ライブが終わったあと、体育館のロビーに人が溢れた。
来てくれた子たちが口々に話しかけてきた。よかった、泣いた、透子さんの声がすごかった、最後のMCで泣いた。わたしは一人ひとりに答えながら、その言葉を全部受け取った。これが届いた、ということだと思った。
母親が来てくれた。
「ひかり」
振り返ったら、母親が泣いていた。珍しかった。母親が人前で泣くのを、あまり見たことがなかった。
「よかったよ。本当に」
「見てたの、ちゃんと」
「見てた。全部」
母親が少し笑った。
「最後のMC、あなたらしかった」
「らしかった?」
「昔から、人のために言葉を使う子だったから」
わたしは少し照れた。
「お母さん、一つ聞いていい?」
「なに?」
「送ってくれた写真の子。幼なじみの子。今日来てた?」
母親が少し目を細めた。
「来てたわよ。ほら、前の方に座ってた黒い髪の子の隣に」
「あれ、透子の妹だって思ってたんだけど」
「そうよ、透子ちゃんの妹さんよ。透子ちゃんと一緒に来てくれてた」
わたしは少し考えた。
「じゃあ、写真の子は透子?」
「透子ちゃん?」
母親が少し驚いた顔をした。
「そうよ、あなた本当に覚えてなかったの? 近所に住んでた子よ。小学校に上がる前まで、毎日一緒に遊んでたじゃない」
わたしは少し息を止めた。やっぱりそうだった。でも今は確認じゃなかった。もう分かっていた。ライブの最中に、思い出していたから。
「覚えてる。やっと思い出した」
「よかった。何があって忘れてたのか知らないけれど」
母親がわたしの頬に少しだけ手を当てた。
「ちゃんと思い出せてよかった」
透子は、ロビーの隅にいた。妹と並んで立っていた。妹はわたしの母親に頭を下げていた。透子がその横で、少しだけ困ったような、でも悪くない顔をしていた。
わたしが近づくと、透子がこちらを見た。
「ひかり」
「透子の妹さん?」
「うん。向こうがひかりのお母さん?」
「そう」
透子の妹がわたしに向いた。透子に似ていたけれど、表情が豊かだった。目が大きくて、笑うと顔が変わった。
「お姉ちゃんのこと、いつもありがとうございます」
「こちらこそ。今日来てくれてありがとう」
「来てよかったです。お姉ちゃんの歌、初めてちゃんと聴いた気がして」
透子が横を向いた。
「初めてじゃない」
「ちゃんとは初めて。いつも部屋から聴こえてくるだけだったから」
「じゅうぶんでしょ」
「全然違いましたよ。今日の方が何百倍もよかった」
透子がまた横を向いた。耳が赤かった。
妹がわたしに小声で言った。
「お姉ちゃん、今日帰りにすごく嬉しそうだったらどうしよう、って朝から言ってて」
「言ってない」
透子が即座に言った。
「言ってたよ。嬉しそうにしていいのかな、って」
「言ってない」
妹がくすくす笑った。わたしも笑った。透子は正面を向いたまま、耳の赤さが増した。
凛ちゃんがロビーの外に出ているのに気づいたのは、しばらくあとだった。
人が少し引けてきたころ、玲奈さんがわたしに言った。
「凛さん、外にいますよ」
「ひとりで?」
「そのようです」
わたしは外に出た。
学校の正面玄関の外、植え込みの近くに凛ちゃんが立っていた。スマホを持って、何かを調べているみたいだった。
「凛ちゃん」
凛ちゃんが振り返った。目が少し赤かった。
「ひかり」
「どうしたの、一人で」
「ちょっと調べてた」
「何を?」
凛ちゃんが少し間を置いた。
「地元の友達。名前を思い出したから、SNSで探してた」
わたしは少し驚いた。
「思い出したの? 名前」
「うん。ライブ中に。踊ってたら突然出てきた」
凛ちゃんが手元のスマホを見た。
「田中さくら。あたしと毎日走り回ってた子」
「見つかった?」
「見つかった。同じ学年で、今は隣の県の学校に行ってる」
凛ちゃんはスマホの画面をわたしに向けた。SNSのアカウントが開いていた。短い自己紹介と、写真が一枚。
「見た感じ、元気そうだよね」
「うん」
「連絡、するの?」
