読書週間の準備は、少しずつ形になっていった。
今回の企画はスタンプラリー。
本棚毎にチェックポイントを作って、本を読むたびにスタンプを押すという、単純で分かりやすいものだった。
机の上には、スタンプラリーの台紙と、景品のメモが並んでいる。
しおり、ステッカー、賞状。
中学生が用意できる景品として、二人で工夫を凝らした。
「これ、もう少し数ほしいですね」
神崎がメモを見ながら言う。
「だな」
晃は短く返して、段ボールを持ち上げた。
図書室の空気は、放課後の少しだけ柔らかい静けさに包まれている。
窓の外は、夕方の色に変わり始めていた。
二人で作業する時間は、特別な会話があるわけではない。
必要なことを、必要なだけ言う。
それだけなのに、なぜかやりやすい。
「このスタンプ、もう一種類増やしたほうがいいかもですね」
「理由は?」
「こっちの棚もスタンプラリーの対象にしてもいいかと」
「……なるほど」
晃は小さく頷く。
神崎の提案は、いつも抜けがない。
感覚ではなく、ちゃんと整理されている。
そのことに気づいてから、晃は少しだけ考え方が変わっていた。
——こいつ、ちゃんと見てる。
そう思うことが増えた。
作業が一区切りついた頃、時計を見ると、最終下校時刻が迫っていた。
「そろそろ片付けるか」
「はい」
机の上を整え、スタンプ台を棚に戻す。
戸締りを確認して、電気を消す。
最後に鍵を閉めたのは神崎だった。
「職員室へ鍵返してきます。じゃあ……」
そう言って、神崎は小さく頭を下げて、暗くなり始めた廊下へ小走りに消えていく。
静かな廊下に、階段を下りる足音が響く。晃も追いかけるように階段を降りる。
下駄箱で靴を履き替え、昇降口のドアにもたれかかって待つ。
理由はない。
一緒に帰ろうと話したわけではない。
ただ、その方が自然だったから。
しばらくして、廊下から足音が近づく。
神崎が戻ってくる。
「すみません、先に帰ってると思ってました」
少し驚いた表情で、慌てて靴に履き替える。
「職員室、思ったより時間かかってしまって……」
その言葉に、晃は軽く首を振った。
「別に、気にしてない……待ちたかったから、待ってただけ。」
自分でも少し変な言い方だと思った。
「……女の子一人で帰るには、もう暗いし」と取って付けたような言い訳をする。
神崎は一瞬だけ黙って、それから小さく笑う。
「ありがとうございます」
「いい」
短く返す。
神崎は鞄を肩にかけて歩き出す。
二人で校門へ向かって歩く。
外はもう薄暗くなっていた。
校舎の影が長く伸びている。
神崎が少しだけ笑う。
「でも、先輩の家、すぐそこですよね」
その言葉に、晃は一瞬だけ言葉を失う。
——確かにそうだ。
言い訳になっていない。
「……家まで送る」
気づけば、そう言っていた。
神崎は少しだけ目を丸くして、それから静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
校門の外に出ると、夜の入り口のような風が頬に当たった。
晃は神崎の横を歩きながら、ふと思う。
——さっきから、何やってんだ俺。
でも、足は止まらなかった。
隣を歩く神崎の気配だけが、やけに近く感じていた。
神崎の家へ向かう道は、何度も通ったことがあった。
この先にコンビニがあって、その先に図書館がある。
なのに、初めて通るような不思議な感覚。
校門を出てからしばらく、言葉はなかった。
夜の手前の空は、まだ少しだけ明るさを残している。
街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
その間を歩くと、影が長く伸びては消えた。
神崎が少しだけ前を歩き、晃はその半歩後ろをついていく。
その距離は、近いようで遠い。
遠いようで、妙に落ち着く距離だった。
曲がり角に差し掛かったとき、
不意に、指先が触れた。
「……っ」
どちらともなく、小さな違和感が走る。
一瞬だけ、歩幅が乱れる。
神崎は何も言わず、少しだけ手を引いた。
晃も、それ以上触れないように手を戻す。
ただ、それだけの出来事だった。
なのに。
そのあとも、しばらくその感触だけが残っていた。
言葉にできないまま、二人はそのまま歩き続ける。
---
神崎の家の手前に到着すると、神崎は家の方を指さす。
「あそこが私の家なので」
立派な家。たぶん、この辺りで一番デカい。
「ありがとうございました」
「あぁ……じゃ。」
それだけだった。
神崎は軽く頭を下げて、門を開けて消えていく。
その背中が見えなくなるまで、晃はその場に立っていた。
理由はない。
