雨が好きな理由

 「美姫(みき)ちゃんおはよう」


 「瑠衣(るい)くん、おはよう」


 家の前で待っていてくれた瑠衣くんと合流する。空色を基調とした水玉模様の傘を差して。


 そうしてどちらからともなく歩き始める。


 小学生の頃から変わらない習慣。


 瑠衣くんが待って、私は待たせる。待ち合わせの時間を破っているわけじゃない。


 ただ、瑠衣くんの準備が早いだけ。


 ただし、今はそれも雨の日限定。


 「なんか久しぶりだな、こうやって一緒に登校するの」


 「最近雨降ってなかったもんね」


 だから嬉しい。そう思っているのは、多分私だけ。


 「でも梅雨だからさ、これからは結構一緒に行けるんじゃない?」


 「そうだね」


 平静を保つのに必死だった。


 一緒に学校へ行けることを、瑠衣くんも嬉しく思っているかもしれないって、期待して。


 「にしても梅雨かぁ。もう中学入学してから二か月経つんだな」


 「あっという間だった?」


 「うん、めっちゃ充実してたから!」


 「そっか……」


 喜ばしいことなのに、心がモヤモヤする。陸上部のある部員を想像して。


 「美姫ちゃんは、いじめとかされてない?」


 「ううん、されてないよ」


 されてない。でも、それだけ。


 「そっか、よかった。同じクラスじゃないから、心配で」


 「大丈夫だよ」


 努めて笑顔を作る。瑠衣くんも控えめに笑みを浮かべた。


 だけど知っているはず。いじめられてなくても、私が浮いていることは。それに昔のこともあるから。


 少し微妙な空気になって、周りは雨とローファーが地面を踏む音しか聞こえなくなる。


 空から落ちる重い雫がアスファルトに弾くたび、せっかくの貴重な瑠衣くんとの時間を無駄にしているような気分になった。


 すぐ隣を歩いているはずなのに、やけに遠くに感じてしまうのはどうしてだろう。まるで瑠衣くんが何本も向こうの通りを歩いているみたいだった。


 「水玉模様、好きだったっけ」


 「え、あ。うん」


 理解しきれてなくて、最初の返事がおかしくなる。ようやく私の傘のことだと気づく。


 「雨みたいだなって」


 「え。美姫ちゃん、雨好きだったんだ。知らなかったな」


 幼なじみでも知らないことってたくさんあるんだね、と瑠衣くんは続ける。


 知らないのが当たり前だよ、と心の中で呟く。


 雨を好きになったのは、つい最近のことだから。


 もっとお互い近くにいた、小学生の頃からじゃない。


 「瑠衣くんは、雨好き?」


 好きって答えてほしい。


 「好きだよ」


 「ほんとに!」


 望み通りの返事に、驚きと喜びが混ざり合う。


 「うん。雨降ったら、きつい屋外の練習なくなるから」


 「そっか、陸上部って大変なんだね」


 期待が膨らんだのは束の間のこと。あとは、収縮してなくなるだけ。


 水たまりが陽射しで蒸発して空へ帰るように。


 「そうなんだよ。少しでもタイム下がるとすぐ顧問が‘‘もいっかい‘‘ってさ」


 「じゃあ、今日はラッキーなの?」


 「うん、ラッキー!」


 にこっと瑠衣くんが笑った。降りしきる雨を星に変えてしまうほど、眩く。


 急に恥ずかしくなってきた。この傘を差すことが。


 ぎゅっと持ち手を掴むと、傘の角度が変わって風が吹き込んできた。


 下ろしていた背中までの髪がふわり揺れる。


 「首、赤くなってない?」


 「え」


 風の拍子で乱れた髪をかき分けながら、指先が首の皮膚に触れる。恐る恐る撫でると、ぶつぶつとした感触が伝わってきた。


 「ほんとだ」


 「ゴム、持ってる?」


 「持ってるけど……」


 「結びなよ」


 「え、でも」


 「傘なら、持っておくから」


 瑠衣くんが手を伸ばしてくる。


 だけど持つ前にそれは離れていった。


 私の指に当たったことで。まるで熱いものに触れたみたいに。


 「ごめん」


 「ううん。こっちも、普通に渡しちゃってごめんね」


 持ち手の先端に熱を帯びた指を置く。今度こそは触れないよう。


 さっきよりも速度を落として瑠衣くんが手を伸ばしてきた。


 傘の受け渡しに次は成功した。瑠衣くんが受け取って、私が渡す。まるでバトンみたい。


 傘の重みを失くした手で鞄から黒ゴムを探して、取り出す。


 手首にそれを引っかけてから、両手で後ろ髪をひとまとめにしてゆく。


 手櫛で膨れた頭頂部の髪を、乱れた眉下までの前髪を丁寧に整える。


 時間をなるべくかけず、だけど少しでも良く見せるために。


 黒ゴムで髪を結ぶ時、ふと瑠衣くんは何をしているだろう、と顔を上げたら。


 「あ」


 声と、それから視線が重なる。


 昔から変わらない大きくて、二重瞼の瞳。その黒目は両方とも左へと流れた。


 もしかしてこの一連の動作をずっと見てくれてた、なんて。そんなことあるわけないのに。
 でも、嬉しい。
 勘違いできることにすら、幸せを感じてしまって。


 「じゃあね、美姫ちゃん」


 「うん。ばいばい」


 私の教室の前でお互い手を振る。


 瑠衣くんの背中が小さくなってゆく。それだけならまだよかった。


 「瑠衣」


 遠くからでもしっかり響く声。その声の主が瑠衣くんに近づく。新井理代(あらいりよ)さん。


 瑠衣くんと同じ陸上部。


 スカートの裾は膝よりちょっと上で、髪は耳の先端にかかるくらいの短さ、整った顔立ち。


 大人っぽいけど、私や瑠衣くんと同じ中学一年生。


 瑠衣くんの顔の角度が変わる。こっちじゃなくて、新井さんのほう。


 「あ、理代。おはよう」


 呼び捨てだった。私はずっとちゃん付けなのに。


 ずきっと胸の奥で変な音がした。ほどなくして、痛みが襲ってくる。


 なら、逸らせばいい。見なければいいのに。だけど足は、心は教室へ向かわなかった。


 さらに遠ざかる二人の姿。会話も聞こえない。


 どんな話をしているんだろう。私たちの時みたいな、ぎこちない会話?