凛ちゃんは少し考えた。
「しようと思う。急に連絡来ても驚かせるかもしれないけど、なんか、ちゃんと言いたくて」
「何を?」
「覚えてるって。ずっと覚えてた、って」
凛ちゃんの声が少し震えた。
「ほんとは覚えてなかったんだけど。でも今は覚えてる。だから、覚えてるって言いたい」
わたしは何も言わなかった。
凛ちゃんがスマホを胸に当てた。
「あのさ、ひかり」
「うん?」
「ほしあま部、終わったじゃん」
「うん」
「なのに、なんかすごく満たされた感じがする。終わった悲しさより、やり切った感じの方が全然大きい」
「それはよかった」
「ひかりのおかげだよ。ひかりが誘ってくれなかったら、あたしダンスも歌も、ただ好きなだけで終わってた」
「凛ちゃんが来てくれたから、できたんだよ」
「でも、ありがとう」
凛ちゃんはそう言って、わたしに抱きついてきた。ロビーの中じゃなくて、外で、人が少ないところで。
わたしは凛ちゃんの背中を叩いた。
「ありがとう、凛ちゃん」
「お礼言わないでよ、泣くから」
「もう泣いてるじゃん」
「もっと泣くから」
二人で少し笑った。
音楽室に、玲奈さんがいた。あと片付けが終わったあと、岸本先生が音楽室の鍵を開けてくれていた。玲奈さんがピアノを弾きたいと言ったらしい。
わたしが顔を出すと、玲奈さんがちょうど弾き終わったところだった。
「何弾いてたの?」
「母との思い出が戻ったので、その曲を」
わたしは椅子を引いて、玲奈さんの隣に座った。
「何の曲?」
「母が昔、よく弾いていた曲です。わたくしが小さいころ、夜になるとリビングでよく弾いていて。それを横で聴くのが好きで」
「覚えてたの、それ?」
「戻ってきました。ライブの途中で」
玲奈さんが鍵盤をじっくりと見た。
「サビを歌いながら、急に出てきて。夜のリビングで、お母様がピアノを弾いていて、わたくしがソファから聴いていた。それだけの記憶なんですが」
「でも大事だった」
「とても。自分がピアノを好きになったのは、そこからだと思います。お母様の弾くピアノが好きで、自分も弾きたくなった。その最初の気持ちが、ずっと消えていたんです」
玲奈さんは少し指を鍵盤の上に置いた。
「戻ってきて、よかったです。自分がなぜピアノを弾くのかが、やっと分かった気がします」
「お母さんに、話せる?」
「話します。今夜電話します」
玲奈さんはそう言って、少しだけ微笑んだ。いつもの丁寧な微笑みじゃなかった。もっと素の、柔らかい笑顔だった。
「ひかりさん」
「うん?」
「凛さんのことなんですが」
「凛ちゃんが何か?」
「わたくし、凛さんのこと、もっとちゃんと知りたいと思っています」
わたしは少し笑った。
「それって、どういう意味で?」
「どういう意味かは、まだ分かりません」
玲奈さんが少し考えた。
「ただ、もっと話したい。喧嘩したときに初めて、ちゃんと話せた気がして。それからずっと、もっと話したいと思っていました」
「言えばいいじゃん、凛ちゃんに直接」
「そうですね」
玲奈さんはまた少し微笑んだ。
「言います」
ましろちゃんを探したら、舞台の上にいた。
あと片付けが終わったあとの、誰もいない体育館の舞台に、ましろちゃんが一人で立っていた。客席の方を向いて、ただそこにいた。
「ましろちゃん」
ましろちゃんがわたしの声で振り返った。
「先輩。片付け、手伝わなくてすみませんでした」
「いいよ。何してたの?」
「立ってました」
ましろちゃんは少し恥ずかしそうに言った。
「さっきまであんなに人がいたのに、今は誰もいない。その差が、なんか、感じたくて」
「残響みたいな?」
「そうです。まだここに、さっきの空気が残ってる気がして」
わたしも舞台に上がって、ましろちゃんの隣に立った。
客席を見た。誰もいない。パイプ椅子が乱れていた。プログラムが一枚落ちていた。
でもましろちゃんの言う通り、何かが残っていた。
「ましろちゃん、夢思い出したね」
「はい。学校の先生。歌いながら、急に出てきて。びっくりしました」
