曰く付きの調香師は花屋と笑う

 雨は夜通し続いた。

 朝になっても一向に晴れず、どんよりとした雲が空を覆っている。

 とはいえ、土の湿ったニオイも、空気がもわりと質量を持ったように思えるニオイも、クロウは決して嫌いではない。ただ、雨によって不快そうな人が増えるのは苦手だった。

 しかし、今、フランジュアの空気に重たさが拭えない理由は雨だけではなかった。



「マシロさんが……来ない?」

「ああ」



 震えたリラの声に、クロウは短く相槌を打った。



「あいつの新しいニオイがない。昨日別れてからマシロはここに来てないはずだ」

「私と別れたときは笑ってましたけど……本当は怒っていたのでしょうか。だから顔を出さないとか……」

「いや」



 考えるより早く否定していた。



「あいつは子供っぽい言動も多いけど、仕事を放り出すような奴じゃない。それは確かだ」



 言いながらクロウは店の裏、小さな庭園を思い浮かべた。フランジュアで売られている多くの花はよそから仕入れている。しかし細々とマシロ自身が育てている花もあるのだ。マシロはそれらの世話を欠かさない。驚くほど丁寧に彼は花を慈しみ育てている。



「そうですよね……すみません」



 しゅんとうなだれるリラを冷たくあしらう気にはなれなかった。そちらの方がまだマシだと思いたかっただけなのだろう。マシロが自分の意思で来ないだけだと、それならば平和だろうと、彼女はそう思いたかったのだ。



「……はあ。だから手を引けって言ったんだ。それなのにマシロの奴、意地張りやがって……」

「クロウさんは……心当たりがあるのですか?」

「……ないことも、ない」



 気が重く、すぐにでも張り付いてしまいそうな唇をこじ開け、クロウは言葉を絞り出した。



「……フォリドゥース」

「え?」

「変わった香水店だ。今までにない香りを、というのを売りにしている」

「ああ……存じております。私や母もそちらの店で香水を購入したことがありますもの。だけど、その店が……?」



 クロウは顔をしかめた。

 ふわりと、この場に存在しない香りが――記憶の底に沈ませたくて仕方ない香りだ――脳を刺激したような気がした。



「フォリドゥースは一見ただの香水店だけど、香りのためなら何でもするというきな臭い噂がある。女神への幸福を追求するためだとか何だとか言ってな。……香りを抽出するためなら、人や動物に非道な手段を取ることも辞さない、と」

「非道な方法で……?」

「人や動物の体液を搾り取ったり……それこそリービットの涙だってあればあるだけ集めたいだろうさ」

「じゃあ、リーちゃんもその人たちに!?」

「絶対じゃない。可能性が高いって話だ。……でも、嫌な可能性だった」

 だからクロウは、この案件から手を引きたかった。引くべきだと思った。

「……くそ。高い貸しだぞ、マシロ」





 店は臨時休業とし、クロウとリラは昨日の本屋まで来た。在るものは変わらないはずなのに、雨が降りしきる中ではどこか違った景色に見える。



「マシロさん、どこに行ってしまったのでしょう……」

「……こっちだ」

「え? そちらの路地に、何か……?」



 答えるより早く、クロウは一本の路地に足を進めた。リラも慌ててついてくる。

 一見すると、何もない。けれど。

 路地の半ばまで進み、屈み込む。目を閉じる。



「……マシロにやった香水のニオイだ」



 爽やかな中にも青みを残した、透明感のあるニオイ。シロツメクサを中心に調合したものだ。以前、「マ『シロ』だから『シロ』ツメクサ」などとふざけた会話からできたものだった。一滴や二滴どころではない。瓶は何も残っていないが、きっとここで割れたのだろう。その香りの行き先は森へと続いている。そしてその中に混じる、ほのかな鉄臭いニオイ――。



「――こんな雨くらいでわからなくなると思われてんなら、なめられたもんだな」



 ぼそりと呟き、クロウは立ち上がった。



「わかったんですか……?」

「ああ。行ってくる」

「わ、私にもできること、ありませんか」

「リラ嬢に?」

「お役に立てることが少ないのはわかっています。ですが何か……何かありませんか。何でも言ってください。お願いします」



 声が震えている。怖いのかもしれない。

 だが、それ以上に必死なことも――ニオイを嗅がなくともわかった。



「……危ないかもしれないけど」

「言ってください……!」

 フ、と息を吐く。笑う。

「上等だ。いくぜ、リラ嬢。奪還だ」