったあと、自分でも少しだけ不自然だと思う。
だから、すぐに付け足す。
「その……今日も送ってくださるんだって、少しびっくりして」
できるだけ軽く。 ただの疑問みたいに。
でも、胸の奥は少しだけ騒がしい。
先輩は、すぐには答えなかった。
足音だけが、しばらく続く。
やがて、ぽつりと落ちる声。
「別に…」
視線は前のまま。
「どんな人っていうか……」
少しだけ言葉を探すようにして、
「……思いつき……みたいなもん」
それだけ。
それだけ言うと、少し早足で前へ行ってしまう。
表情が見えない。
どこか、はぐらかされたような気がした。
「……でも、誰にでもじゃないって……」
そう言いかけて、理緒はちょうどいい言葉を探す。
でも、見つからない。
だから無難に返す。
「……そんなもん……ですかね」
それ以上は聞かない。
聞けない。
聞いたら、止まらなくなる気がするから。
また、沈黙が戻る。
でも今度は、少しだけ違う。
歩幅が少し合わなくなる。
――今は、思いつき?
その考えが浮かびかけて、すぐに止める。
考えなくていい。
そう決めている。
なのに。
さっきより気軽に返せなくなった。
言葉を選べば選ぶほど、何も言えなくなった。
教室の空気はいつも通りざわついていて、特別なことなんて何もないはずだった。
理緒は自分の席でノートを開きながら、隣の未来と軽く言葉を交わしていた。
「最近さ」
未来が、何気ない調子で切り出す。
「お兄ちゃん、なんか変なんだよね」
ペン先が、一瞬だけ止まる。
「変って?」
なるべく自然に返す。
「なんかさ、ソワソワしてるっていうか。落ち着きないし」
未来は頬杖をつきながら、少しだけ楽しそうに言う。
「前はもっと、クールぶってかっこつけた顔してたのにさ」
——かっこつけた顔。
その言葉に、図書室での晃の表情がふと浮かぶ。
言葉を探しているような顔。
何かを誤魔化そうとしているような沈黙。
それと同時に、思い出す。
手を引かれたときの感触。
離さなかった手。
自分が、握り返してしまったこと。
「……受験生だし」
少しだけ間を置いて、理緒は言う。
「勉強で疲れてるんじゃない?」
できるだけ、何でもないことのように。
未来は「ふーん」と短く返す。
少しだけ間を置いてから、視線をこちらに向ける。
「でもさ」
軽い調子のまま、続ける。
「最近、帰るの遅いんだよね」
理緒の視線が、わずかに揺れる。
「部活ない日も」
未来はそれ以上説明しない。
ただ、少しだけ笑う。
「……なんかさー」
ペンをくるくる回しながら、
「お兄ちゃん、分かりやすいんだよね」
——その一言が、妙に引っかかる。
理緒は何も言わない。
未来は続ける。
「お兄ちゃんって、いつも自分のやりたいことに熱中してる感じだから」
「……そうなんだ」
「今は何に夢中なんだか気になるんだよね。」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れる。
何かに夢中?
――何に?
——考える前に、止める。
「……受験勉強じゃない?」
なるべく軽く返す。
未来は一瞬だけ黙る。
それから、ふっと笑う。
「まあいいや……理緒ってそういうとこ鈍いよね」
それ以上は何も言わない。
チャイムが鳴る。
会話はそこで終わる。
周りの空気が一気に動き出して、いつもの昼休みが終わる。
理緒はノートに視線を落とす。
文字が、少しだけ遠く見える。
——何かに夢中。
その言葉が、頭の中に残る。
『誰でもってわけじゃない』
じゃあ。
——私は?
考えかけて、止める。
そんなこと、考える必要はない。
ただ一緒に帰っているだけ。
——委員会だから。
——暗いから。
それだけ。
……
本当に?
