文化祭から二週間以上が経った。十月の屋上は、九月より冷たかった。練習を終えるころには風が少し冷たくなっていて、ましろちゃんが両手を袖の中に隠していた。
変化は少しずつ来ていた。最初に気づいたのは、凛ちゃんの様子だった。
練習の帰り道、凛ちゃんがわたしの隣を歩きながら、何かを考えている顔をしていた。いつもなら帰り道にうるさいくらいしゃべるのに、その日は黙っていた。
「どうしたの?」
わたしは聞いた。
「……ねえ、ひかり。地元の友達の話、したことあったっけ?」
「したよ。小学校のとき仲良かった子が思い出せないって」
「そうだ、した」
凛ちゃんが少し眉を寄せた。
「あれからずっと気になってて。名前も出てこなくなったんだよね」
「名前も?」
「うん。顔も名前も出てこない。でも確かにいた気がする。毎日一緒に走り回ってた子が」
わたしは黙った。
「なんか変な感じがして、忘れてるんじゃなくて、最初からいなかったみたいな感じ。でも確かにいたはずなんだよ」
「どうして確かだと思うの?」
「体が覚えてる気がするんだよね。誰かと一緒に走った感覚。隣に誰かいた感覚。でもその誰かが誰なのか分からない」
凛ちゃんは困ったような顔をして、でもすぐに「まあいいか」と言って前を向いた。切り替えが速いのが凛ちゃんらしかった。
でもわたしは、気になった。
翌日の昼休み、玲奈さんが音楽室にいると聞いて行ってみた。
玲奈さんはピアノの前に座って、弾いていた。曲の途中で手を止めて、また同じところを弾いた。何かを確かめているみたいだった。
「玲奈さん」
呼ぶと玲奈さんが振り返った。
「ひかりさん。どうしました?」
「少し話せる?」
「ええ」
玲奈さんはピアノの椅子を少しずらして、わたしが座れるスペースを作った。わたしはその隣に座った。
「お母さんのこと、最近どうですか?」
玲奈さんが少し目を細めた。
「……どうして聞くのですか」
「前に、写真を見ても思い出せないって言ってたから」
「ああ」
玲奈さんは鍵盤をじっくりと見た。
「最近、少し増えています」
「思い出せないことが?」
「はい。昨日、母親から電話があって、昔よく行っていたレストランの話をされたのですが、まったく記憶になくて。母は覚えているのに、わたくしだけ覚えていない」
「お母さんは何か言いましたか」
「少し不思議そうにしていました。でも、人は覚えていることが違うから、と。そのまま話が終わりました」
玲奈さんは囁くような声で言った。感情を抑えているのか、もともとそういう話し方なのか、分かりにくかった。でも指先が鍵盤の上にそっと置かれて、少し力が入っているのは見えた。
「大事な記憶ですか、そのレストラン」
「分かりません。思い出せないから、大事だったかどうかも分からない。それが一番、怖い気がします」
わたしは何も言えなかった。
大事だったかどうかも分からない。思い出せないということは、それがどれほど大切だったかも、分からなくなるということだ。
「透子にも聞いてみる」
「透子さんも、何かありそうですか」
「たぶん」
放課後の練習が終わって、透子と二人で残った。
いつもの流れだった。凛ちゃんとましろちゃんが先に降りて、玲奈さんがあとを追って、透子とわたしが最後に残る。二人でフェンスの前に立って、街を見る。それがいつの間にか習慣になっていた。
「透子、妹さんのこと、最近どう?」
透子が少し間を置いた。
「……増えた」
「思い出せないことが?」
「うん。名前は分かる。顔も分かる。でも一緒にいた記憶が、薄い。昨日、妹から連絡が来て、昔約束したことを聞かれた」
「何の約束?」
「歌を聴かせるって約束。妹がそう言うから、たぶんしたんだと思う。でもいつ、どこで約束したのか、まったく出てこない」
透子は穏やかな声で言った。動揺しているようには見えなかった。でも、それが透子の怖いところだとわたしは思った。透子は感情を顔に出さない。だから、どれだけ傷ついているのか分からない。
「妹さんに、なんて答えたの?」
「……覚えてる、と言った」
「嘘をついたの?」
「嘘じゃない。約束したこと自体は、たぶん本当のことだから」
「でも内容は覚えてない」
「覚えてない」
透子は空を見上げた。夕日が落ちかけていた。