ただ、すぐに歩き出す気になれなかった。
---
家に帰ると、リビングの明かりがついていた。
「おかえりー」
ソファの上で、未来がスマホをいじりながら顔を上げる。
未来は、晃の顔を見るなり、少しだけ目を細めた。
「遅くない?」
「別に」
鞄を下ろしながら答える。
「ちょっと寄ってただけ」
「ふーん」
未来は興味なさそうに返しながらも、視線だけは離さない。
「で、どこ行ってたの?」
「神崎を送った」
何気なく出た言葉だった。
その瞬間、未来の手が止まる。
「……え?」
空気が一度だけ、止まった気がした。
「神崎……って理緒?」
「委員会活動してたから」
「なんで?わざわざ送ったの?」
短い問いだった。
だが、その一言だけがやけに重く感じた。
晃は少しだけ黙る。
「たまたま」
そう言いかけて、止まる。
たまたま。
その言葉は、口の中で形にならなかった。
代わりに出てきたのは、別の答えだった。
「……暗かったから」
未来は、じっと晃を見ている。
「それだけ?」
「それだけだろ」
即答した。
はずだった。
なのに。
胸の奥が、妙にざわついている。
さっきの帰り道。
指先が触れた感触。
理由もなく一緒に歩いた時間。
そして、自分が“送る”と決めたこと。
全部が、少しずつずれている気がする。
未来はふっと息を吐いた。
「へぇ」
それだけ言って、またスマホに視線を戻す。
晃はリビングを横切り、自分の部屋へ向かう。
階段を上がる途中で、ふと足が止まった。
さっきの会話が、頭の中で何度も繰り返される。
——なんでわざわざ送ったの?
その問いだけが、やけに残っている。
理由なんて、考えたことがなかった。
ただ、そうしただけ。
でも本当にそうか?
窓の外を見る。
夜の色が、もうはっきりと濃くなっていた。
その中で、ひとつだけ答えが浮かぶ。
——いや。
違う。
ただ“そうしたかった”だけだ。
その瞬間、胸の奥に落ちる感覚があった。
言葉にすると、形が変わってしまうもの。
ずっと曖昧だったそれに、名前がついてしまう感覚。
晃は小さく息を吐く。
「……ああ、そういうことか」
誰にも聞こえない声だった。
でも、それで十分だった。
自分の中でだけは、もう誤魔化せなかった。
さっきの帰り道も。
触れた指先も。
全部がつながってしまった。
——これ、たぶん。
恋だ。
今回の企画はスタンプラリー。
本棚毎にチェックポイントを作って、本を読むたびにスタンプを押すという、単純で分かりやすいものだった。
机の上には、スタンプラリーの台紙と、景品のメモが並んでいる。
しおり、ステッカー、賞状。
中学生が用意できる景品として、二人で工夫を凝らした。
「これ、もう少し数ほしいですね」
神崎がメモを見ながら言う。
「だな」
晃は短く返して、段ボールを持ち上げた。
図書室の空気は、放課後の少しだけ柔らかい静けさに包まれている。
窓の外は、夕方の色に変わり始めていた。
二人で作業する時間は、特別な会話があるわけではない。
必要なことを、必要なだけ言う。
それだけなのに、なぜかやりやすい。
「このスタンプ、もう一種類増やしたほうがいいかもですね」
「理由は?」
「こっちの棚もスタンプラリーの対象にしてもいいかと」
「……なるほど」
晃は小さく頷く。
神崎の提案は、いつも抜けがない。
感覚ではなく、ちゃんと整理されている。
そのことに気づいてから、晃は少しだけ考え方が変わっていた。
——こいつ、ちゃんと見てる。
そう思うことが増えた。
作業が一区切りついた頃、時計を見ると、最終下校時刻が迫っていた。
「そろそろ片付けるか」
「はい」
机の上を整え、スタンプ台を棚に戻す。
戸締りを確認して、電気を消す。
最後に鍵を閉めたのは神崎だった。
「職員室へ鍵返してきます。じゃあ……」
そう言って、神崎は小さく頭を下げて、暗くなり始めた廊下へ小走りに消えていく。
静かな廊下に、階段を下りる足音が響く。晃も追いかけるように階段を降りる。
下駄箱で靴を履き替え、昇降口のドアにもたれかかって待つ。
理由はない。
一緒に帰ろうと話したわけではない。
ただ、その方が自然だったから。
しばらくして、廊下から足音が近づく。
神崎が戻ってくる。
「すみません、先に帰ってると思ってました」
少し驚いた表情で、慌てて靴に履き替える。
「職員室、思ったより時間かかってしまって……」
その言葉に、晃は軽く首を振った。
「別に、気にしてない……待ちたかったから、待ってただけ。」
自分でも少し変な言い方だと思った。
「……女の子一人で帰るには、もう暗いし」と取って付けたような言い訳をする。
