曰く付きの調香師は花屋と笑う

「クロウ!」



 その場に崩れ落ちたクロウを支えるが、彼にはマシロの声など聞こえていないようだった。目は虚ろでどこも見ていない。触れた肌が恐ろしいほど冷たくなっている。それこそ死人のようだった。このまま死へ連れていかれてしまうのではないか。そんな馬鹿な考えが頭をよぎる。



「クロウ、クロウ……!」



 何度も呼びながらマシロはその身体を抱きしめた。きつく、きつく。



「僕を嗅げ、クロウ!」





『お前って、意外と体臭はうるさくないんだな』

『何それ? 体臭がうるさいって?』

『体臭って感情によって少し変わるんだよ。振れ幅が大きいとそれだけニオイもガチャガチャするっていうか……』

『へえ〜。クロウの鼻ってほんとすごいね。それで、僕はうるさくないんだ?』

『意外にな』

『何で意外なのさ』

『普段の言動だけだとすんごい振れ幅大きそう』

『失礼なー。ミステリアスな大人の男ですよ僕は。言動も感情も落ち着いてますって』

『その「失礼な」ってのも言ってるだけで実際は全然怒ってないし気にしてもいないじゃねーか。そのくせ嘘のニオイでもない』

『だってクロウの発言が失礼なのは事実でしょ』

『素直なだけだし』

『ふーんだ。てか、いいことなの?』

『何が』

『体臭がうるさくないってやつ』

『あー……いいとか悪いとかじゃないけど』

『けど?』

『オレは楽』

『じゃあ、いいことだよ』

『そういうもんかね』

『そういうもんです』

『まあ……色んなニオイを嗅ぎすぎて鼻が麻痺したとき、嗅ぎ慣れた別のニオイでリセットするってことはよくあるからなぁ……そんときはお前のニオイを嗅いでやってもいいぜ』

『クロウがデレた!』

『冗談に決まってんだろ』

『え! わかりにく! クロウ冗談のセンスなーい!』

『冗談の塊みたいなお前に言われたくねー』





「クロウ……!」



 戻ってこい。還ってこい。

 そう祈るようにクロウの小柄な身体を抱きしめる。

 それに反応したのはシグリの方だった。彼は動揺したように眉を寄せ低く呻く。



「どういうことだ……。いくら試作品といえど、クロウの作品ですよ。なぜ君はそんなに動け……」



 言いかけたシグリはハッと目を見開いた。



「あの筋力にニオイの効かなさ……そうか、君、忌み子ですね……!?」



 マシロは何も答えなかった。

 ――それが答え、だった。



 忌み子。女神のギフトを受け取らず、代わりに過ぎた力を持ち、女神に疎まれたとされる者。五感のいずれかが欠けた者。



 ふー…………とシグリが長い息を吐く。



「……まあ、君が忌み子だからといって私は差別はしませんよ。興味がありませんからね。それよりクロウです。彼をこちらに寄越しなさい」



 シグリが手を伸ばしてくる。マシロはクロウを抱えたまま一歩下がった。クロウはまだ動けないのだろう。マシロの腕の中でぐったりと身を預けている。



「わかりませんか。これは世のためでもあるのですよ」

「……世のため?」



 そうです、とシグリは深く頷いた。



「君も見たでしょう。クロウの香りの威力を。こんなものを作り出せる人間が外をフラフラ歩いているなど危険極まりないと思いませんか。彼には管理が必要なのです。だから――」



「キョーミないね」



 きっぱりと言い放つ。きつくクロウを抱き寄せる。



「……僕は忌み子だけど、クロウが創り出す香りだけは感じることができたんだ」

「なに……?」

「あんたならきっと知ってるよね、嗅覚の細胞がいくつあるか。何千万だっけ? それに比べて……例えば味覚はいくつだっけ。百個とかその辺だったかな」



 別に答えなど期待していない。返事を待たず、マシロは床に視線を落とす。



「何食べても甘いとか苦いとか大雑把にしか感じない。自分の育てた花のニオイすらわからない。全部が味気なかったよ。ないのは味覚じゃなくて嗅覚なのに、『味気ない』なんて皮肉な言い回しかもしれないけどね」



