神代課長は、気づかない──私が、その手に捕らわれていることに


駅の改札を抜けると、課長が階段の手前で足を止めた。

いつもならてらいもなく別れる場所だったけれど、今日は、少しだけ違っていた。

「君は……今日は少し様子が違ったな」

「え……、違っていましたか」

急にどうしたんだろうと感じる。

「仕事の話ではない」

課長が自らの手にふと目を落とす。

「視線を感じた。気のせいかと思ったんだが……」

私は小さく息を吸い込み、胸のざわつきを押し込んだ。

「……すみません。見てしまっていて……」

「とがめてはいない」

言いながら、課長がほんの少しだけ眉を寄せた。

「ただ……理由が分からなかった」

理由──。

“あなたの手が綺麗で、目が離せなくて、気づけば捕らわれてしまっている”

そんなこと、話せるわけもなかった。

私は首を振った。

「理由なんて……ありません」

嘘だ──。

でも、それ以上は言葉にできなくて黙り込んでいると、

「君」

と、ふいに呼ばれた。

「……君は、私の“手”が好きなのか」

核心を突いた問いかけに、もう隠せないと思う。

「……違います」

再び首を振ってそう答えると、課長の片眉がわずかに動いた。

「……手だけじゃ、ありません」

ずっと言えずにいた気持ちが、口をついてあふれ出す。

「課長の、全部……です」

神代課長は、その言葉を聞いた瞬間、驚いたように目を見開くと、低く呟いた。


「君がそう言うのなら……私も、もう気づかないふりはできない」


私はハッとして、何も返すことができなかった。

「……伝えてもらえて、うれしかった」

課長はそこで言葉を切ると、「では、ここで。明日も、よろしく頼む」と、いつも通りのあいさつを口にした。

ただ、いつもとは格別に違っていたのは、私に向けられた、神代課長の初めての笑顔だった──。

「はい、明日もよろしくお願いします」

自分も笑顔で頭を下げて返して、そうして気づく。

捕らわれていたのは、私だけじゃなかったのかもしれないと──。