 ううん、違う。そもそも呼び捨ての時点で、私は負けている。


 二人の肩が小刻みに震えては、そのたび手を顔に近づけた。笑っている。いくら小さくなっても見えてしまう。


 二人が同じ教室に入って、やっと私の足も動いてくれた。


 席は、廊下側から二番目の一番後ろ。


 窓が遠いから、せっかくの雨もじっくり眺められない。


 中学生になったばかりの頃だった、雨を好きになったのは。


 中学で陸上部に入った瑠衣くんは、朝練で早くに家を出てしまう。晴れの日も、曇りの日も。


 だから雨を好きになった、水玉模様の傘だって買った。


 理由は全部、瑠衣くんだった。


 チャイムが鳴って、ホームルームが終わる。廊下が授業に向けてざわつく。


 窓と反対側へ首が動いた。片手を上げて準備する。


 来た。


 上げた手を振る。思いっきりだと恥ずかしいから、遠慮がちに。


 廊下を歩く瑠衣くんが、返してくれる。


 胸が一気に熱くなって、たとえ通り過ぎても、温かいままで。


 そのたび私は、自覚してしまう。


 瑠衣くんのことを、幼なじみとして見れていないことに。


 瑠衣くんに片想いしていることを。


 やがて始業のチャイムが鳴る。高鳴った私の気持ちを冷ますように。


 授業が長く感じる。集中しようにも、今朝のことが頭の中を回って余計に。


 瑠衣くんと登校するのは、本当に久しぶりだったから。


 『幼なじみでも知らないことってたくさんあるんだね』


 何度も浮かんでしまうフレーズ。


 知らなかったんじゃなくて、知れなかった。


 私のほうが、そうだった。


 今の瑠衣くんのこと、知れてない。


 何を思いながら、私と雨の日歩いてくれるのか。新井さんと、どんな関係なのか。


 分からない。


 だからこそ、その空白を無理にでも埋めようとしてしまう。


 瑠衣くんが、新井さんに気があるのかもって。


 何の確証もないのに、頭の中で書いてみると、それが正解にしか見えなくなって。


 私も、もし新井さんみたいになれたら。


 明るくて、コミュ力があって、運動もできる完璧な女の子。私にないものを全て持っていて。


 とても敵う相手じゃない。これといった取柄もない私じゃ。


 だけど、もしそうなれたら、瑠衣くんの隣を歩けるのかな。短い距離感で話せるようになるのかな。


 幼なじみじゃなくて、一人の女の子として。


 だから、決めた。


 新井さんみたいになろうって。


 できれば、好きになってもらえるように。




 屋根に雨が弾かれる。その音が私のいる一階の洗面所にまで届く。


 昨日に続いて瑠衣くんに会える、なんてことはない。今日は休みだから。


 決意に悩まされ、朝、お昼と過ぎて、今や夕方にまでなりかけている。


 新井さんみたいになる、そのための一歩を踏むため、まずは見た目から変えようと思った。


 背中まである髪を短く切って、新井さんのようなショートカットにしようと。


 だけどなかなか実行に移せないでいる。


 洗面所に来ては、自室に戻る。飽きるほど、その往復を繰り返していた。


 切るために結んだポニーテールを掴んで、撫でる。


 美姫ちゃんの髪綺麗だね、お姫様みたい。


 そう幼い瑠衣くんの声が蘇るたび、迷ってしまう。私にとっても大切だった髪だから。


 でも、同時に浮かぶのは、瑠衣くんと新井さんが親し気に話している様子。


 鏡を改めて見つめる。昔と変わらない見た目。ただ背が伸びただけ。


 やっぱり切らないと。いつまで経っても幼なじみとしか、きっと見てもらえない。


 あの頃の誉め言葉は全部、幼なじみの私に向けたもの。女の子としてじゃない。


 洗面所に置いてあるハサミに手を伸ばす。掴んだ瞬間、身体全体にひんやりとした感触が伝わった。


 手が汗ばんでくる。指を動かすとチャキチャキ、とハサミの空気を切る音が鈍く聞こえた。


 それをポニーテールの根元へ近づけ、一気に閉ざす。


 バサッと一本の髪の束が洗面所の床に落ちるはずだった。なのに舞っているのは数えられるほどの本数だけ。


 何回も挟むことでやっと切れた。頭が軽くなる。


 新井さんみたいなショートカットができた、とはならなかった。


 「なに、これ……」


 一人でそう呟いてしまうほどの、ひどい容姿になっていて。


 全部の髪の長さが違う。襟足も耳元も。


 恐る恐る後頭部に触れると、変な感触が伝わってきて、すぐに指を引っ込めた。まるでお父さんの髭を触っているようで。


 涙が出そうになる。それが私の後頭部に広がっていると思ったら。


 自分で決めたことなのに、頭の中は既に後悔しかない。


 こんなはずじゃなかった。鏡には、もっと綺麗な短い髪の私が映ると思ってたのに。


 「ちょっと美姫、なにやってんのよ!?」


 声の方に目をやると、お母さんがいた。帰ってきたことに気づきもしなかった私は、声も上げず、静かに驚くことしかできない。


 床に落ちている一本の大きな髪の束。そして、悲惨な私の髪型。全部見られたくないものばかり。


 「髪の毛切ってた」


 「見ればわかるわよ。なんで?」


 「……暑かったから」


 我ながら適当すぎる嘘。好きな幼なじみに振り向いてほしかったから、なんて言えるわけない。


 お母さんは小さくため息を付いた後、腑に落ちない顔で持っていた鞄を漁り始める。


 「とりあえず、これで整えてきなさい」


 お財布から何枚かのお札を抜いて、私に手渡してきた。遠回しに変だと、言われたようなもの。


 「行ってくる……」


 自分でも思ってたけど、人に思われるのとはまた違う。


 切り離された今もなお、艶のある一本の大きな髪の束。持ち上げると、想像より重かった。


 近くのごみ箱にそっと捨てたら、激しい喪失感に襲われた。取り返しのつかないことをやってしまったと、今さら。


 灰色のパーカーを羽織り、フードを深く被る。


 いつもより重い扉を開けると、雫は見当たらなかった。いつの間にか止んでいて。


 水玉模様の傘を置いて外に出る。


 どんよりとした雲が頭上に広がっていたけど、気にせず。




 灰色の雲の下、やっぱり重い足を引きずるようにして歩く。


 しばらく歩いていると、ある建物が近づいてきた。普段通っている美容院。


 極限まで近づいては、遠ざかってゆく。こんな状態で入店できるはずもなかった。担当してもらっている美容師さんに合わせる顔がない。


 どこで切ろうか、そもそも他の場所を知らない。


 ポタ


