神代課長は、気づかない──私が、その手に捕らわれていることに


会議室に入ると、まだ他には誰も来てはいなかった。

窓際の席に資料を置くと、神代課長は静かに椅子を引き、指の先で「そこに座れ」と示した。

その些細な仕草にすら、視線が縫い留められる。

私は課長の隣に座り、資料をもう一度読み込んだ。

「……ここ、よくまとめているな」

不意に褒められて、嬉しさが込み上げる。

「ありがとうございます」

「数字の整合性も取れている。さっきの修正も、とても早かったな」

「は、はい……」

頷いて、また、その手を見てしまっていた──。

「……何か気になるところでもあるのか?」

「えっ?」

「さっきから、資料じゃなくて……」

言いかけて、神代課長は言葉を切った。そのまま視線を落とし、自分の手を一瞬だけ見つめた。

「……いや、何でもない」

ふと、もしかして気づかれたのかもしれないと思う。

けれど神代課長は、それ以上の追及はしてこなかった。

「会議、始まるぞ」

他の社員らが入ってきて、空気が仕事一色に変わる。

──会議が進むにつれ、神代課長の指先は、淡々とメモを取り、資料を示し、時折、机を軽く叩いて思考を整えていた。

その一つずつの場面が、私の心を静かに捕らえて離さない。

会議が終わり、「戻るぞ」と、神代課長が立ち上がる。

資料をまとめるその手が、私の手元につと触れる。

それだけで、息が止まりそうになる。

けれど神代課長は、何事もなかったように先に立って歩き出した。