その日、
パパは休日出勤だった。
「ミミ、ママと暮らしていたあの家だが、
荷物を整理して売るつもりだ」
パパと一緒に、電車に乗ってあの家に戻った。
近所の人にも誰にも会いたくない。
そっと、家に入った。
パパは言った。
「捨てる物は、この袋に入れて。
持って行きたい物はこの箱に、
わからない物はそのままにしておいて、
パパが決めるから」
しばらく一緒に片づけていたが、
パパのスマホが震えた。
「夕方には帰る」
そう言って出ていった。
お昼のサンドイッチはコンビニで買ってきた。
お菓子も飲み物もある。
わたしは、ひとりで部屋を片づけていた。
そして、
ママがのこした物をみた。
服、
いらない。
楽譜、
もっといらない。
教育本、
もっともっといらない。
びっしり付箋の貼られた問題集。
見ているだけで、息が詰まりそうになる。
──捨てよう。
そう思った。
もう終わったことだから。
でも。
手が止まる。
本当に?
全部、終わったの?
胸がざわざわする。
その時、
箱の底に、ノートが見えた。
黒い表紙。
角が少し擦れている。
なんとなく。
嫌な予感がした。
開く。
几帳面な字。
ママの字だった。
***
【4月20日】
「ミミが算数で98点。
なぜ2点落とすの?
理解できない。
ちゃんと見直しをするように口を酸っぱくして言ってきた。
私は母親失格なのかもしれない」
胸がざわつく。
次のページ。
【4月28日】
「今日も母から電話。
『あなたは甘い。
だから子どもがダメになる。
もっとよい母になりなさい』
……苦しい。
でも、良い母にならなきゃ。
良い母。
良い母。
良い母」
同じ言葉が何度も並んでいた。
ぞくっとする。
***
ページをめくる。
【5月2日】
「ミミがゲームを欲しがった。
買わなかった。
あんなもの必要ない。
必要ないのに。
どうして私はこんなにイライラするんだろう。
母みたいになりたくない。
でも、最近、自分が母にそっくりで怖い」
ミミは、息を止めた。
……え?
母みたいになりたくない?
ママも。
苦しかったの?
さらにページをめくる。
【5月19日】
「母に叩かれたことを思い出す。
『あなたは本当にダメな子ね』
『みっともない』
『親の顔に泥を塗るな』
小さい頃、毎日言われた。
私は絶対に同じことをしないと決めたのに。
どうして、どうして私は、
ミミに怒鳴ってしまうんだろう」
涙で字がにじんでいた。
胸が、ぎゅっと痛くなる。
ママ。
あなたも。
誰かに苦しめられてたの?
***
ページをめくる手が止まらない。
でも。
途中から、空気が変わった。
文字が乱れ始める。
【6月27日】
最近、あの人の様子がおかしい。
電話に出ない。
帰宅時間も変。
夜、アパートにいない。
女?
まさか。
でも、もし捨てられたら?
私はひとりになる。
お金はどうなるの?
ミミを育てていけるの?
怖い。
【8月30日】
「いろいろあって、心が乱れている。
夫も子どもも出て行った。
この広い一軒家に専業主婦が
どうやって暮らせばよいのだろう。
事故にでもあって死ねたら楽なのにと思った。
でも、
ミミを置いて死ねない。
今は一時的に離れているけど、
夫の育児もそう長くは続かないだろう。
良い母にならなきゃ。
ちゃんとしなきゃ。
ちゃんと。
ちゃんと」
最後の方は、文字が潰れていた。
ミミの手が震える。
そして。
最後のページ。
事故の三日前の日付。
【9月 ✖日】
「最近、怖い。
あの人が、何を考えているか分からない。
優しい顔をしている時が、一番怖い。
生命保険の話ばかりする。
『死亡保険の受取りは夫婦お互いだな』
『前が死んだら、500万。
俺が死んだら3000万っておかしくないか?
人間の価値に男も女も会社員も専業主婦もないはずだ。
いつか保険を見直すべきだな。
はっはっは』
でも、目が笑ってない。
もしかしたら、私は、
あの人に殺されるかもしれない」
え?
頭が真っ白になる。
ページを落としそうになる。
待って。
何これ。
どういうこと?
パパが?
ママを?
心臓がバクバクする。
苦しい。
呼吸が浅い。
その時。
ガチャ。
玄関の音。
パパだ。
わたしは飛び上がった。
慌てて日記を閉じる。
でも、
手が震えて、うまく隠せない。
廊下から足音。
近づいてくる。
ドクン。
ドクン。
怖い。
怖い。
怖い。
もし。
本当に。
パパが──。
「ミミ?」
ドアの向こうから。
優しい声がした。
その瞬間。
わたしは、初めて思った。
──優しい人ほど、怖いのかもしれない。



