始業式を終えて昇降口へ向かうと、いつもの場所に藤森先輩が見える。
少しの安堵と、戸惑い。
理緒は一度だけ表情を整えてから、下駄箱で靴を履き替え、先輩に声をかけた。
「お待たせしました」
「おう。久しぶり」
いつもと変わらない声。
その一言だけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「お久しぶりです。……あの……約束の日、直前にすみませんでした」
「仕方ない時もあるよ」
軽く言って、先輩はいつものように理緒の頭に手を置く。
その感触に、少しだけ呼吸が乱れる。
「……あ、でも……俺も、謝らないといけない」
理緒は顔を上げる。
先輩の表情が、ほんの少しだけ曇っている。
「なんですか?」
自分でも分かるくらい、声が少しだけ固くなる。
「……夏休み終わって、部活も引退して。塾、行くことになった」
一拍。
「……だから、こうやって一緒に帰れなくなる」
理緒の思考が、一瞬遅れる。
言葉の意味は分かるのに、少しだけ現実として落ちてこない。
「あ……そうですよね。受験生ですもんね」
とりあえず出てきた言葉を、そのまま口にする。
「うん……ごめん。待ってるって言ったのに」
「大丈夫です。塾、頑張ってください」
言いながら、どこかで“これでいいはず”と思っている。
先輩は少しだけ視線を落とす。
「……俺が、大丈夫じゃない」
「え……」
理緒の視線が、少し遅れて先輩に向く。
「……だから、必ず会える時間は作る」
その言葉が、まっすぐ落ちてくる。
理緒は、すぐに答えられなかった。
何か言おうとして、言葉が見つからない。
“どう返せばいいか”を考えている自分に気づく。
少しだけ間が空く。
「……はい」
やっと出たのは、それだけだった。
自分でも、ちゃんと受け取れているのか分からないまま。
でも、それ以上の言葉は出てこなかった。
---
始業式から数日。
一緒に帰らなくなってから、先輩と過ごす時間はほとんどなくなっていた。
理緒は夕食を終え、自室でぼんやりと過ごしていた。
そのとき、スマホが小さく震える。
画面を見る。
——藤森先輩。
一瞬だけ、心臓が強く鳴る。
メッセージを開く。
「今、家の前に出て来れる?」
理緒はすぐに立ち上がった。
カーテンを開けて外を見ると、家の前で手を振る先輩の姿が見える。
考えるより先に、部屋を飛び出していた。
階段を駆け下り、玄関を出る。
「先輩!?」
少し息が上がったまま声をかけると、先輩は軽く手を上げた。
「よっ」
「どうしたんですか?」
「塾の後の寄り道」
少しだけ間を置いて、
「……だから、長くは居られないけど」
理緒は一瞬だけ言葉を失う。
「塾、お疲れ様です」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「うん、疲れた」
先輩は少しだけ笑う。
「……でも、寄り道できるからいいかも」
その言い方が、妙に軽くて。
でも、軽くないことも分かる。
「……ありがとうございます」
「……どういたしまして」
少しだけ間が空く。
「勉強、順調ですか?」
「ん……分かるとこ増えてきたかな」
「よかったです」
会話は続いているのに、どこかぎこちない。
前みたいに、自然に言葉が出てこない。
「夕食は、まだですか?」
「うん……お腹ペコペコ」
少しだけ肩をすくめる。
「神崎は?」
「私はさっき食べました」
「そっか。いつもそのくらい?」
「はい……7時くらいです」
「……そっか」
沈黙が落ちる。
夜の空気が、少しだけ涼しい。
このまま立っていれば、まだ一緒にいられる。
でも——
理由が、ない。
理緒は小さく息を整える。
「……あの」
先輩が視線を向ける。
「帰らなくて大丈夫ですか?家族も心配するし……お腹もペコペコって……」
言いながら、自分で分かっていた。
——帰ってほしいわけじゃない。
——でも、帰らせたくないわけでもない。
そのどちらも言えない言葉だった。
先輩は少しだけ視線を逸らす。
「……あー……うん」
一拍。
「……帰る、けど」
その“けど”の先は、続かなかった。
理緒の胸が、少しだけ締まる。
ほんの一瞬だけ、思う。
——もう少し、話していたい。
でも。
それを言う理由がない。
だから、何も言わない。
「……気を付けて帰ってください」
結局、出てきたのはそれだけだった。
先輩は少しだけこちらを見る。
何かを言いかけて、やめる。
「……毎日は来れないけど」
小さく息を吐いて、
「また来てもいい?」
理緒は一瞬だけ迷う。
でも、その迷いはすぐに消えた。
「……はい」
それ以上の言葉は出てこない。
先輩は少しだけ目を細める。
そして、いつものように理緒の頭に手を置いた。
軽く触れるだけのはずなのに、
その場所だけが妙に意識に残る。
「じゃ」
短く言って、自転車に跨がる。
ペダルを踏み出す前に、ほんの一瞬だけこちらを見る。
でも、すぐに前を向いた。
そのまま走り去っていく。
理緒は、その背中を見送る。
暗くなり始めた道に、先輩の姿が小さくなっていく。
——終わったわけじゃない。
でも。
——前とは、違う。
胸の奥に、静かに残る感覚。