 頬の一部分が冷たいもので刺された気がした。


 それは指先に触れ、グレーのパーカーに黒い染みを作ってゆく。


 雨だった。大好きだったはずなのに、今は苦しいだけ。


 辺りを見回した後、仕方なくさっきの美容室まで戻ろうとした時だった。


 目立たない風貌をしているから、普段は通りすぎてしまう場所。


 赤と青と白が回るサインポール。看板に浮かぶ店名の文字は、薄く、さび付いていた。時の流れを強く感じる。


 間違いない、ここはお父さんが通う理容室。


 頭で理解した途端、糸のように見えていた雨が消えた気がした。


 お父さんと、それから瑠衣くんの幻が映る。


 そうだった。私もこの理容室、行ったことがあった。お父さんと一緒に、何度も。用事もないのに。


 いや、あった。ごくたまにだけど、理容室で瑠衣くんと会えることがあったから。


 待合室で二人を待って、終わったらそのまま瑠衣くんと遊んで。


 楽しかったなぁ。


 やっぱり思い出すのは、瑠衣くんのことだった。


 指先に冷たい感覚が戻る。視界に雨が蘇った。


 パーカー全部が黒く染まる前に、理容室の扉を開けた。勇気を振り絞って、勢いよく。


 そのまま店内に入ると、雨の音が止んだ。ずっとここにいたら、外が泣いていることにも気づかないくらい、静かだった。


 床に落ちている髪を掃除している女性が顔を上げる。あの頃よりも皺が多くなった顔を。


 いらっしゃい、と言いかけたところで、その人は目を丸めて。


 「もしかして、美姫ちゃん?」


 「はい、お久しぶりです……」


 覚えていることに驚いて、声が尻すぼみになってしまう。


 「まぁ、ずいぶん濡れてるじゃない。タオル、持ってくるわ」


 慌ただしく奥へ消えたかと思えば、すぐに戻ってきた。片手にタオルを持って。


 「ありがとうございます」


 受け取ったタオルで、手や顔、パーカー、ズボンを拭いてゆく。パーカーは黒いままだった。


 「見ないうちに大きくなったね。そういえば、お父さんは?」


 「あ、えっと……」


 ここに来る時は、いつだってお父さんがいた。私はあくまで付き添いだったから。でも今は。


 「今日は私が切ってもらいたくて」


 「え、お嬢ちゃんが⁉」


 どうして、と迫られて、躊躇いを含んだ指をフードに乗せる。今から頭に起きた惨状を晒すとなると。


 でもそうしなきゃ、来た意味がなくなってしまう。


 意を決してフード脱ぐ。女性の表情はさらに驚きの色を濃くさせた。恥ずかしくて堪らない。

 
 「その髪……どうしちゃったの?」


 「もうすぐ夏だから、短いのもいいかなって思いまして。でも自分で切ったら失敗してしまったので、ここで整えてほしいです」


 嘘を散りばめながらも、ちゃんと注文をこなせた。後戻りはできない。


 「そう……わかったわ。もっとよく見せてもらっていい?」


 「どうぞ」


 私の頭を女性がじっと観察し出した。手で撫でられているような、ぞわっとした感覚を覚える。


 浮かべる女性の表情が、嫌な予感を湧かせて。


 「後頭部の真ん中あたりが一番短いんだけど、そこに合わせるとなったら全体的に相当切らないとかな」


 「……そうですか」


 ずん、と身体が重くなる。切らなきゃよかった。それだけがのしかかって。


 具体的にどんな髪型にするか、女性は丁寧に説明してくれた。今の私の耳が優秀じゃないから、どれも拾えなかったけど。


 なるべく長さは残すから。


 それが唯一の心の支えだった。


 黒くてふかふかしていそうな椅子へ案内される。向かいには当然ながら鏡もあった。


 奥にも理容室があると思わせるくらい、磨かれた鏡。


 座ると、想像通りの感触が腰から伝わってきた。


 目はまっすぐに向けられなかった。綺麗すぎる鏡は、どこまでも私を醜く映すから。


 「じゃあ、さっき説明したとおりでいいね?」


 「はい、お願いします……」


 内容なんて、これっぽちも覚えてない。


 ただ、女性のさっきの言葉を信じるしかない。


 ケープを巻かれることで、緊張が強く走った。


 少し皮の伸びた指が、うなじに触れる。襟足の髪を持ち上げられて、首に空気が通った。


 サク


 刃と刃が擦れ合って、鋭い音が響く。


 重力に従って髪は戻ってゆくはずなのに、いつまで経っても首に髪がかかることはなかった。


 女性は何の躊躇いもなく、二枚の刃を交差させてゆく。襟足から後頭部の真ん中辺りまでを何度も往復して。


 とうとう床さえも見れなくなった。白かったはずの床が黒くなり始めて。


 女性が私のそばを離れた。


 もしかして終わった、と安堵しかけた時。


 「ちょっとこれで整えるからね」


 女性が持つ黒い物体に、ずっと抱えていた不安ごと凍り付いた。


 バリカン。


 お父さんや瑠衣くんが散髪する時にしか見たことがなかったそれが、私の頭に近づいてくる。


 嫌だ、来ないで。心の中でそう叫ぶも、ついに音まで鳴り出して。


 襟足にくっつくと、一際鳴き声が大きくなる。
 頭が軽くなって、梅雨なのに寒いとさえ思うようになった。上へ上へ、未知の機械が目指すたび。


 後頭部の真ん中までの往復が終わると、女性は今度左に立つ。


 まだ唸っているそれを、容赦なくもみ上げから耳の上へ通してゆく。同じことを右も。


 耳の淵にも、髪はかからなくなった。


 目頭が熱くなる。我慢の限界はもう近い。


 いくら視覚を消したところで無駄だった。聴覚とか触覚がその分研ぎ澄まされて。余計に自分が変わってしまったことを感じさせられて。


 髪を食べ尽くした機械がやっと鳴くのを止めた。でも、もう遅い。


 諦めて鏡を見ると、知らない人と目が合う。女の子というより男の子だった。


 後ろは見えないけど、耳周りの髪は地肌が見えるほど刈り揃えられていて。頭頂部こそ、まだ天使の輪が作れるほど長さが残っていたものの。


 頭の上には、ハサミを持った女性がいる。口角を上げながらも、目尻を下げて。


 シミと皺が刻まれた指が、長さの残る髪を半分のところで挟むと。


 サク


 指の上をハサミが通って、髪が落ちてきた。バリカンの時よりも明らかに長い一房。


 光の輪が崩れてゆく。頭頂部の髪が重力に屈するのをやめて、抗い始めていた。


 それに合わせて前髪にもハサミが入る。眉下で揺れていた毛先が、今や頭頂部の髪と一体化しようとしていた。


 丁寧に前髪を整えていた昨日が遠い昔のよう。


 見た目は強くなって、心は弱くなってゆく。


