委員会を終えて、家に帰る。
玄関のドアを開けると、いつも通りの匂いがした。
静かで、整っていて、少しだけ息が詰まるような空気。
「おかえり」
奥から母の声がする。
「ただいま」
それだけのやり取り。
靴を揃えて、鞄を置いて、自分の部屋に向かう。
父は、ほとんど家にいない。
会社を経営しているから、忙しいのは分かっている。
兄は、もっといない。
全寮制の高校に進学して、長期休みにしか帰ってこなくなった。
——もっとも、家にいたとしても。
会話は、なかった。
部屋に入って、鞄を机の上に置く。
制服のまま、少しだけ立ち尽くす。
静かすぎて、考えなくていいことまで浮かんでくる。
——昔は、違った。
兄とは、普通に話していた。
一緒に何かをして、笑って、競って。
父の会社を、どちらが継ぐか。
そんな話を、本気とも冗談ともつかないまま、繰り返していた。
今思えば、
兄はいつも、少しだけ手加減してくれていた。
優秀で、優しくて。
自慢の兄だった。
——その兄でも、挫折した日があった。
中学生の頃。
兄が部長を務めていた部活で、トラブルが起きた。
うまくまとめられず、何人かが辞めたらしい。
母と兄の会話を盗み聞いただけ。
でも、帰ってきた兄の様子で、なんとなく分かった。
その日、父は、珍しく早く帰ってきた。
リビングで、何気ない会話をしていた。
仕事の話。
人がうまくまとまらない、というような。
兄のことと、少しだけ重なった。
——だから、だと思う。
私は、思いついたことをそのまま口にした。
「だったら、こうしたらいいんじゃない?」
深く考えたわけじゃない。
ただ、思いついただけ。
でもそれが、父には刺さったらしい。
「なるほどな」
少し驚いたように言って、
そのあと、私を見て笑った。
「理緒は、よく考えてるな」
褒められた。
そのときは、ただ嬉しかった。
——兄が、聞いていたことにも気付かずに。
それから少しして。
私はいつもどおり、兄に話しかけた。
「勝負しよ」
何で競っていたのか、もう覚えていない。
ただ、いつもの流れだった。
でも。
「……嫌だ」
兄は、そう言った。
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「もういい」
それだけ。
終わりにするような言い方だった。
少しだけ戸惑って、
軽く、冗談みたいに言った。
「じゃあ、私がパパの会社継いじゃうぞ」
いつもと同じ調子で。
特別な意味なんて、なかった。
でも。
兄は、少しだけ間を置いてから言った。
「……継げばいいだろ」
その声は、いつもと違っていた。
「理緒の方が向いてる」
——そこで、やっと気付いた。
あの日、父に褒められたこと。
それが、兄を傷つけていたこと。
何も言えなかった。
それから、少しずつ。
距離ができた。
元に戻そうと思った。
会社を継ぐ話も、口にしないようにした。
父に褒められないように、気をつけた。
目立たないように。
余計なことを言わないように。
でも。
距離は、戻らなかった。
近付こうとするほど、
うまくいかなくなった。
そして。
兄は家を出た。
高校進学と同時に、寮に入った。
理由は――
——分かっている。
机の椅子に座る。
何もしていないのに、少しだけ疲れていた。
机の上に置いた手を、少しだけ握る。
思い出したくないのに、思い出す。
——あのときみたいに。
静かな部屋に、自分の呼吸だけが残る。
何も起きていないのに、少しだけ息苦しい。
理緒は視線を落として、ゆっくりと息を吐いた。
考えなくていいことは、考えない。
そう決めている。
だから。
もう、考えない。
そうやって、目を閉じた。
玄関のドアを開けると、いつも通りの匂いがした。
静かで、整っていて、少しだけ息が詰まるような空気。
「おかえり」
奥から母の声がする。
「ただいま」
それだけのやり取り。
靴を揃えて、鞄を置いて、自分の部屋に向かう。
父は、ほとんど家にいない。
会社を経営しているから、忙しいのは分かっている。
兄は、もっといない。
全寮制の高校に進学して、長期休みにしか帰ってこなくなった。
——もっとも、家にいたとしても。
会話は、なかった。
部屋に入って、鞄を机の上に置く。
制服のまま、少しだけ立ち尽くす。
静かすぎて、考えなくていいことまで浮かんでくる。
——昔は、違った。
兄とは、普通に話していた。
一緒に何かをして、笑って、競って。
父の会社を、どちらが継ぐか。
そんな話を、本気とも冗談ともつかないまま、繰り返していた。
今思えば、
兄はいつも、少しだけ手加減してくれていた。
優秀で、優しくて。
自慢の兄だった。
——その兄でも、挫折した日があった。
中学生の頃。
兄が部長を務めていた部活で、トラブルが起きた。
うまくまとめられず、何人かが辞めたらしい。
母と兄の会話を盗み聞いただけ。
でも、帰ってきた兄の様子で、なんとなく分かった。
その日、父は、珍しく早く帰ってきた。
リビングで、何気ない会話をしていた。
仕事の話。
人がうまくまとまらない、というような。
兄のことと、少しだけ重なった。
——だから、だと思う。
私は、思いついたことをそのまま口にした。
「だったら、こうしたらいいんじゃない?」
深く考えたわけじゃない。
ただ、思いついただけ。
でもそれが、父には刺さったらしい。
「なるほどな」
少し驚いたように言って、
そのあと、私を見て笑った。
「理緒は、よく考えてるな」
褒められた。
そのときは、ただ嬉しかった。
——兄が、聞いていたことにも気付かずに。
それから少しして。
私はいつもどおり、兄に話しかけた。
「勝負しよ」
何で競っていたのか、もう覚えていない。
ただ、いつもの流れだった。
でも。
「……嫌だ」
兄は、そう言った。
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「もういい」
それだけ。
終わりにするような言い方だった。
少しだけ戸惑って、
軽く、冗談みたいに言った。
「じゃあ、私がパパの会社継いじゃうぞ」
いつもと同じ調子で。
特別な意味なんて、なかった。
でも。
兄は、少しだけ間を置いてから言った。
「……継げばいいだろ」
その声は、いつもと違っていた。
「理緒の方が向いてる」
——そこで、やっと気付いた。
あの日、父に褒められたこと。
それが、兄を傷つけていたこと。
何も言えなかった。
それから、少しずつ。
距離ができた。
元に戻そうと思った。
会社を継ぐ話も、口にしないようにした。
父に褒められないように、気をつけた。
目立たないように。
余計なことを言わないように。
でも。
距離は、戻らなかった。
近付こうとするほど、
うまくいかなくなった。
そして。
兄は家を出た。
高校進学と同時に、寮に入った。
理由は――
——分かっている。
机の椅子に座る。
何もしていないのに、少しだけ疲れていた。
机の上に置いた手を、少しだけ握る。
思い出したくないのに、思い出す。
——あのときみたいに。
静かな部屋に、自分の呼吸だけが残る。
何も起きていないのに、少しだけ息苦しい。
理緒は視線を落として、ゆっくりと息を吐いた。
考えなくていいことは、考えない。
そう決めている。
だから。
もう、考えない。
そうやって、目を閉じた。