「嬉しかった?」
「嬉しかったです。でも、もっと別の気持ちもあって」
「どんな?」
「ましろ、この学校に入りたかったのは、先生になるための勉強をしたかったからだと思いました。でも今は、ほしあま部で歌を歌っていた。全然違う方向に来てしまった気がして」
「後悔してる?」
「してないです」
ましろちゃんは首を振った。
「してないけど、不思議だなと思って。入学したかった理由と、実際にやったことが、全然違うのに、どっちも大事だった」
わたしは少し考えた。
「どっちかが正しくて、どっちかが間違いとか、ないんじゃないかな」
「そうですか」
「入学したかった理由が戻ってきたなら、これからそっちに進めばいい。でも、ほしあま部でやったことも、消えたわけじゃない」
ましろちゃんが少し考えた。
「……先生になっても、歌は歌えますよね」
「歌えるよ。ずっと歌えばいい」
「子どもたちに歌を教えるのも、いいかもしれないです」
「すごくいいと思う」
ましろちゃんが少し顔を上げた。
「先輩」
「うん?」
「ましろ、先輩のことが大好きです」
わたしは少し驚いた。ましろちゃんが真顔でそういうことを言うのは珍しかった。
「ありがとう」
「憧れていたのが、好きになっていました。いつの間にか」
「ましろちゃんのことも好きだよ」
「本当ですか」
「本当。踊り場で膝抱えてた子が、今日あんなに歌ったんだよ。好きにならないわけない」
ましろちゃんが少し顔を俯けた。でも口元が緩んでいた。
「ましろ、また先輩たちと歌えますか」
「歌えるよ。部は終わったけど、歌うのは終わってないから」
「よかった」
ましろちゃんが顔を上げた。
「ましろ、まだ歌いたいです。もっと上手くなりたい」
「なれるよ」
「なれますか」
「透子がいるじゃん、お手本が」
ましろちゃんが笑った。
夕方、学校の外でみんなが揃った。解散する前に、なんとなく揃った。誰かが声をかけたわけじゃなかった。でも気づいたらみんなが校門の前にいた。
春の夕日が低くなっていた。橙の光がみんなを照らしていた。
「屋上、行く?」
凜ちゃんの誘いに、誰も反対しなかった。みんなで校舎に戻って、四階の端まで上がって、扉を開けた。屋上は春の風が吹いていた。冬より柔らかくて、でも夕方だから少し冷たい、ちょうどいい風だった。
みんなでフェンスの前に並んだ。
街を見下ろした。誰も何も言わなかった。しばらく、ただそこに立っていた。
凛ちゃんが口ずさみ始めた。一曲目のサビだった。
玲奈さんが続いた。ましろちゃんが続いた。透子が続いた。
わたしも続いた。マイクも音源も何もなかった。ただみんなの声だけだった。
サビを歌い終わった。
空を見た。流れ星は、落ちなかった。
凛ちゃんが「落ちなかった」と言った。
「うん」とわたしは言った。
「やっぱり終わったんだね」
「そうみたい」
でも凛ちゃんは悲しそうじゃなかった。わたしも悲しくなかった。
ただ、そういうことだった。
伝説の通りだった。最後のライブが終わって、星が降らなくなった。
「でも歌えた」
ましろちゃんが言った。
「歌えた」
「星がなくても歌えました」
「そうだね」
透子がわたしの隣に立っていた。
わたしは透子を見た。透子もわたしを見た。
「透子、幼なじみだったね」
「……うん」
「覚えてた、やっと」
「やっと」
「またここで一緒に歌えたね」
透子は少し間を置いた。
「……また一緒に歌おうね、って言った」
「覚えてた?」
「今日、思い出した」
透子がフェンスに手をかけた。街を見た。
「約束、守れた」
わたしは何も言わなかった。
夕日が落ちていった。橙が濃くなって、少しずつ赤に変わっていく。
流れ星は落ちない夕空の下で、みんなで並んで街を見ていた。
星が降らなくなった屋上は、でも変わらずそこにあった。
風が吹いた。誰かがまた口ずさみ始めた。誰が最初だったか分からなかった。でも気づいたらみんなで歌っていた。