 それから記憶はほぼない。セニングとか産毛処理とか色々された気がするけど、何も。


 代わりに再生されたのは、瑠衣くんと過ごした眩しい日々たち。


 どこを切り取っても、瑠衣くんはかっこよかった。


 特にあの雨の日は。




 小学五年生の、梅雨。


 その時期は、いつも気分が晴れなかった。窓際の席だった私の耳には、必ず雨音が届くから。


 雨なんて嫌いだった。


 じめじめするし、髪の調子は悪くなるし。


 何より一番嫌だったのは、瑠衣くんと離れて歩くことだった。傘の幅だけ。


 その日は、もっと最悪なことがあった。


 朝登校して、教科書を机の中に入れようとした時のこと。


 べちょっ


 不快な音だった。しかも教科書は奥まで行ってくれなくて。


 見たくない。でもそれじゃ、謎のまま。
 ゆっくり、勝手に開いた扉の部屋をそっと覗くように。


 予想通りだった。


 雨水をたっぷり吸った折り畳み傘があって。
 

 と、同時にくすくす笑う声が、辺りの空気を汚した気がした。私に向けた悪意のある話も聞こえてくる。


 振り返りもしない。誰かも分かっているし、これが初めてなわけじゃないから。むしろマシな方。


 ポケットからハンカチを取り出して、机の中を拭き始める。


 ちらっと瑠衣くんの方を見ると、友だちと楽しそうに談話していた。気づかれていない。


 普通の傘を堂々と机の上に置かれたこともあった。でも、瑠衣くんが気づいて、相手を問い詰めてくれたから、度を越したいじめはなくなった。


 でも、バレないそういったことは、むしろ増えてしまった。


 憂鬱なまま、一日が過ぎてゆく。もう乾ききった机の中から荷物を取り出していると。


 「今日、塾あるから先帰るね」


 瑠衣くんの大きな瞳が申し訳なさそうに細められる。強く首を横に振ってから。


 「ううん。また明日ね」


 そんな顔をしてほしくなくて、無理に笑みを浮かべる。


 やがて瑠衣くんも表情を緩めて、手を振りながら教室を出ていった。


 少しして、私も荷物をまとめ終える。教室を出て、玄関で傘置き場に来た時だった。


 傘がない。


 そう気づくのと、外から笑い声が聞こえたのは同時だった。


 朝、クスクス笑って、さらに私の悪口を吐いてた女の子。それだけじゃない。


 今までされてきた嫌がらせは、全部彼女が関わっているから。


 返して。私の傘なのに。


 叫んで、その望みを叶えてほしいけど、できない。


 そしたら、もっとひどいことをされるかもしれない。臆病な私が顔を出して。


 傘置き場には、まだ傘があった。目もくれないけど。


 しばらく待っても、止む気配はない。何度も迷って、仕方なく一歩を踏み出した。


 雨が容赦なく私を濡らしてゆく。顔も、髪も、手も、服も、全部。頭上にもう一人自分が乗っているかのような重さだった。


 構わず進む。これ以上背負い込んだら、どうかしてしまいそうで。


 「美姫ちゃん」


 雨は弱まっていないのに、なぜか響いた。雨を跳ね返すアスファルトから目を離す。


 「瑠衣くん……」


 目の前に瑠衣くんを見つけた途端、雨が止む。ううん、止ませてくれた。すぐに傘を差し出してくれて。


 ほどなくして私の手首を掴み、向かおうとしていた方と逆に進もうとするから。


 「瑠衣くん、塾は?」


 「それどころじゃないだろ」


 より力を込められて、引っ張られる。傘は依然と私の真上にあって。


 「瑠衣くん、濡れてるよ。風邪引いちゃう……」


 瑠衣くんの傘だけじゃ、二人は入りきらなくて。しかも瑠衣くんの身体はほとんど外へ出てしまっている。私を優先的に傘へ入れているから。


 なのに、言葉は返ってこない。必然的に雨が地面を叩く音だけになる。


 手首から、濡れた身体全体が温かくなってゆく。皮膚にこびり付いた雫が小さくなって、空気に溶けるくらい。


 なされるがまま、着いたのは瑠衣くんの家。そばには私の家もある。


 「じゃあ、わたし家戻るね。傘、入れてくれてありがとう」


 鍵も渡されているし、あとは自分で何とかできるから、離れようとした。


 でも、どうしてか手首の力は緩まなくて。


 「ダメ」


 地面に雨が当たる音とは違う響き。だから、短くても簡単に聞き取れてしまう。その一言の続きだって。


 「一人になんてできないから」


 頬に水の流れができる。きっと雨で濡れたせい。


 結局、家の中に通されてしまう。何度も来たはずなのに、初めての場所に思えた。


 「とりあえずシャワー浴びて」


 「え、でも……」


 「行って」


 有無も言わせず、脱衣所へ押し込まれる。瑠衣くんだって濡れてるのに。


 迷うけど、余計に困らせてしまうからと、服を脱いでシャワーを浴びることにした。


 本当に身体が温まってゆく。頭のてっぺんから、つま先まで。


 お風呂場を出ると、服が用意されていた。緩そうなスウェットで、サイズ的に瑠衣くんのだと分かってしまう。


 頭がくらくらしてきた。のぼせたのかな、と思うほどに。


 脱衣所を出て、居間へ向かうと、瑠衣くんがいた。ドライヤーを片手に。その先には私の服が干されていて。


 ドライヤーの音が大きくて、呼びかけても気づいてもらえない。今度はもっと張り上げると。


 「あ、美姫ちゃん。シャワー浴びたんだね」


 音が止んで、部屋が静まり返った。瑠衣くんが振り返って、私を見る。上へ下へ。上に戻っても、視線は私の目じゃない方を向いてる気がした。


 「う、うん。ありがとう。服も、乾かしてくれてたんだね」


 「もうちょっとだから。あ、その前に」


 髪乾かすよ、と今は休んでいるドライヤーを軽く振る。さすがに申し訳なくて。


 「いいよ。家でやるから……」


 「風邪引いたらどうするんだよ。いいから、ちょうど出てるし」


 座って、と促されると、もう従わざるを得ない。すぐに心地よい温度と強さの風が吹いてきた。


 ふわっと髪が揺れるたび、毛に絡まる水がどこかへ飛んでは消えてゆく。時折、頭皮に触れる瑠衣くんの指がくすぐったい。


 音が再びなくなると、瑠衣くんは手櫛で髪を整えてくれた。


 「美姫ちゃんの髪綺麗だね、お姫様みたい」


 「そんなことないよ」


 なんて、本当は嬉しい。私自身のことを綺麗と言ったわけでもないし、たとえその優しさが幼なじみだから、がつくとしても。


 大事にされてるって、痛いほど感じて。


 目元が緩んできた。もう雨のせいにできないから、我慢して。


 朝は傘あったよね。誰に傘取られたの?


