まだ恋とは呼べない距離で

読書週間が始まった図書室は、いつもより少しだけ騒がしかった。

ページをめくる音、本を戻す音、紙とインクの匂いに人の気配が混ざる。

その中で、理緒はスタンプラリーの集計を確認していた。

「神崎」

声が、すぐ近くで落ちる。

顔を上げると、藤森先輩が隣に立っていた。

「藤森先輩」

一拍の間。

「企画、うまくいってるな」

そう言って、軽く笑う。

「そうですね。準備、頑張りましたもんね」

「そうだな。……ここ、座れば?」

先輩は貸出カウンターの椅子に座って、隣の椅子を叩く。

理緒は促されるままに座る。

さらに距離が詰まる。

「今の参加者、86人だって」

先輩がメモを指す。

理緒が覗き込む。

肩が触れそうになり、身を引く。

「初日でこれなら、いい方ですね」

「だな」

先輩は短く笑う。

理緒も、つられるように少しだけ笑う。

その瞬間、
チャイムが鳴る。

先輩はすぐには立たなかった。

理緒が立ち上がると、ようやく立つ。

「教室戻るか」

それだけで、二人は図書室を出た。

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放課後。

図書室の開館時間を終えて、廊下に出ると、理緒は鍵を閉める。
そのまま職員室へ向かう。

少し間を置いて後ろからの声に呼び止められる。

「……送る」

「……え」

「……この間と同じでいいよな」

返事を待たずに歩き出す。

前回と同じように、先輩は昇降口で待っていた。

二人で昇降口を出て、校門に向かって歩き出す。

同じ歩調で。

校門を出て、交差点で先輩が立ち止まる。

理緒も止まる。

「神崎」
「はい」

少しの沈黙。

「昨日さ……寒くなかった?」

——何それ。
一瞬、意味が追いつかない。

「……いえ」

「そう」

先輩は言葉を探しているみたいで、少しだけ視線が揺れる。

結局、何も続かないまま視線を外した。

理緒も同じように視線を外す。

——変だ。
ちゃんと説明できない。
でも、変だとだけ分かる。

そのまま、家の前に着く。

「じゃ、また明日」

それだけ言って、先輩は歩き出す。
自分も家の門をくぐる。

距離は離れる。

はずなのに、
理緒の心はその場に残ったまま。
胸の奥を押さえる。

変だ。

でも、嫌ではない。

だからこそ、扱いに困る。

理緒は小さく息を吐く。

「……何なんだろう」

声に出した瞬間、すぐに打ち消す。

——気にしても仕方ない。
いつものやつ。

そうやって片付けるはずなのに。
さっきの“違和感”だけは、どこにも分類できないまま残っていた。

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読書週間が始まってから、理緒は先輩と一緒に帰るようになっていた。

約束をしたわけじゃない。
決めたわけでもない。

ただ、図書室の鍵を閉めて、鍵を職員室へ返しに行っても、下駄箱で先輩が待っててくれている。
それが、いつの間にか“当たり前”になっていた。

読書週間最終日。

空気は少しだけ慌ただしく、図書室にもまだ残っている生徒がいた。

理緒はスタンプラリーの最終確認をしていた。
閉館時間が近づいているのに、先輩の隣にはまだ人がいる。

女子生徒だった。
先輩のクラスメイトらしい。

机の向こうで、先輩と何かを話してる。
特別な距離ではない。
でも、いつもより少しだけ長くそこにいる。

理緒は気づかないふりをして、書類を揃えようとするが、落としてしまう。
書類が自分の意識のように散らばる。

——今日は、あの人と帰るのかな。

そんなことを考えている自分に、少しだけ違和感がある。

やがて閉館時間が来て、女子生徒はあっさりと立ち上がった。

「じゃあね、藤森」

「おう」

それだけで、終わる。

図書室の空気が、少しだけ軽くなる。

理緒は鍵を手に取りながら、無意識に先輩の方を見た。

「……今日は」

言いかけて、一度止まる。

先輩が視線を上げる。

「あの人とは、一緒に帰らないんですか?」

自分でも、少し変な聞き方だと思った。

先輩は一瞬だけ黙る。

「……帰らない」

短く答える。

そのまま歩き出す準備をしながら、ぽつりと言う。

「……いや、別に……その……誰でもってわけじゃないし」

理緒の手が止まる。

「え?」

「送るとか、そういうの」

『誰にでもやってるわけじゃない』

——その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

なのに、胸の奥に、小さな引っかかりだけが残る。

どんな基準なんだろう?

図書室を出ると、外はもう夕方を過ぎかけていた。

校舎の影が長く伸びている。

いつも通りの帰り道。

いつも通りの距離。

なのに、今日は少しだけ違う気がした。

並んで歩きながら、理緒はふと思う。

——じゃあ、私は?

誰でも、じゃないなら。

考えかけて、すぐにやめる。

答えを出してはいけない気がした。

その時、急に手を引っ張られる。
先輩の力強い手に、理緒の手が包まれて、引き寄せられる。

「あぶないっ」
理緒のすぐ横を少しスピードを出した自転車が駆け抜ける。

「あ……ありがとうございます」
先輩の手が温かく感じられる。

先輩は、ホッとしたように息を吐く。
理緒の手は離さないまま時間だけが流れた。

その沈黙が、落ち着かない。
それなのに、先輩の手を握り返す自分がいた。

言葉が出ない。
――離すのが普通だよね。
そう思うのに、
離さないでいたい――そう思ってしまった。
その感覚に、自分で少しだけ驚いた。

先輩は、手を軽く握り直すと、歩き出す。
理緒は手を引かれるままに歩く。
転ばないために、しっかり握り返して。

理緒の家が見える。

いつもの終わりの場所。

そこで先輩は手を離す。
理緒の手に夕方の涼しい風が当たる。

「じゃ」

短い言葉。

いつもと変わらない。

でも理緒は、その場から動けなかった。

胸の奥に残ったままの違和感が、消えない。

いつもより足早に去る先輩の背中を見送りながら、理緒は小さく息を吐く。

——変だ。

でも、嫌ではない。

だからこそ、どうしていいか分からない。

そのまま一人で立ち尽くしながら、理緒は思う。

「……何なんだろう」

――知りたくない。
……知らない方がいい気がした。