神崎は一瞬だけ黙って、それから小さく笑う。
「ありがとうございます」
「いい」
短く返す。
神崎は鞄を肩にかけて歩き出す。
二人で校門へ向かって歩く。
外はもう薄暗くなっていた。
校舎の影が長く伸びている。
神崎が少しだけ笑う。
「でも、先輩の家、すぐそこですよね」
その言葉に、晃は一瞬だけ言葉を失う。
——確かにそうだ。
言い訳になっていない。
「……家まで送る」
気づけば、そう言っていた。
神崎は少しだけ目を丸くして、それから静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
校門の外に出ると、夜の入り口のような風が頬に当たった。
晃は神崎の横を歩きながら、ふと思う。
——さっきから、何やってんだ俺。
でも、足は止まらなかった。
隣を歩く神崎の気配だけが、やけに近く感じていた。
神崎の家へ向かう道は、何度も通ったことがあった。
この先にコンビニがあって、その先に図書館がある。
なのに、初めて通るような不思議な感覚。
校門を出てからしばらく、言葉はなかった。
夜の手前の空は、まだ少しだけ明るさを残している。
街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
その間を歩くと、影が長く伸びては消えた。
神崎が少しだけ前を歩き、晃はその半歩後ろをついていく。
その距離は、近いようで遠い。
遠いようで、妙に落ち着く距離だった。
曲がり角に差し掛かったとき、
不意に、指先が触れた。
「……っ」
どちらともなく、小さな違和感が走る。
一瞬だけ、歩幅が乱れる。
神崎は何も言わず、少しだけ手を引いた。
晃も、それ以上触れないように手を戻す。
ただ、それだけの出来事だった。
なのに。
そのあとも、しばらくその感触だけが残っていた。
言葉にできないまま、二人はそのまま歩き続ける。
---
神崎の家の手前に到着すると、神崎は家の方を指さす。
「あそこが私の家なので」
立派な家。たぶん、この辺りで一番デカい。
「ありがとうございました」
「あぁ……じゃ。」
それだけだった。
神崎は軽く頭を下げて、門を開けて消えていく。
その背中が見えなくなるまで、晃はその場に立っていた。
理由はない。
ただ、すぐに歩き出す気になれなかった。
---
家に帰ると、リビングの明かりがついていた。
「おかえりー」
ソファの上で、未来がスマホをいじりながら顔を上げる。
未来は、晃の顔を見るなり、少しだけ目を細めた。
「遅くない?」
「別に」
鞄を下ろしながら答える。
「ちょっと寄ってただけ」
「ふーん」
未来は興味なさそうに返しながらも、視線だけは離さない。
「で、どこ行ってたの?」
「神崎を送った」
何気なく出た言葉だった。
その瞬間、未来の手が止まる。
「……え?」
空気が一度だけ、止まった気がした。
「神崎……って理緒?」
「委員会活動してたから」
「なんで?わざわざ送ったの?」
短い問いだった。
だが、その一言だけがやけに重く感じた。
晃は少しだけ黙る。
「たまたま」
そう言いかけて、止まる。
たまたま。
その言葉は、口の中で形にならなかった。
代わりに出てきたのは、別の答えだった。
「……暗かったから」
未来は、じっと晃を見ている。
「それだけ?」
「それだけだろ」
即答した。
はずだった。
なのに。
胸の奥が、妙にざわついている。
さっきの帰り道。
指先が触れた感触。
理由もなく一緒に歩いた時間。
そして、自分が“送る”と決めたこと。
全部が、少しずつずれている気がする。
未来はふっと息を吐いた。
「へぇ」
それだけ言って、またスマホに視線を戻す。
晃はリビングを横切り、自分の部屋へ向かう。
階段を上がる途中で、ふと足が止まった。
さっきの会話が、頭の中で何度も繰り返される。
——なんでわざわざ送ったの?
その問いだけが、やけに残っている。
理由なんて、考えたことがなかった。
ただ、そうしただけ。
でも本当にそうか?
窓の外を見る。
夜の色が、もうはっきりと濃くなっていた。
その中で、ひとつだけ答えが浮かぶ。
——いや。
違う。
ただ“そうしたかった”だけだ。
その瞬間、胸の奥に落ちる感覚があった。
言葉にすると、形が変わってしまうもの。
ずっと曖昧だったそれに、名前がついてしまう感覚。
晃は小さく息を吐く。
「……ああ、そういうことか」
誰にも聞こえない声だった。
でも、それで十分だった。
自分の中でだけは、もう誤魔化せなかった。
さっきの帰り道も。
触れた指先も。
全部がつながってしまった。
——これ、たぶん。
恋だ。