星がなくても、声は出た。声は、ここにあった。
来てくれた子たちが口々に話しかけてきた。よかった、泣いた、透子さんの声がすごかった、最後のMCで泣いた。わたしは一人ひとりに答えながら、その言葉を全部受け取った。これが届いた、ということだと思った。
母親が来てくれた。
「ひかり」
振り返ったら、母親が泣いていた。珍しかった。母親が人前で泣くのを、あまり見たことがなかった。
「よかったよ。本当に」
「見てたの、ちゃんと」
「見てた。全部」
母親が少し笑った。
「最後のMC、あなたらしかった」
「らしかった?」
「昔から、人のために言葉を使う子だったから」
わたしは少し照れた。
「お母さん、一つ聞いていい?」
「なに?」
「送ってくれた写真の子。幼なじみの子。今日来てた?」
母親が少し目を細めた。
「来てたわよ。ほら、前の方に座ってた黒い髪の子の隣に」
「あれ、透子の妹だって思ってたんだけど」
「そうよ、透子ちゃんの妹さんよ。透子ちゃんと一緒に来てくれてた」
わたしは少し考えた。
「じゃあ、写真の子は透子?」
「透子ちゃん?」
母親が少し驚いた顔をした。
「そうよ、あなた本当に覚えてなかったの? 近所に住んでた子よ。小学校に上がる前まで、毎日一緒に遊んでたじゃない」
わたしは少し息を止めた。やっぱりそうだった。でも今は確認じゃなかった。もう分かっていた。ライブの最中に、思い出していたから。
「覚えてる。やっと思い出した」
「よかった。何があって忘れてたのか知らないけれど」
母親がわたしの頬に少しだけ手を当てた。
「ちゃんと思い出せてよかった」
透子は、ロビーの隅にいた。妹と並んで立っていた。妹はわたしの母親に頭を下げていた。透子がその横で、少しだけ困ったような、でも悪くない顔をしていた。
わたしが近づくと、透子がこちらを見た。
「ひかり」
「透子の妹さん?」
「うん。向こうがひかりのお母さん?」
「そう」
透子の妹がわたしに向いた。透子に似ていたけれど、表情が豊かだった。目が大きくて、笑うと顔が変わった。
「お姉ちゃんのこと、いつもありがとうございます」
「こちらこそ。今日来てくれてありがとう」
「来てよかったです。お姉ちゃんの歌、初めてちゃんと聴いた気がして」
透子が横を向いた。
「初めてじゃない」
「ちゃんとは初めて。いつも部屋から聴こえてくるだけだったから」
「じゅうぶんでしょ」
「全然違いましたよ。今日の方が何百倍もよかった」
透子がまた横を向いた。耳が赤かった。
妹がわたしに小声で言った。
「お姉ちゃん、今日帰りにすごく嬉しそうだったらどうしよう、って朝から言ってて」
「言ってない」
透子が即座に言った。
「言ってたよ。嬉しそうにしていいのかな、って」
「言ってない」
妹がくすくす笑った。わたしも笑った。透子は正面を向いたまま、耳の赤さが増した。
凛ちゃんがロビーの外に出ているのに気づいたのは、しばらくあとだった。
人が少し引けてきたころ、玲奈さんがわたしに言った。
「凛さん、外にいますよ」
「ひとりで?」
「そのようです」
わたしは外に出た。
学校の正面玄関の外、植え込みの近くに凛ちゃんが立っていた。スマホを持って、何かを調べているみたいだった。
「凛ちゃん」
凛ちゃんが振り返った。目が少し赤かった。
「ひかり」
「どうしたの、一人で」
「ちょっと調べてた」
「何を?」
凛ちゃんが少し間を置いた。
「地元の友達。名前を思い出したから、SNSで探してた」
わたしは少し驚いた。
「思い出したの? 名前」
「うん。ライブ中に。踊ってたら突然出てきた」
凛ちゃんが手元のスマホを見た。
「田中さくら。あたしと毎日走り回ってた子」
「見つかった?」
「見つかった。同じ学年で、今は隣の県の学校に行ってる」
凛ちゃんはスマホの画面をわたしに向けた。SNSのアカウントが開いていた。短い自己紹介と、写真が一枚。
「見た感じ、元気そうだよね」
「うん」
「連絡、するの?」
凛ちゃんは少し考えた。