 助ける人の誰もが、訊いてくることを瑠衣くんは口にしなかった。


 何があったかもう知っている、優しい手櫛の感触がそう伝えている気がして。


 その日を境に、些細ないじめもなくなった。


 嫌いじゃなくなったのは、雨。


 好きになったのは瑠衣くん。


 全ては、瑠衣くんとの優しい思い出のおかげ。


 だからこそ、好きになってほしかったのに……。




 「はい、終わりました。どうですか?」


 現実に戻された私は、唖然とする。視線を横にずらしながら返事を考えた。


 「……いいと思います。ありがとうございました」


 出そうな涙とため息を我慢して鏡を改めて見る。


 なるべく長さは残すから、は一体何だったのか。


 映るのは、バリカンの鳴き声が止んだ時よりも、すっかり男の子らしくなった私。


 新井さんどころか、切りたてのお父さんや瑠衣くんみたいな髪型になってしまった。


 お会計を済ませて、出入り口へ向かおうとしたら。


 「雨、強いけど大丈夫? 傘持って行ったら?」


 「家近いので、いりません。フード被って帰ります」


 「そう……気をつけて」


 元気のない声だった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 こうなったのは、私のせいなのに。


 全ての感情を包むようにフードを被り、扉を力強く開ける。


 雨の音が一気に届く。怯むけど、すぐに駆けた。今度は風も強くて、フードを押さえながら。


 灰色になりかけていたパーカーが、また黒く染まる。


 走って美容室の前を横切る時だった。


 足が止まってしまう。もちろん美容室に行くわけでもなく。


 動けない。前を歩く男女に目を奪われて。


 一つの傘に二人、男の子と女の子。


 瑠衣くんと新井さんだった。


 しかも、瑠衣くんの手には、この辺りで一番大きなショッピングモールの紙袋が握られていて。


 いつの間にか、押さえるのを止めていた。


 フードが強い風に吹かれてしまう。


 切り詰められた髪は、もうなびかない。


 髪の覆っていない、首と耳、額がむき出しになる。


 冷たい感触が、勢いよく頭を叩きつけた。髪のクッションがなくなって、頭皮に直接雫が貼り付く。


 軽いはずの頭がずっしりと重くなる。短い髪が雨をたくさん吸い取って。


 そっか、遅かったんだ。


 小さく、霞んでゆく相合傘。


 限界がきて、目から雨が流れる。思い出の中の私と重なって、勢いは増すばかり。本物に混じって、それは地面へ落ちていった。


 あの中に入れない私は、ただ濡れることしかできない。


 頭髪も体も心も、そして恋も。


 濡れては、落ちて、消えてゆく。




 月曜日、一週間の始まり。


 アラームは雨の音だった。


 好きだったはずなのに、今は余計なお世話。


 「美姫、起きて。今日は瑠衣くんと行く日でしょ?」


 「……わかった」


 下から呼ぶお母さんに返事をして、身支度を整え始める。


 姿見を渋々覗き込むと、やっぱり、変だった。短髪とセーラー服はどう見てもチグハグで。


 すぐにそこから離れる。リボンも綺麗に結べているか、確認もせず。可愛く見せる必要は、もうない。


 部屋を出る途中、カーペットに黒いゴムが落ちていた。白いから、余計に黒が目立つ。

 
 片付けたはずなのに、と机に備えられている引き出しへ手を伸ばす。


 開けると、同じようなゴムと、可愛らしいヘアアクセサリーが敷き詰められていた。


 その中に拾った黒ゴムを入れて、封印するように閉める。


 当面、開けることはないから。


 階段を下りて洗面所で顔を洗う。鏡が大きいから、またしても自分の頭髪が見えてしまう。しかも寝ぐせだらけで、短い髪が色んな方向に跳ねていた。


 櫛を何度通しても一向に直る気配はない。そもそも短すぎる。


 蛇口を捻って指を伸ばしかけるけど、やめた。代わりに流れゆく水へ頭を突っ込んだ。


 いっそのこと、丸洗いしてしまおうと。タオルドライで乾くことは、昨日、一昨日の入浴を通して知った。


 洗って、タオルで拭き取ると、理容室の鏡で対面した自分になる。寝ぐせが嘘のように直っていた。


 起きたばかりだけど、すでに布団に戻りたい。誰とも顔を合わせたくない。何を思われるか、想像ついてしまうから。


 「おはよう」


 いつも通りを装って、居間にいる両親に挨拶する。


 「おはよう」


 ぴったりではないけど、ほぼ同じタイミングで返される。でも、目は合わなかった。先週までは目と声で挨拶してくれてたのに。


 心が折れそうだった。私じゃなくて、お母さんとお父さんを傷つけてしまっていることに。


 自分勝手な行動なのに、傷ついて、それを表に出すから、周りに心配をかける。


 「ねぇ、お母さん」


 「なに?」


 その上、お願いまでしようとしている。


 でも、これだけは聞いてほしい。


 「えっと、瑠衣くんに先行って、て伝えてほしくて」


 やっとこっちを向いてくれる。眉も目も下げて。全身を撫でるように見つめた後。


 「わかったわ」


 朝ごはんをテーブルに並べてから、私を気遣ってお母さんが玄関へ行ってくれる。


 人騒がせな自分に嫌気が差す。でも、こうするしかない。


 瑠衣くんの隣を、私は歩けない。


 瑠衣くんには、女の子がいる。


 雨の日は、もう新井さんに譲らないといけない。


 出されたばかりなのに、口に入れたトーストは冷たかった。


 気持ち遅めに食べ終えて、リュックを取りに自室への階段を静かに上る。瑠衣くんを待たせているから、と雨の日の朝は大きな音を立てていたのに。


