誠さんから兄との待ち合わせの日程が知らされたのは、それから数日後だった。
大学の講義を終えた頃、理緒のスマホへ誠さんからメッセージが届く。
《達也とは来週土曜。昼過ぎ。場所送る》
続けて共有されたのは、都内のカフェの位置情報だった。
理緒はしばらく画面を見つめる。
いよいよ会う。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
それでも。
理緒は小さく息を吐き、《分かりました》と短く返信した。
―――
当日。
理緒は誠さんとの待ち合わせより少し早めに駅へ到着した。
休日の駅前は人通りが多い。
家族連れ。
買い物袋を下げた女性。
笑いながら歩く高校生たち。
その雑踏の中に、誠さんは自然に立っていた。
黒のパーカーにインディゴのデニム。
鞄はなく、片手にスマホだけを持っている。
理緒へ気付くと、軽く手を挙げた。
誠さんは理緒の表情を見て、少しだけ口元を緩める。
「おはよ」
「……こんにちは」
「緊張してる?」
理緒は少し迷ってから、小さく頷いた。
「……少し」
誠さんは呆れたように笑う。
「少しか?」
理緒は苦笑した。
「かなり、かもしれません」
「そりゃそうだな」
二人は並んで歩き始めた。
待ち合わせのカフェまでは、駅から五分ほどらしい。
休日の街は賑やかなのに、不思議と理緒の耳には、自分の心臓の音ばかり響いていた。
そんな理緒を見ながら、誠さんがふと思い出したように口を開く。
「そういや、達也の弱点教えてやろうか」
理緒はきょとんとした顔で誠さんを見る。
「……弱点?」
誠さんは少し笑う。
「お前、兄貴のことラスボスみたいに思ってるだろ」
「そんなこと……」
否定しかけて、言葉が止まる。
少し前までの自分なら、きっと即座に否定していたと思う。
でも今は。
理緒は小さく視線を落とした。
「……思ってた、かもしれません」
誠さんは少し意外そうに目を瞬かせる。
「素直じゃん」
「最近、色んな人に言われるので……」
「例えば?」
「まみちゃんに指摘されて……兄を神様みたいな存在だと思ってたことに気付いて……」
誠は「あー」と納得したように頷いた。
理緒は歩きながら、小さく息を吐く。
「私、兄の挫折とか、苦しんでた時期も知ってるんです」
「うん」
「でも、それでも……兄は正しい人だって思ってました」
誠は何も言わず、続きを待っていた。
「だから、兄に距離を置かれた時、“私が間違えたんだ”って思って……」
理緒は少し困ったように笑う。
「でも最近、まみちゃんも誠さんも……みんな、兄のことを普通の人として話すから」
誠は当たり前みたいに答えた。
「普通の人だよ」
「……はい。前だったら、誠さんの言ってることは、受け入れられなかったかもしれません」
理緒は少しだけ肩の力を抜く。
「でも今は、ちゃんと現実の話として聞けてる気がします」
誠は理緒を横目で見て、少しだけ目を細めた。
「成長したなぁ」
「子ども扱いしないでください」
「達也も喜ぶんじゃね」
理緒は少しだけ眉を下げる。
「……だと、いいんですけど」
誠はそこで、ふっと笑った。
「ちなみに、達也の弱点な」
「はい」
「あいつ、すごい寝相悪い」
「……」
「あと、意外と短気」
理緒は呆れたような顔をしながらも、静かに聞いていた。
誠は肩をすくめる。
「それから……勝手に一人で考え込んで限界になるタイプ」
理緒は少しだけ目を伏せる。
「……たしかに、そうだったかもしれません」
「だろ?」
誠は軽く笑った。
「だから、多分お前に対しても、“嫌いだから離れた”とかじゃねぇと思う」
理緒はゆっくり息を吸った。
「……はい」
そう返す声は、以前より少しだけ穏やかだった。
―――
やがて、待ち合わせのカフェが見えてきた。
ガラス張りの落ち着いた店だった。
その店の前に、一人の男性が立っている。
理緒の足が止まる。
兄だった。
昔より少し背が伸びたように見える。
黒縁眼鏡。
白Tシャツにグレーのジャケットを羽織った姿は、すっかり大人の男性だった。
でも。
立ち姿も、表情も。
理緒の知っている兄のままだった。
兄もこちらへ気付き、わずかに目を見開く。
一瞬だけ、空気が止まったような気がした。
先に口を開いたのは誠さんだった。
誠さんは気負わない調子で手を挙げる。
「よ」
兄も少し緊張したように返す。
「……久しぶり」
たったそれだけの会話。
けれど、長い付き合いの空気がそこにはあった。
誠さんはそのまま理緒の方を軽く見る。
「じゃ、俺帰るわ」
「……え?」
理緒は思わず誠さんを見る。
誠さんは当然みたいに言った。
「二人で話すんだろ」
「で、でも……」
急に不安が押し寄せる。
ここまで来る間、誠さんがいたから平気だった。
でも、
本当に二人きりになると思った瞬間、胸が苦しくなる。
理緒は咄嗟に口を開いていた。
「……行かないでっ」
自分でも驚くくらい、子どもっぽい声だった。
誠さんは少しだけ目を丸くする。
それから、困ったように笑った。
「神崎さん」
優しい声だった。
「大丈夫だから」
理緒は何も言えない。
誠さんは安心させるように続けた。
「ちゃんと話してこい」
そう言って、軽く手を挙げる。
「終わったら連絡して」
それだけ残して、誠さんは本当に立ち去ってしまった。
理緒はしばらく、その背中を見送っていた。
やがて。
隣から、小さな声がした。
「……理緒」
理緒はゆっくり振り向いた。
兄は、どこか緊張したように理緒を見ていた。