「しようと思う。急に連絡来ても驚かせるかもしれないけど、なんか、ちゃんと言いたくて」
「何を?」
「覚えてるって。ずっと覚えてた、って」
凛ちゃんの声が少し震えた。
「ほんとは覚えてなかったんだけど。でも今は覚えてる。だから、覚えてるって言いたい」
わたしは何も言わなかった。
凛ちゃんがスマホを胸に当てた。
「あのさ、ひかり」
「うん?」
「ほしあま部、終わったじゃん」
「うん」
「なのに、なんかすごく満たされた感じがする。終わった悲しさより、やり切った感じの方が全然大きい」
「それはよかった」
「ひかりのおかげだよ。ひかりが誘ってくれなかったら、あたしダンスも歌も、ただ好きなだけで終わってた」
「凛ちゃんが来てくれたから、できたんだよ」
「でも、ありがとう」
凛ちゃんはそう言って、わたしに抱きついてきた。ロビーの中じゃなくて、外で、人が少ないところで。
わたしは凛ちゃんの背中を叩いた。
「ありがとう、凛ちゃん」
「お礼言わないでよ、泣くから」
「もう泣いてるじゃん」
「もっと泣くから」
二人で少し笑った。
音楽室に、玲奈さんがいた。あと片付けが終わったあと、岸本先生が音楽室の鍵を開けてくれていた。玲奈さんがピアノを弾きたいと言ったらしい。
わたしが顔を出すと、玲奈さんがちょうど弾き終わったところだった。
「何弾いてたの?」
「母との思い出が戻ったので、その曲を」
わたしは椅子を引いて、玲奈さんの隣に座った。
「何の曲?」
「母が昔、よく弾いていた曲です。わたくしが小さいころ、夜になるとリビングでよく弾いていて。それを横で聴くのが好きで」
「覚えてたの、それ?」
「戻ってきました。ライブの途中で」
玲奈さんが鍵盤をじっくりと見た。
「サビを歌いながら、急に出てきて。夜のリビングで、お母様がピアノを弾いていて、わたくしがソファから聴いていた。それだけの記憶なんですが」
「でも大事だった」
「とても。自分がピアノを好きになったのは、そこからだと思います。お母様の弾くピアノが好きで、自分も弾きたくなった。その最初の気持ちが、ずっと消えていたんです」
玲奈さんは少し指を鍵盤の上に置いた。
「戻ってきて、よかったです。自分がなぜピアノを弾くのかが、やっと分かった気がします」
「お母さんに、話せる?」
「話します。今夜電話します」
玲奈さんはそう言って、少しだけ微笑んだ。いつもの丁寧な微笑みじゃなかった。もっと素の、柔らかい笑顔だった。
「ひかりさん」
「うん?」
「凛さんのことなんですが」
「凛ちゃんが何か?」
「わたくし、凛さんのこと、もっとちゃんと知りたいと思っています」
わたしは少し笑った。
「それって、どういう意味で?」
「どういう意味かは、まだ分かりません」
玲奈さんが少し考えた。
「ただ、もっと話したい。喧嘩したときに初めて、ちゃんと話せた気がして。それからずっと、もっと話したいと思っていました」
「言えばいいじゃん、凛ちゃんに直接」
「そうですね」
玲奈さんはまた少し微笑んだ。
「言います」
ましろちゃんを探したら、舞台の上にいた。
あと片付けが終わったあとの、誰もいない体育館の舞台に、ましろちゃんが一人で立っていた。客席の方を向いて、ただそこにいた。
「ましろちゃん」
ましろちゃんがわたしの声で振り返った。
「先輩。片付け、手伝わなくてすみませんでした」
「いいよ。何してたの?」
「立ってました」
ましろちゃんは少し恥ずかしそうに言った。
「さっきまであんなに人がいたのに、今は誰もいない。その差が、なんか、感じたくて」
「残響みたいな?」
「そうです。まだここに、さっきの空気が残ってる気がして」
わたしも舞台に上がって、ましろちゃんの隣に立った。
客席を見た。誰もいない。パイプ椅子が乱れていた。プログラムが一枚落ちていた。
でもましろちゃんの言う通り、何かが残っていた。
「ましろちゃん、夢思い出したね」
「はい。学校の先生。歌いながら、急に出てきて。びっくりしました」