 でも、もう叶わない。


 雨の日に瑠衣くんの隣にいることも、雨を好きになることも。


 今度は姿見に目もくれず、部屋を去った。
 



 傘を差して、家を出る。両親の控えめな挨拶が、また胸を痛めた。


 頭上に浮かぶ水玉模様。雨みたいだから買ったもの。


 可愛いけど、辛い。


 瑠衣くんと関係なく好きになりたかった。雨も、水玉模様も。


 傘と頭の距離を縮める。通り過ぎてゆく誰かに、自分の姿を見られないように。


 学校に着いたら晒すことになる。それも覚悟の上で、今だけは隠していたい。


 いつかは瑠衣くんの目にも届く。どう思われるのだろう。


 幻滅されるのかな、嫌われるのかな、幼なじみの縁を切られるのかな。


 反応を予想すればするほど、苦しくなる。瑠衣くんがどう思っても、私には関係ないのに。


 「美姫ちゃん」


 空耳。私が瑠衣くんのことで頭をいっぱいにしているから。


 だって、瑠衣くんは先に学校へ向かったはずで。


 なのに、その声は何度もそばで聞こえくる。


 「どうして無視するの⁉」


 「瑠衣くん、どうして……」


 すぐ後ろに瑠衣くんがいて。


 止まっちゃいけない。分かっているのに、歩くことで流れていた景色は動かなくなる。


 「どうして、じゃないよ。なにかあって行けなくなっただろうから、待ってたのに」


 「なにもないよ」


 「そんなわけないだろ。ほら、リボンだって乱れてるし」


 指摘されて、思い出す。鏡を見たくなくて、ちゃんと直せてなかったことを。


 「直すよ、他の人に見られたくないだろ」


 「いいよ、しなくて」


 瑠衣くんが指をリボンへ伸ばそうとするから、私は一歩下がった。その拍子で差してた傘の角度が変わって……。


 慌てて戻すも、もう遅かった。


 「美姫ちゃん……その髪」


 瑠衣が目を見開いて。ただでさえ大きいのにもっと。


 見られてしまった。心の準備、できてないのに。


 「なんでそんな髪型になってんだよ!?」


 苛立ちを含んだ声。ビクッと肩が震えた。


 初めてだった。こんなにも、怖い顔する瑠衣くんを見るのは。


 「そんなに怒らなくても……」


 傘をさらに深く差す。瑠衣くんの顔も、引き締まった上半身も見えなくなるまで。


 あっ、と声を漏らすのが鮮明に聞こえて。


 「ごめん。責めるつもりじゃ……」


 「雨が苦手になったよ」


 これ以上聞きたくなくて、一緒にいたくなくて、無理やり遮った。


 横切って先に行こうとするも、待って、と呼ばれてしまう。止まってしまう自分が嫌だった。


 「どうして? この間まで雨好きっていってたのに」


 一番耳を塞ぎたいことだった。私も瑠衣くんも傷つけたくなかったから、あえて遠回しに言ったのに。


 雨が苦手。それが意味することをそのまま口にするだけ。


 でも私にとっては、ただ傷つくだけの言葉だった。血が垂れるほどの傷をひっかくような。


 「瑠衣くんに、会いたくないからだよ」


 瑠衣くんがどんな表情をしているかなんてわからない。ただ、静かだった。


 一歩が水たまりに波紋を生む。


 横を通り過ぎても、しばらく歩いても、瑠衣くんの声と足音は聞こえなかった。




 恥も緊張も、全てを殺すしかない。


 私にはもう、何もない。


 あとは、無心でどれだけやり過ごせるか。


 昇降口で傘を閉じた時、廊下ですれ違う時、教室に足を踏み入れた時、全てに視線を感じた。そのたび、鈍い痛みが伴う。


 『なに、あの子』


 『頭おかしい』


 『男の子みたい』


 『前から変な人だと思ってたんだよね』


 我慢した。


 休み時間も、今日は廊下を見なかった。どれだけ足音が聞こえても。視界にすら、入れたくもない雨景色を眺めて。


 授業中は、やっぱり考えてしまう。


 傘の向こう側、瑠衣くんがどんな顔をしていたのか。


 口調通り、怒ってたのかな? それとも、引いてたのかな……。 


 浮かぶのは、どれも私の見たくない瑠衣くんの表情ばかり。


 追いかけてほしかった、なんて。


 自分から終わりにしたのに。片想いも、幼なじみという居場所も、何もかも。


 軽くて重い顔を動かすと、雨が窓に模様を描いていた。


 早く止んでほしい。


 だから、よかった。席が廊下側の後ろで。


 できることなら、その想いが笑って誰かに話せるようになるまでは、降らないでほしい。


 長い授業が終わって、給食の時間も過ぎる。放課後に掃除があるから、お昼休みに体操着に着替えないといけない。


 廊下に出て、体操着の鞄を自分のロッカーから取り出す。


 男の子は自教室、女の子は空き教室。女の子の濁流に私も吞まれようとした時だった。


 「あんた、どこ行こうとしてんの」


 梅雨時期なのに、鳥肌が立つ。目を伏せてても、誰か分かった。今でも思い出せるから。小学生の頃、友だちと笑いながら、私の傘を差していた彼女を。


 空き教室には何クラスかの女の子たちと着替えることになっていて、必然的に同じクラスじゃない彼女とも一緒になる。だから。


 「……着替えようと思って」


 「はぁ? 冗談でしょ。見た目男のくせに」


 「……」


 「あれ、だんまり? じゃあ、幼なじみくんでも呼ぶ? あ、でも確かその男、一昨日女と二人きりで相合傘してたんだっけ。新井さん? だったけ。噂になってるよ」


 聞けば聞くほど、胸に、心に痛みが走る。ガラスの破片に突き刺されるような。さらに彼女は口を開けて。