「歌が上手くなりたいって、屋上で願った。それは覚えてる。でもその代わりに、こうなってるなら」
透子が続けた。
「割に合わない、とは思わない。でも、知りたかった」
「最初から教えてほしかった、ってこと?」
「……うん」
透子らしい言葉だった。怒っているわけじゃない。ただ、知りたかった。それだけだった。
翌日の練習前、わたしは四人を屋上に集めた。
練習じゃなくて、話し合いをしたかった。みんなに聞いてほしいことがあった。
「昨日と一昨日、凛ちゃんと玲奈さんと透子に話を聞いた」
三人が少し緊張した顔になった。
「全員、大事な思い出が消えてる」
沈黙。
「凛ちゃんは地元の友達の記憶。玲奈さんはお母さんとの思い出。透子は妹との記憶」
「それって、流れ星と関係してる?」
凜ちゃんが尋ねた。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「証明はできない。でも、願いが叶ったタイミングと、思い出が消え始めたタイミングが、重なってる」
玲奈さんが穏やかな声で言った。
「流れ星に願うと願いは叶う。でも代わりに、思い出が消える」
「そういうことだと思う」
誰も反論しなかった。
ましろちゃんが小さく手を挙げた。
「ましろも、あります」
「ましろちゃんも?」
「はい。ましろ、入学したくてこの学校を受験して、入れたんですけど。入学したかった理由が、思い出せなくて」
「どういうこと?」
「この学校に入りたいって、すごく強く思っていた記憶はあります。でも、なんでそんなに入りたかったのか。それが、全然出てこない」
ましろちゃんは少し首を傾けた。
「昔、何か夢があった気がします。でもそれが何だったか、分からなくなっています」
わたしは四人の顔を見回した。
全員が、何かを失っていた。
そしてわたし自身も、ずっと気になっていることがあった。
言わないといけない、と思った。
「わたしも、ある」
みんながわたしを見た。
「幼なじみの記憶がない」
「幼なじみ?」
「小さい頃に、仲良かった子がいた気がする。でも名前も顔も出てこない。それどころか、本当にいたのかどうかも分からなくなってきてる」
「いつから?」
「最初から薄かった。でも最近、もっと薄くなってる気がして」
凛ちゃんが少し難しい顔をした。
「ひかりは、屋上で何を願ったの?」
わたしは少し考えた。
「みんながずっと一緒にいられますように、って」
「叶ってる?」
「……今のところは」
「じゃあその代わりに、幼なじみの記憶が消えてるってこと?」
「たぶん」
でも、と思った。
わたしが屋上で初めて願ったのは、ほしあま部を始めてからだった。でも幼なじみの記憶は、もっと前から薄かった気がする。小さい頃から、すでに何かが欠けていた気がする。
それはどういうことなのか、まだ分からなかった。
「なんで最初に教えてくれなかったの?」
凛ちゃんが問い詰めてきた。責めているわけじゃなかった。
「文化祭が終わってから向き合おうと思ってた。それまでは、ただ歌いたかった」
「……そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
凛ちゃんが首を振った。
「ひかりのせいじゃないし」
「これからどうしますか?」
玲奈さんに問われ、わたしは少し考えた。
「歌うのをやめるかどうか、みんなで決めたい。続けたら、もっと消えるかもしれない。でもやめたら、消えた思い出は戻らないかもしれない」
誰も即答しなかった。
風が吹いた。凛ちゃんが言った。
「少し、考えていい?」
「もちろん。急がなくていい」
「わたくしも、少し時間をください」
透子は黙っていた。
ましろちゃんが、そっとわたしの袖を掴んだ。
「先輩」
「なに?」
「ましろ、思い出が消えても、今ここにあるものは消えないと思います」
わたしはましろちゃんを見た。
「今ここにあるもの」
「先輩たちと一緒に歌った記憶。ライブのこと。屋上のこと。それはまだあります」
ましろちゃんは少し不安そうな顔をしながら、でもはっきりと言った。
「だから、ましろはまだここにいたいです」
夕日が落ちていった。みんなの影がコンクリートに伸びた。