「嬉しかった?」
「嬉しかったです。でも、もっと別の気持ちもあって」
「どんな?」
「ましろ、この学校に入りたかったのは、先生になるための勉強をしたかったからだと思いました。でも今は、ほしあま部で歌を歌っていた。全然違う方向に来てしまった気がして」
「後悔してる?」
「してないです」
ましろちゃんは首を振った。
「してないけど、不思議だなと思って。入学したかった理由と、実際にやったことが、全然違うのに、どっちも大事だった」
わたしは少し考えた。
「どっちかが正しくて、どっちかが間違いとか、ないんじゃないかな」
「そうですか」
「入学したかった理由が戻ってきたなら、これからそっちに進めばいい。でも、ほしあま部でやったことも、消えたわけじゃない」
ましろちゃんが少し考えた。
「……先生になっても、歌は歌えますよね」
「歌えるよ。ずっと歌えばいい」
「子どもたちに歌を教えるのも、いいかもしれないです」
「すごくいいと思う」
ましろちゃんが少し顔を上げた。
「先輩」
「うん?」
「ましろ、先輩のことが大好きです」
わたしは少し驚いた。ましろちゃんが真顔でそういうことを言うのは珍しかった。
「ありがとう」
「憧れていたのが、好きになっていました。いつの間にか」
「ましろちゃんのことも好きだよ」
「本当ですか」
「本当。踊り場で膝抱えてた子が、今日あんなに歌ったんだよ。好きにならないわけない」
ましろちゃんが少し顔を俯けた。でも口元が緩んでいた。
「ましろ、また先輩たちと歌えますか」
「歌えるよ。部は終わったけど、歌うのは終わってないから」
「よかった」
ましろちゃんが顔を上げた。
「ましろ、まだ歌いたいです。もっと上手くなりたい」
「なれるよ」
「なれますか」
「透子がいるじゃん、お手本が」
ましろちゃんが笑った。
夕方、学校の外でみんなが揃った。解散する前に、なんとなく揃った。誰かが声をかけたわけじゃなかった。でも気づいたらみんなが校門の前にいた。
春の夕日が低くなっていた。橙の光がみんなを照らしていた。
「屋上、行く?」
凜ちゃんの誘いに、誰も反対しなかった。みんなで校舎に戻って、四階の端まで上がって、扉を開けた。屋上は春の風が吹いていた。冬より柔らかくて、でも夕方だから少し冷たい、ちょうどいい風だった。
みんなでフェンスの前に並んだ。
街を見下ろした。誰も何も言わなかった。しばらく、ただそこに立っていた。
凛ちゃんが口ずさみ始めた。一曲目のサビだった。
玲奈さんが続いた。ましろちゃんが続いた。透子が続いた。
わたしも続いた。マイクも音源も何もなかった。ただみんなの声だけだった。
サビを歌い終わった。
空を見た。流れ星は、落ちなかった。
凛ちゃんが「落ちなかった」と言った。
「うん」とわたしは言った。
「やっぱり終わったんだね」
「そうみたい」
でも凛ちゃんは悲しそうじゃなかった。わたしも悲しくなかった。
ただ、そういうことだった。
伝説の通りだった。最後のライブが終わって、星が降らなくなった。
「でも歌えた」
ましろちゃんが言った。
「歌えた」
「星がなくても歌えました」
「そうだね」
透子がわたしの隣に立っていた。
わたしは透子を見た。透子もわたしを見た。
「透子、幼なじみだったね」
「……うん」
「覚えてた、やっと」
「やっと」
「またここで一緒に歌えたね」
透子は少し間を置いた。
「……また一緒に歌おうね、って言った」
「覚えてた?」
「今日、思い出した」
透子がフェンスに手をかけた。街を見た。
「約束、守れた」
わたしは何も言わなかった。
夕日が落ちていった。橙が濃くなって、少しずつ赤に変わっていく。
流れ星は落ちない夕空の下で、みんなで並んで街を見ていた。
星が降らなくなった屋上は、でも変わらずそこにあった。
風が吹いた。誰かがまた口ずさみ始めた。誰が最初だったか分からなかった。でも気づいたらみんなで歌っていた。
星がなくても、声は出た。声は、ここにあった。