兄は少しぎこちなく笑う。
「久しぶり」
大学の講義を終えた頃、理緒のスマホへ誠さんからメッセージが届く。
《達也とは来週土曜。昼過ぎ。場所送る》
続けて共有されたのは、都内のカフェの位置情報だった。
理緒はしばらく画面を見つめる。
いよいよ会う。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
それでも。
理緒は小さく息を吐き、《分かりました》と短く返信した。
―――
当日。
理緒は誠さんとの待ち合わせより少し早めに駅へ到着した。
休日の駅前は人通りが多い。
家族連れ。
買い物袋を下げた女性。
笑いながら歩く高校生たち。
その雑踏の中に、誠さんは自然に立っていた。
黒のパーカーにインディゴのデニム。
鞄はなく、片手にスマホだけを持っている。
理緒へ気付くと、軽く手を挙げた。
誠さんは理緒の表情を見て、少しだけ口元を緩める。
「おはよ」
「……こんにちは」
「緊張してる?」
理緒は少し迷ってから、小さく頷いた。
「……少し」
誠さんは呆れたように笑う。
「少しか?」
理緒は苦笑した。
「かなり、かもしれません」
「そりゃそうだな」
二人は並んで歩き始めた。
待ち合わせのカフェまでは、駅から五分ほどらしい。
休日の街は賑やかなのに、不思議と理緒の耳には、自分の心臓の音ばかり響いていた。
そんな理緒を見ながら、誠さんがふと思い出したように口を開く。
「そういや、達也の弱点教えてやろうか」
理緒はきょとんとした顔で誠さんを見る。
「……弱点?」
誠さんは少し笑う。
「お前、兄貴のことラスボスみたいに思ってるだろ」
「そんなこと……」
否定しかけて、言葉が止まる。
少し前までの自分なら、きっと即座に否定していたと思う。
でも今は。
理緒は小さく視線を落とした。
「……思ってた、かもしれません」
誠さんは少し意外そうに目を瞬かせる。
「素直じゃん」
「最近、色んな人に言われるので……」
「例えば?」
「まみちゃんに指摘されて……兄を神様みたいな存在だと思ってたことに気付いて……」
誠は「あー」と納得したように頷いた。
理緒は歩きながら、小さく息を吐く。
「私、兄の挫折とか、苦しんでた時期も知ってるんです」
「うん」
「でも、それでも……兄は正しい人だって思ってました」
誠は何も言わず、続きを待っていた。
「だから、兄に距離を置かれた時、“私が間違えたんだ”って思って……」
理緒は少し困ったように笑う。
「でも最近、まみちゃんも誠さんも……みんな、兄のことを普通の人として話すから」
誠は当たり前みたいに答えた。
「普通の人だよ」
「……はい。前だったら、誠さんの言ってることは、受け入れられなかったかもしれません」
理緒は少しだけ肩の力を抜く。
「でも今は、ちゃんと現実の話として聞けてる気がします」
誠は理緒を横目で見て、少しだけ目を細めた。
「成長したなぁ」
「子ども扱いしないでください」
「達也も喜ぶんじゃね」
理緒は少しだけ眉を下げる。
「……だと、いいんですけど」
誠はそこで、ふっと笑った。
「ちなみに、達也の弱点な」
「はい」
「あいつ、すごい寝相悪い」
「……」
「あと、意外と短気」
理緒は呆れたような顔をしながらも、静かに聞いていた。
誠は肩をすくめる。
「それから……勝手に一人で考え込んで限界になるタイプ」
理緒は少しだけ目を伏せる。
「……たしかに、そうだったかもしれません」
「だろ?」
誠は軽く笑った。
「だから、多分お前に対しても、“嫌いだから離れた”とかじゃねぇと思う」
理緒はゆっくり息を吸った。
「……はい」
そう返す声は、以前より少しだけ穏やかだった。
―――
やがて、待ち合わせのカフェが見えてきた。
ガラス張りの落ち着いた店だった。
その店の前に、一人の男性が立っている。
理緒の足が止まる。
兄だった。
昔より少し背が伸びたように見える。
黒縁眼鏡。
白Tシャツにグレーのジャケットを羽織った姿は、すっかり大人の男性だった。
でも。
立ち姿も、表情も。
理緒の知っている兄のままだった。
兄もこちらへ気付き、わずかに目を見開く。
一瞬だけ、空気が止まったような気がした。
先に口を開いたのは誠さんだった。
誠さんは気負わない調子で手を挙げる。
「よ」
兄も少し緊張したように返す。
「……久しぶり」
たったそれだけの会話。
けれど、長い付き合いの空気がそこにはあった。
誠さんはそのまま理緒の方を軽く見る。
「じゃ、俺帰るわ」
「……え?」
理緒は思わず誠さんを見る。
誠さんは当然みたいに言った。
「二人で話すんだろ」
「で、でも……」
急に不安が押し寄せる。
ここまで来る間、誠さんがいたから平気だった。
でも、
本当に二人きりになると思った瞬間、胸が苦しくなる。
理緒は咄嗟に口を開いていた。
「……行かないでっ」
自分でも驚くくらい、子どもっぽい声だった。
誠さんは少しだけ目を丸くする。
それから、困ったように笑った。
「神崎さん」
優しい声だった。
「大丈夫だから」
理緒は何も言えない。
誠さんは安心させるように続けた。
「ちゃんと話してこい」
そう言って、軽く手を挙げる。
「終わったら連絡して」
それだけ残して、誠さんは本当に立ち去ってしまった。
理緒はしばらく、その背中を見送っていた。
やがて。
隣から、小さな声がした。
「……理緒」
理緒はゆっくり振り向いた。
兄は、どこか緊張したように理緒を見ていた。
兄は少しぎこちなく笑う。
「久しぶり」