 「残念だね、もう彼は新井さんのことでいっぱいだから、男みたいなあんたを助けないだろうね。ま、とにかくどっか別の場所で着替えて。いっそのこと男子たちと着替えて」


 「着替えない!」


 目をしっかり開けてピントを彼女に合わせる。予想通りの嘲笑わらいを含んだ表情がみるみる怖い目つきに変わってゆく。それでも逸らさなかった。


 逃げない。小学生の頃の私なんかとは、さよならしないと。


 そもそも、この姿になったのは新井さんみたいになりたかったから。新井さんなら、こういう時立ち向かうはず。たとえ、もう瑠衣くんに振り向いてくれなくても。


 ううん。だからこそ、伝えないと。瑠衣くんに。私は大丈夫だよって。


 「は、なんなの? 調子乗りやがって!」


 手が上がると、それを素早く振り下ろしてきた。最も恐れていた事態がすぐそこまで迫っていて、動けなくなる。


 助けて、なんて。


 言うことも、思うことすら、私には許されていない。


 自分一人で立ち向かうと決意したのは私。だから、その痛みだって受け止めなければならない。


 誰にも守られず、自分だけで戦う覚悟を決めた私は目を閉じた。


 既に痛い視線と、これからやって来る強烈な痛み。全てを引き受けてみせる。


 なのに、いつまで経っても痛みは来なかった。それどころか、視線も幾分かマシになった気がした。私たちのいざこざ以上に目立つことが、と恐る恐る目を開けると……。


 「お前、次はないっていったよな?」


 ふいに涙が出そうになった。今までずっと助けてくれた人の声と背中で……。


 「はぁ? そっちこそ、なんでその子また助けるの? 知ってるよ、あんたが……」


 「ちょっと黙っててくれない? それともなに、小学生の時のこととか、今回のこと大ごとにしてほしい?」


 「なに、小学生のときのことって」


 周りがひそひそし始める。その中には彼女の取り巻きもいて。


 途端に大きな足音がしたかと思えば、すぐにそれは遠ざかっていった。彼女の気配が消える。


 目の前の男の子が振り返る。今朝、見れなかった、忘れようと思ってた顔。


 きつく結ばれた口、細められた瞳、下がる眉。ずぶ濡れだった私を助けてくれた時の表情だった。


 瑠衣くんの黒目が右へ左へ、上へ下へ忙しなく動くと。


 「ケガ、してない?」


 小さくて遠慮だらけの一言。


 「……してないよ」


 瑠衣くんが助けてくれたから。でも、素直に喜べない。今までみたいには。


 ここに留まりたくない。集中する視線のご主人たちが勘違いしてしまう。瑠衣くんが新井さんじゃない、私のことを好きだって。


 瑠衣くんと新井さんは付き合ってる、噂は広まっているから。


 瑠衣くんが複数の女の子と関係を持つような男の子だと、思われたくない。


 通り過ぎようとした。波紋を作らない、廊下の床を踏んで。なのに。


 「ついてきて」


 手首を掴まれた。瑠衣くんはそのままどこかへ歩き始める。戸惑う私も、さらに驚きの目の色を浮かべる生徒たちも無視して。


 教室のある棟を抜け、人の少ない場所へと出た。


 ついてきて、なんて無理。手首を掴んだまま歩くから、ついていかないといけない。


 繋がれたところから、温かさと感触が伝わる。知っているけど、知らない。


 何も考えず手を繋いでいた時のそれでは、もうなかった。


 どこまで行くのだろう。前を歩くせいで、表情が全く見えない。と、思ったらすぐに瑠衣くんは足を止めてくれた。


 目の前にはミーティング室と書かれたプレートのある教室。私たちの普段使う教室棟の廊下よりも薄暗くて、不気味に思い始めた時。


 「ここ、陸上部のミーティング教室なんだけど、ほぼ使わなくて……だから、着替えたら?」


 身構えてた気持ちがほどけてゆく。今朝、あんなこと言ったから、質問攻めに遭うと思っていたのに。


 どこまで……優しいの?


 あの時だって、そうだった。何も聞かず私を助けてくれて。


 今の私には苦しいだけなのに。


 この優しさは、もう私のものじゃないのに。


 「どうして、助けてくれたの?」


 瑠衣くんの彼女は新井さんなのに。

 
 助ける人、間違えてるよ。
 

 「会いたかったから……」


 さっきよりも口を引き締めて、歪んだ表情をしていた。私以上に苦しみを抱えているかのような。


 現実から目を背けるように、視線は床へ吸い込まれる。


 「……変な冗談やめてよ」


 本当にやめてほしい。


 私が傷ついてるのに気づいて、慰めるのは。


 可哀想で惨めなんだと、自覚してしまうから。


 「冗談じゃないから!」


 鼓膜が大きく震えた。


 そのまま割れてしまうくらい。


 床しか見えないから、瑠衣くんの深呼吸音が鮮明に聞こえて。


 「おれは雨、好きだよ」


 「大変な部活の練習がなくなるからって、教えてくれたよね」


 もしかしたら瑠衣くんも、私と同じ気持ちを抱いてくれてるかもしれない。そんな淡い期待が萎んだ会話だった。


 だから今度は、望まない、はずだったのに。


 「違うよ」


 首が、瞳が、上を向く。


 虹を見ようと、雨上がりの空に目を輝かせる子どものように。


 「美姫ちゃんに会えるから。部活のない雨の日だけ」


 「違う、そんなはずないよ! だって……」


 荒れる声帯を整えるように、何度か息を吸っては吐いてを繰り返して。


 「瑠衣くんは、新井さんのことが好きなんでしょ……」


 「え、理代のこと? やだよ、あいつ怖いし、可愛くないし」


 「見たんだもん! 瑠衣くんが新井さんと歩いてたところ。一昨日(おととい)