答えはまだ出なかった。でも、ましろちゃんの言葉が、夕風の中にしばらく残っていた。
変化は少しずつ来ていた。最初に気づいたのは、凛ちゃんの様子だった。
練習の帰り道、凛ちゃんがわたしの隣を歩きながら、何かを考えている顔をしていた。いつもなら帰り道にうるさいくらいしゃべるのに、その日は黙っていた。
「どうしたの?」
わたしは聞いた。
「……ねえ、ひかり。地元の友達の話、したことあったっけ?」
「したよ。小学校のとき仲良かった子が思い出せないって」
「そうだ、した」
凛ちゃんが少し眉を寄せた。
「あれからずっと気になってて。名前も出てこなくなったんだよね」
「名前も?」
「うん。顔も名前も出てこない。でも確かにいた気がする。毎日一緒に走り回ってた子が」
わたしは黙った。
「なんか変な感じがして、忘れてるんじゃなくて、最初からいなかったみたいな感じ。でも確かにいたはずなんだよ」
「どうして確かだと思うの?」
「体が覚えてる気がするんだよね。誰かと一緒に走った感覚。隣に誰かいた感覚。でもその誰かが誰なのか分からない」
凛ちゃんは困ったような顔をして、でもすぐに「まあいいか」と言って前を向いた。切り替えが速いのが凛ちゃんらしかった。
でもわたしは、気になった。
翌日の昼休み、玲奈さんが音楽室にいると聞いて行ってみた。
玲奈さんはピアノの前に座って、弾いていた。曲の途中で手を止めて、また同じところを弾いた。何かを確かめているみたいだった。
「玲奈さん」
呼ぶと玲奈さんが振り返った。
「ひかりさん。どうしました?」
「少し話せる?」
「ええ」
玲奈さんはピアノの椅子を少しずらして、わたしが座れるスペースを作った。わたしはその隣に座った。
「お母さんのこと、最近どうですか?」
玲奈さんが少し目を細めた。
「……どうして聞くのですか」
「前に、写真を見ても思い出せないって言ってたから」
「ああ」
玲奈さんは鍵盤をじっくりと見た。
「最近、少し増えています」
「思い出せないことが?」
「はい。昨日、母親から電話があって、昔よく行っていたレストランの話をされたのですが、まったく記憶になくて。母は覚えているのに、わたくしだけ覚えていない」
「お母さんは何か言いましたか」
「少し不思議そうにしていました。でも、人は覚えていることが違うから、と。そのまま話が終わりました」
玲奈さんは囁くような声で言った。感情を抑えているのか、もともとそういう話し方なのか、分かりにくかった。でも指先が鍵盤の上にそっと置かれて、少し力が入っているのは見えた。
「大事な記憶ですか、そのレストラン」
「分かりません。思い出せないから、大事だったかどうかも分からない。それが一番、怖い気がします」
わたしは何も言えなかった。
大事だったかどうかも分からない。思い出せないということは、それがどれほど大切だったかも、分からなくなるということだ。
「透子にも聞いてみる」
「透子さんも、何かありそうですか」
「たぶん」
放課後の練習が終わって、透子と二人で残った。
いつもの流れだった。凛ちゃんとましろちゃんが先に降りて、玲奈さんがあとを追って、透子とわたしが最後に残る。二人でフェンスの前に立って、街を見る。それがいつの間にか習慣になっていた。
「透子、妹さんのこと、最近どう?」
透子が少し間を置いた。
「……増えた」
「思い出せないことが?」
「うん。名前は分かる。顔も分かる。でも一緒にいた記憶が、薄い。昨日、妹から連絡が来て、昔約束したことを聞かれた」
「何の約束?」
「歌を聴かせるって約束。妹がそう言うから、たぶんしたんだと思う。でもいつ、どこで約束したのか、まったく出てこない」
透子は穏やかな声で言った。動揺しているようには見えなかった。でも、それが透子の怖いところだとわたしは思った。透子は感情を顔に出さない。だから、どれだけ傷ついているのか分からない。
「妹さんに、なんて答えたの?」
「……覚えてる、と言った」
「嘘をついたの?」
「嘘じゃない。約束したこと自体は、たぶん本当のことだから」
「でも内容は覚えてない」
「覚えてない」
透子は空を見上げた。夕日が落ちかけていた。
「歌が上手くなりたいって、屋上で願った。それは覚えてる。でもその代わりに、こうなってるなら」
