神代課長は、気づかない──私が、その手に捕らわれていることに


──残りの作業を済ませ、退社をして外に出る。

私は歩きながら、偶然に重なり合った神代課長の指の感触を、思い返していた。

ちょっと触れ合っただけなのに、 まだ気持ちが落ち着かない。

信号待ちの横断歩道で立ち止まった時に、ふいに背後から声がした。

「……君も帰るところか」

振り向くと、神代課長が少し離れた場所に立っていた。

ネクタイをゆるめ、書類の入った薄い鞄を片手に持っていた。

「はい。今、帰るところです」

「そうか」

それだけを言い、神代課長は私の横に並んだ。

信号が青になると、歩幅は大きいのに、私の歩く速度に何気なく合わせてくれていることがわかる。

「……さっきのデータ、助かった」

「いえ、私の方こそ……」

言いかけて、 言葉が喉で止まってしまった。

いっときの手の温もりを、ふと思い出してしまったから……。

神代課長は、そんな私の沈黙に気づいたのか気づいていないのか、視線を前に向けたままで口を開いた。

「……さっきのことだが、手が触ったのは、私の不注意だ。驚かせたのなら、すまない」

その言い方が、あまりに真っ直ぐで、あまりに誠実で、胸の奥がキュッと締めつけられる。

「いえ……驚いてません。ただ……」

言葉が続かない。

“ただ、嬉しかった”
なんて言えるはずもなかった。

神代課長は、私の言葉の続きを待つように、じっとこちらを見ていた。

「……気にしてないのなら、いい」

私が何も言えずにいると、神代課長はそう言って少し先を歩き出した。