理緒は小さく息を吐いた。
少しの安堵と、戸惑い。
理緒は一度だけ表情を整えてから、下駄箱で靴を履き替え、先輩に声をかけた。
「お待たせしました」
「おう。久しぶり」
いつもと変わらない声。
その一言だけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「お久しぶりです。……あの……約束の日、直前にすみませんでした」
「仕方ない時もあるよ」
軽く言って、先輩はいつものように理緒の頭に手を置く。
その感触に、少しだけ呼吸が乱れる。
「……あ、でも……俺も、謝らないといけない」
理緒は顔を上げる。
先輩の表情が、ほんの少しだけ曇っている。
「なんですか?」
自分でも分かるくらい、声が少しだけ固くなる。
「……夏休み終わって、部活も引退して。塾、行くことになった」
一拍。
「……だから、こうやって一緒に帰れなくなる」
理緒の思考が、一瞬遅れる。
言葉の意味は分かるのに、少しだけ現実として落ちてこない。
「あ……そうですよね。受験生ですもんね」
とりあえず出てきた言葉を、そのまま口にする。
「うん……ごめん。待ってるって言ったのに」
「大丈夫です。塾、頑張ってください」
言いながら、どこかで“これでいいはず”と思っている。
先輩は少しだけ視線を落とす。
「……俺が、大丈夫じゃない」
「え……」
理緒の視線が、少し遅れて先輩に向く。
「……だから、必ず会える時間は作る」
その言葉が、まっすぐ落ちてくる。
理緒は、すぐに答えられなかった。
何か言おうとして、言葉が見つからない。
“どう返せばいいか”を考えている自分に気づく。
少しだけ間が空く。
「……はい」
やっと出たのは、それだけだった。
自分でも、ちゃんと受け取れているのか分からないまま。
でも、それ以上の言葉は出てこなかった。
---
始業式から数日。
一緒に帰らなくなってから、先輩と過ごす時間はほとんどなくなっていた。
理緒は夕食を終え、自室でぼんやりと過ごしていた。
そのとき、スマホが小さく震える。
画面を見る。
——藤森先輩。
一瞬だけ、心臓が強く鳴る。
メッセージを開く。
「今、家の前に出て来れる?」
理緒はすぐに立ち上がった。
カーテンを開けて外を見ると、家の前で手を振る先輩の姿が見える。
考えるより先に、部屋を飛び出していた。
階段を駆け下り、玄関を出る。
「先輩!?」
少し息が上がったまま声をかけると、先輩は軽く手を上げた。
「よっ」
「どうしたんですか?」
「塾の後の寄り道」
少しだけ間を置いて、
「……だから、長くは居られないけど」
理緒は一瞬だけ言葉を失う。
「塾、お疲れ様です」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「うん、疲れた」
先輩は少しだけ笑う。
「……でも、寄り道できるからいいかも」
その言い方が、妙に軽くて。
でも、軽くないことも分かる。
「……ありがとうございます」
「……どういたしまして」
少しだけ間が空く。
「勉強、順調ですか?」
「ん……分かるとこ増えてきたかな」
「よかったです」
会話は続いているのに、どこかぎこちない。
前みたいに、自然に言葉が出てこない。
「夕食は、まだですか?」
「うん……お腹ペコペコ」
少しだけ肩をすくめる。
「神崎は?」
「私はさっき食べました」
「そっか。いつもそのくらい?」
「はい……7時くらいです」
「……そっか」
沈黙が落ちる。
夜の空気が、少しだけ涼しい。
このまま立っていれば、まだ一緒にいられる。
でも——
理由が、ない。
理緒は小さく息を整える。
「……あの」
先輩が視線を向ける。
「帰らなくて大丈夫ですか?家族も心配するし……お腹もペコペコって……」
言いながら、自分で分かっていた。
——帰ってほしいわけじゃない。
——でも、帰らせたくないわけでもない。
そのどちらも言えない言葉だった。
先輩は少しだけ視線を逸らす。
「……あー……うん」
一拍。
「……帰る、けど」
その“けど”の先は、続かなかった。
理緒の胸が、少しだけ締まる。
ほんの一瞬だけ、思う。
——もう少し、話していたい。
でも。
それを言う理由がない。
だから、何も言わない。
「……気を付けて帰ってください」
結局、出てきたのはそれだけだった。
先輩は少しだけこちらを見る。
何かを言いかけて、やめる。
「……毎日は来れないけど」
小さく息を吐いて、
「また来てもいい?」
理緒は一瞬だけ迷う。
でも、その迷いはすぐに消えた。
「……はい」
それ以上の言葉は出てこない。
先輩は少しだけ目を細める。
そして、いつものように理緒の頭に手を置いた。
軽く触れるだけのはずなのに、
その場所だけが妙に意識に残る。
「じゃ」
短く言って、自転車に跨がる。
ペダルを踏み出す前に、ほんの一瞬だけこちらを見る。
でも、すぐに前を向いた。
そのまま走り去っていく。
理緒は、その背中を見送る。
暗くなり始めた道に、先輩の姿が小さくなっていく。
——終わったわけじゃない。
でも。
——前とは、違う。
胸の奥に、静かに残る感覚。
理緒は小さく息を吐いた。