透子が続けた。
「割に合わない、とは思わない。でも、知りたかった」
「最初から教えてほしかった、ってこと?」
「……うん」
透子らしい言葉だった。怒っているわけじゃない。ただ、知りたかった。それだけだった。
翌日の練習前、わたしは四人を屋上に集めた。
練習じゃなくて、話し合いをしたかった。みんなに聞いてほしいことがあった。
「昨日と一昨日、凛ちゃんと玲奈さんと透子に話を聞いた」
三人が少し緊張した顔になった。
「全員、大事な思い出が消えてる」
沈黙。
「凛ちゃんは地元の友達の記憶。玲奈さんはお母さんとの思い出。透子は妹との記憶」
「それって、流れ星と関係してる?」
凜ちゃんが尋ねた。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「証明はできない。でも、願いが叶ったタイミングと、思い出が消え始めたタイミングが、重なってる」
玲奈さんが穏やかな声で言った。
「流れ星に願うと願いは叶う。でも代わりに、思い出が消える」
「そういうことだと思う」
誰も反論しなかった。
ましろちゃんが小さく手を挙げた。
「ましろも、あります」
「ましろちゃんも?」
「はい。ましろ、入学したくてこの学校を受験して、入れたんですけど。入学したかった理由が、思い出せなくて」
「どういうこと?」
「この学校に入りたいって、すごく強く思っていた記憶はあります。でも、なんでそんなに入りたかったのか。それが、全然出てこない」
ましろちゃんは少し首を傾けた。
「昔、何か夢があった気がします。でもそれが何だったか、分からなくなっています」
わたしは四人の顔を見回した。
全員が、何かを失っていた。
そしてわたし自身も、ずっと気になっていることがあった。
言わないといけない、と思った。
「わたしも、ある」
みんながわたしを見た。
「幼なじみの記憶がない」
「幼なじみ?」
「小さい頃に、仲良かった子がいた気がする。でも名前も顔も出てこない。それどころか、本当にいたのかどうかも分からなくなってきてる」
「いつから?」
「最初から薄かった。でも最近、もっと薄くなってる気がして」
凛ちゃんが少し難しい顔をした。
「ひかりは、屋上で何を願ったの?」
わたしは少し考えた。
「みんながずっと一緒にいられますように、って」
「叶ってる?」
「……今のところは」
「じゃあその代わりに、幼なじみの記憶が消えてるってこと?」
「たぶん」
でも、と思った。
わたしが屋上で初めて願ったのは、ほしあま部を始めてからだった。でも幼なじみの記憶は、もっと前から薄かった気がする。小さい頃から、すでに何かが欠けていた気がする。
それはどういうことなのか、まだ分からなかった。
「なんで最初に教えてくれなかったの?」
凛ちゃんが問い詰めてきた。責めているわけじゃなかった。
「文化祭が終わってから向き合おうと思ってた。それまでは、ただ歌いたかった」
「……そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
凛ちゃんが首を振った。
「ひかりのせいじゃないし」
「これからどうしますか?」
玲奈さんに問われ、わたしは少し考えた。
「歌うのをやめるかどうか、みんなで決めたい。続けたら、もっと消えるかもしれない。でもやめたら、消えた思い出は戻らないかもしれない」
誰も即答しなかった。
風が吹いた。凛ちゃんが言った。
「少し、考えていい?」
「もちろん。急がなくていい」
「わたくしも、少し時間をください」
透子は黙っていた。
ましろちゃんが、そっとわたしの袖を掴んだ。
「先輩」
「なに?」
「ましろ、思い出が消えても、今ここにあるものは消えないと思います」
わたしはましろちゃんを見た。
「今ここにあるもの」
「先輩たちと一緒に歌った記憶。ライブのこと。屋上のこと。それはまだあります」
ましろちゃんは少し不安そうな顔をしながら、でもはっきりと言った。
「だから、ましろはまだここにいたいです」
夕日が落ちていった。みんなの影がコンクリートに伸びた。
答えはまだ出なかった。でも、ましろちゃんの言葉が、夕風の中にしばらく残っていた。