断る選択肢もあった。
それでも、送ってもらうって決めたのは――私。
あの日の帰り道が、浮かぶ。
手を握ったまま歩いた時間。
離すタイミングを、どちらも逃したこと。
——別に、普通のこと。
そう思おうとする。
思えばいいだけなのに。
その直後に、浮かぶ。
離したあと、もう少しだけ繋いでいたかったと思った感覚。
「……」
ペンを持つ手に、少しだけ力が入る。
考えなくていい。
考えたところで、意味はない。
そういうものじゃない。
——そういうことにしておけばいい。
「……それだけ、だよね」
小さく、呟く。
誰にも聞こえない声。
それでも、その言葉はどこか頼りなかった。
消化しきれず、ずっと喉の奥に残ったまま。
---
部活を終えて、理緒は部室を出た。
少しずつ日がのびてきて、外はまだ夕方の始まりだった。
読書週間はもう終わった。
だから——今日は、いない。
そう思いながら、昇降口へ向かう。
当たり前のことを、わざわざ頭の中で確認する。
そうしないと、どこか落ち着かない気がした。
下駄箱の前に立ち、靴を履き替えようとしたとき。
視界の端に、人影が映る。
「……」
顔を上げる。
昇降口の外。
柱にもたれるようにして、立っている人がいた。
——藤森先輩。
一瞬、思考が止まる。
どうして、ここに。
そのとき、近くにいた男子生徒が声をかけた。
「お前、帰んねぇの?」
先輩は少しだけ顔を上げて、
「ん? あぁ……帰る帰る」
そう言いながら、動かない。
男子生徒は「じゃな」と言って行ってしまった。
そのやり取りを見て、理緒は少しだけ迷ってから声をかけた。
「……誰か待ってるんですか?」
先輩の視線が、こちらに向く。
一瞬だけ間があって、
「……いや、帰る」
そう言って、足元に置いていた鞄を肩にかけた。
それだけ。
それだけなのに。
まるで最初から決まっていたみたいに、二人は並んで歩き出す。
同じ歩幅で、校門へ向かって歩く。
少しだけ、風が冷たい。
理緒は前を見たまま、口を開いた。
「……もう、帰るタイミング合わないと思ってました」
先輩は、少しだけ間を置いてから答える。
「そんなことないだろ」
短い返事。
それ以上は続かない。
でも、沈黙が重くはなかった。
むしろ、少しだけ慣れてしまっている自分に気づく。
しばらく歩いて。
理緒は、ほんの少しだけ息を整える。
——聞くなら、今。
そう思った。
でも。
踏み込みすぎてはいけない。
言葉を選ぶ。
「……あの」
先輩が少しだけ視線を向ける。
理緒は前を見たまま、続ける。
「先輩って」
一拍、置く。
「どんな人を送るんですか?」
言ったあと、自分でも少しだけ不自然だと思う。
だから、すぐに付け足す。
「その……今日も送ってくださるんだって、少しびっくりして」
できるだけ軽く。 ただの疑問みたいに。
でも、胸の奥は少しだけ騒がしい。
先輩は、すぐには答えなかった。
足音だけが、しばらく続く。
やがて、ぽつりと落ちる声。
「別に…」
視線は前のまま。
「どんな人っていうか……」
少しだけ言葉を探すようにして、
「……思いつき……みたいなもん」
それだけ。
それだけ言うと、少し早足で前へ行ってしまう。
表情が見えない。
どこか、はぐらかされたような気がした。
「……でも、誰にでもじゃないって……」
そう言いかけて、理緒はちょうどいい言葉を探す。
でも、見つからない。
だから無難に返す。
「……そんなもん……ですかね」
それ以上は聞かない。
聞けない。
聞いたら、止まらなくなる気がするから。
また、沈黙が戻る。
でも今度は、少しだけ違う。
歩幅が少し合わなくなる。
――今は、思いつき?
その考えが浮かびかけて、すぐに止める。
考えなくていい。
そう決めている。
なのに。
さっきより気軽に返せなくなった。
言葉を選べば選ぶほど、何も言えなくなった。