 しかし、そんな自分の世界をクロウが変えた。彼の才によって生み出された香りはマシロにも届いた。きっと奇跡にも近いことだろう。様々な風味を知れた。花の多様な香りを感じられた。こんなにも世界は複雑で面白いのだと教えてくれた。



「――クロウの香りだけが世界を彩らせてくれる」



 だから。

 だから、マシロだって彼を手放す気などない。世界がどうなろうと、そこに関心はない。自分たちの世界は、ただ、此処に在る。



 ――ピクリとクロウの肩が跳ねた。



「クロウ!?」

「……くる、し」

「わ、ご、ごめん!」



 きつく押し付けていた腕の力を緩める。もぞ、とクロウは緩慢に身じろいだ。

 重たげに少しばかり持ち上がった顔は疲れきっていたが、それでも、微かに口元は笑っていて。



「…………窒息させる気か」

「クロウ!」

「……相変わらず能天気なニオイしやがって……」

「クロウが繊細すぎるんだよ」

「うる、せ。耳元で何回呼ぶ気だ」

「何回でも呼ぶさ。僕を見てくれるまでね」



 茶化すように笑えば、ふ、と細い息が漏れる。それが何だかクロウらしくて、マシロも肩の力が抜けた。



「……はあ。あまり手荒な真似はしたくなかったのですがね……」

「!」



 ピ、とシグリはリモコンを押した。身構えていると後ろのドアからゾロゾロと男たちがやってくる。まだクロウにやられていなかった警備の者たちだろう。揃いも揃ってマスクで鼻と口を覆っている。それが一層不穏で不気味に見えた。



「手荒な真似って……人拉致っといて今更すぎない?」

「そういう奴だ」

「何とでも。……さあ、この部屋の換気は十分。私は風上な上に、風下の者たちも厳重なマスクをしている。この状況でいかがいたします?」

「ご丁寧な説明をドーモ」



 毒づいたクロウがマシロの胸元を引く。バランスを崩し顔を寄せたマシロの耳に、ぼそり。彼は囁いた。



「悪いが、まだ動けない。……ここは三階だ。跳べるか?」

「楽勝」

「よし」

「うわ!? 冷た!」



 いきなり何か――液体なことしかわからない――を掛けられた。青っぽくスッとした香りが鼻を通り抜けていく。どこかひんやりとしたニオイだった。



「? ? クロウ?」

「さっさとそこをどきな!」



 叫んだクロウがまた別の液体を周囲に撒き散らす。甘くフルーティな香りが拡がり――あっという間に薄れていく。



「ヤケになりましたか? 言ったでしょう。いくら君の香りといえどもここでは意味など――」



 ぶ……ぶぶ……

 ブブブブ



 それは、小さな音。

 突如現れたその音は、一つ、二つ、すぐに数えられないほど大きくなっていく。空気を強く震わせてくる。

 音の出所は換気口だった。

 何事かと訝しんだのもつかの間。

 換気口から小さな虫が羽音を立てながら飛び込んでくる。いくつもいくつも。小さな生き物が群れとなって襲いかかってくる。明確な攻撃の意思を持って。



「な……何だ!?」

「蜂だ!」

「う、うわぁぁ! 蜂の大群だぁぁっ!」

「こ……こいつ! くそ! やめろ!」

「この部屋はだめだ! 出ろ! 早く!」



 その場は混乱に陥った。集まっていた男たちが慌てて逃げ出す。シグリも蜂に襲われ、その対応に手一杯のようだ。

 マシロも驚いたが、不思議と蜂は自分たちの方には寄って来ない。

 呆然としているとクロウに腕を引かれた。

 目が合う。



「行くぞ」

「! りょーかい!」



 クロウを抱え上げ、マシロは窓へ向かって走り出す。



「くっ……! 君たち!」



 シグリの制止に二人揃って舌を出し、マシロは勢い良く窓を蹴破った。