「姉ちゃん! 遅い、寒い、腹減った!」
廊下の向こうから、とんでもなく響く声が飛んできた。
フードパーカーにリュック姿の人影が走ってくる。一見すると高校生に見えるが、これで二十三歳の鈴の弟、梨紅だった。顔だちだけ見ると十代に間違われることが多いが、性格は驚くほど正直で、人の顔色を読まずに直球を投げ込んでくるという意味では、ある種の大人より手強い。
「りく、声が大きい」
「だって三十分も待ったじゃん! 外、めちゃくちゃ寒いんだけど」
梨紅は郁人を見た。郁人を見て、私を見て、もう一度郁人を見た。
その三秒間で何かを察したらしく、口を閉じた。
「……お知り合い?」
「お客様よ」
「そーですか」
梨紅は全く気にしていない様子で鈴の隣に並び、車椅子の持ち手に手を置いた。
「お世話になっています。鈴の弟です。……じゃ、帰るよ姉ちゃん。腹ペコ」
「えぇ」
梨紅が車椅子を押すと、車椅子が動き出す。
鈴はまっすぐ前を向いた。そのほうがいい。振り返らなければ、何も始まらない。榛名郁人が何を言おうとしていたのかも、知らなくていい。同情はいらない。哀れみもいらない。
ただ、受付の向こうで笑っているだけでよかった。
それで十分だった。
そのはずだった。
「芹沢さん!」
大きな声が、駐車場付近に響いた。
梨紅の手が止まった。車椅子も止まった。
振り返りたくなかった。
でも体が、ビクッと動く。
「俺は芹沢鈴さんが好きです!」
反響するほどの声だった。駐車場の天井に当たって、戻ってくるほどの声。郁人はジャケットを脇に抱えたまま、髪が少し乱れていて、息が少し上がっていた。走ってきたのかもしれない。
その顔が、妙に、真剣だった。
「結婚してください!」