 「一昨日……」


 明らかに動揺した瞳から、また視線をずらす。


 照れ隠しなんてやめてほしい。新井さん、綺麗な顔立ちだから可愛い部類に入るはずなのに。


 そもそも可愛い女の子がタイプなら、今の私はもってのほか。


 助けてくれたのは、幼なじみだから。むしろ、縁を切られてないだけありがたいと思わなくちゃ。


 「これプレゼントしたくて」


 「……」


 目を見開いてしまう。瑠衣くんが手にしているものに。


 何かが包まれていそうな、手のひらサイズの袋。でも、ただの包装紙じゃなくて。


 模様が水玉模様だったから。


 「開けてみて」


 「え、これわたしのなの?」


 「そうだよ」


 頭が真っ白になっている私を無視して、強引に渡してきた。


 パリパリ、とした包み紙の音。でも感触はふわふわしていた。


 「本当にわたしの?」


 「うん」


 開けるのが怖くなって、もう一度訊いてみても同じだった。目で訊いても合うことはなくて。


 一本の短いテープを剥がしてゆく。それも水玉模様だった。


 包装紙が傷つかないように、そっと。
 

 袋越しと同じで、ふわふわしていた。子どもの頃、雲に触れたらこんな感じなんだろうなって想像した通りの。


 でもこれ……。


 「ありがとう、瑠衣くん。でも、返すね。今のわたしじゃ使えないよ」


 さっきの瑠衣くんみたいに、強引に手渡しで返す。


 本当は嬉しかった。これは新井さんじゃなくて、私のために買ってくれたものだと分かるから。


 ただし、”以前”の私限定。


 プレゼントはシュシュだった。触り心地のいい素材で、しかも模様が水玉で。


 この間、私が髪を一つにまとめた時に考えてくれたのかな。


 水玉が好きって言ったのも、覚えてたから買ってくれたのかな。


 でも。


 男の子並みに短い髪に触れてみる。手櫛をしてもすぐに空を切った。


 この髪じゃ、つけられない。結べるようになるまで、時間だってかかる。


 だから……。


 「美姫ちゃん、左手出して」


 「え、こう?」


 宙を彷徨(さまよ)っていた左手を、言われた通り差し出す。何をするか分からないまま。


 と、すぐにふわふわした感触が左手に宿る。指へ、手のひらへ、そして手首で止まった。


 結婚指輪を薬指にはめるように。


 「ほら、ブレスレット」


 似合ってる、と瑠衣くんが今日初めての笑みを浮かべた。


 ずるい。そんな顔されたら、離れられなくなっちゃうよ。


 新井さんじゃなくて、私の隣にいて。


 そう願わずにはいられなくなる。とんだ、自惚れなのに。


 これ以上。


 「優しくしないで。好きな人に……」


 最後まで紡げなかった。口どころか、身体全体が温かく包まれて。


 いつの間にか抱き締められていた。きつめに、でも息ができるほどに。


 「美姫が好きな人だからいいでしょ、優しくしても」


 驚きたくても声に出せない。その刹那は息を止めるくらいにきつくされて。


 想像もしてなかった。瑠衣くんが私を好きでいてくれたなんて。


 雨が空に向かって降り注ぐくらい、信じられないこと。


 夢だって思った。でも、身体の熱と、瑠衣くんの温もりが、直に感じられて。


 夢じゃない、夢みたいなことが起きた現実。


 「美姫ちゃんは?」


 緊張が、熱が身体を駆け抜ける。


 瑠衣くんの聞きたいことが、それだけでわかってしまって。


 ちょうどお昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


 「好き」


 どこまでいっても恥ずかしくて、音と共に大事にしまっていた想いを鳴らす。


 でも身体は、もっときつく包まれた。




 靴を履いて玄関を出る。やっぱり大好きな水玉模様の傘を差すと、信じられないことに。


 「瑠衣くん、どうして?」


 目の前に瑠衣くんがいて。陸上部は雨でも、放課後は校内で活動するはずなのに。


 「さぼった」


 頬の赤みは、きっと光加減のせいじゃない。それだけで、もうわかった。


 好きな傘に、好きな天気を弾かせながら、好きな男の子の隣に並ぶ。


 周りの目は気にならない。好き、で守られているから。


 新鮮だった。放課後なだけで、同じ通学路なのに。また授業が始まりそうな錯覚に陥る、と思ったら大きくいつもの道から外れる。


 「今日は遠回りして帰ろ」


 「うん」


 頬がぽかぽかする。一緒にいる時間を少しでも長く。それが強く伝わって。


 「明日、理代に絶対怒られるな」


 呼び捨てにいちいち反応してしまう。私も呼んでもらったのに。


 「仲、いいんだよね」


 気持ちが落ち着かない。やっぱり新井さんのことが好きかもしれないって。でも。


 「いいかもだけど、走るのちょっと緩めただけで怒るし、遅れたらすごいしつこく問い詰めて来るし。もう尋問。あいつは警察官向いてるな」


 「……すごい人だね」


 私はいい面ばかりを見ていたらしい。


 新井さんみたいになりたいとは思ったけど、警察官にはなりたくない。


 「まぁ、部員に人気あるし実際いい奴だけど、あくまで部員だから」


 「うん」


 仲が良いことは肯定するけど、好きなのは全力で否定してくれた。安心が心地よさを生む。


 流れる景色が、違う。遠回りしているから、当たり前だけど、もっと他に理由がある気がした。


 でも角を曲がった途端、見覚えのある風景が飛んできて。


 「あ、理容室だ」


 私が言う前に、瑠衣くんが指をさす。


 「懐かしいなぁ。昔おれが切り終わったら一緒に遊んでさ」


 覚えててくれてた。些細な記憶だったから、忘れてる思ってたのに。


 建物が近づくと、扉のそばに女性を見つける。


 ぱちり、目が合う。視線を瑠衣くんに向けてから、私に戻すと表情が変わった。


 昔、瑠衣くんと理容室を出る時にしてくれた優しい笑みに。


 軽く手を振る。


 切ってくれてありがとう、心からの感謝を込めて。


 まだ短い髪に慣れてないけど、もう後悔はしていない。むしろ逆。


 髪じゃなくて、想いが結ばれた。そっちの方が大事。


 「なんで手振ってんの?」


 「あ、えっと……」


 バレないように軽く振ったのに。なら、もっと大きく振ればよかった。


 「実はあそこで髪を切ったの」


 「え、ほんと? どうりで短いわけだ」


 目を大きくさせる瑠衣くんに、少し不安が募る。


 「もしかして、短いの嫌だった?」


 「え、全然」


 「でも、今日どうしてそんな髪型になってんの、て怒ってたから……」


 正直あの時は怖かった。


 怒られるのなんて初めてで、だから短いのがすごく嫌なんだと思って。


 「だって、髪長かった女の子が急に短くしたら、からかわれると思って。また、美姫ちゃんが傷つくのは嫌だったから。でも、その時おれもびっくりしちゃって、怒る矛先間違った」


 プレゼントのこともあったしさ、と瑠衣くんは目を伏せる。


 「ありがとう」


 ちゃんと理由があった。そのことが嬉しい。


 瑠衣くんも顔を上げて、控えめに笑う。


 靴が水を踏む音しか聞こえなくなる。どちらからともなく傘を畳むと、陽の光が辺りを照らした。濡れているから余計に眩しい。


 「もうすぐ梅雨明けか。よかったな、美姫。苦手な雨は降らなくなるよ」


 珍しく瑠衣くんが意地悪な顔になる。


 「苦手じゃない、好きだもん!」


 「朝は苦手って、いってたのに?」


 「もう好きになったの!」


 「ふ~ん。あ、見て美姫!」


 瑠衣くんの人差し指の先。七色の線が半円を描いていて。


 綺麗、誰もがそう口を揃えるのに、私は言えなかった。空と私の心は、反対だから。


 梅雨が明けてしまったら、その続きを考えるだけで身が滅びそうだった。


 気づけば立ち止まっていた。私も瑠衣くんも。


 瑠衣くんは虹に夢中だった。どうしてまた朝を好きになったの? なんて訊いてこない。


 いつかの日みたいに。


 でも。


 ちゃんと伝えたい。瑠衣くんみたいに、私だって。


 「あのね、瑠衣くん」


 瞳の中に虹が消えて、代わりに私が映る。男の子みたいな、だけどちゃんと女の子を宿した瞳の私が。


 「雨が好きになった理由はね」


 雨が地面を叩きつけるくらいのタイミングで、心臓が鐘を打つ。


 「瑠衣くんに会えるから」


 頬が色を変えてゆく。目の前の男の子も、瞳の中の女の子も。


 虹の赤色に。


 終わり