三月後半の土曜日は、晴れだった。朝から空が高くて、風が少しだけあたたかかった。桜はまだ咲いていなかったけれど、春はもう来ていた。体育館に着いたのは、昼の十二時だった。
みんなで荷物を持って、正面玄関から入った。廊下を歩くと、岸本先生がすでに体育館の準備をしていた。パイプ椅子が並んでいた。スピーカーが設置されていた。舞台の上に、マイクスタンドが五本立っていた。
「来たわね」
「おはようございます」
「今日は天気がいい。声が通りやすい日よ」
先生は相変わらずだった。淡々としていて、でも来てくれていた。準備をしてくれていた。わたしはそれだけで、じゅうぶんだと思った。
四人が舞台の確認をしている間、わたしは体育館の入り口に立って、客席を見た。
まだ誰も来ていない。パイプ椅子が整然と並んでいる。高い天井から光が差し込んでいる。文化祭のときと同じ場所なのに、今日は少し違う感じがした。あのときより、重かった。あのときより、大事だった。
開場は一時。ライブは一時半。
まだ一時間以上ある。
楽屋代わりにした会議室で、みんなで衣装に着替えた。白い衣装を着ると、少し背筋が伸びた。玲奈さんが仕上げた衣装は、最初に作ったときより少しだけ綺麗になっていた。ましろちゃんが「きれいです」と言って、凛ちゃんが「でしょ」と自慢そうに言った。
鏡の前で、みんなで並んだ。
わたしは四人の顔を順番に見た。凛ちゃんは少し緊張した顔をしていたけれど、目が笑っていた。今日が楽しみで仕方ない、という顔だった。
玲奈さんは落ち着いていた。いつものコンクール前と同じ顔、とは少し違った。コンクールのときより、どこか柔らかかった。
ましろちゃんは緊張で顔が白かった。でも背筋は伸びていた。半年前に踊り場で膝を抱えていた子が、今日は舞台に立つ。
透子は鏡を見ていなかった。窓の外を見ていた。何かを確認しているみたいな目だった。
わたしは透子の隣に立った。
「大丈夫?」
「……うん」
「さっきお母さんから連絡来た。妹さん一緒に来てくれるって」
透子の肩が少し動いた。
「そう」
「うん。楽しみにしてるって」
透子は何も言わなかった。でも耳が少し赤くなった。
凛ちゃんがわたしを呼んだ。
「ひかり、玲奈に髪直してもらってる。来る?」
「行く」
わたしは透子の肩を一度だけ軽く叩いて、凛ちゃんの方に向かった。
一時になった。会議室の扉の外から、人の声が聞こえてきた。廊下に人が集まってきているらしかった。凛ちゃんが扉に近づいて耳を当てた。
「けっこう来てる。笑い声とか聞こえる」
「文化祭のとき来てた子たちかな」
「あとSNSで見た人とか。外部の人もいるかも」
ましろちゃんが「外部の人も来るんですか」と少し驚いた顔をした。
「来るかもしれない。でも怖くないよ。誰が来ても、わたしたちが歌うことは変わらないから」
ましろちゃんが頷いた。でも顔は白いままだった。
透子が立ち上がった。少し部屋を歩いて、また座った。落ち着かないのか、と思ったけれど透子が体を動かしているのは珍しかった。
「透子、緊張してる?」
「……してる」
「文化祭のときも緊張してたよね」
「あのときより、してる」
「なんで?」
透子は少し間を置いた。
「妹がいるから」
「見られるのが緊張する?」
「……見ててほしい人がいると、ちゃんとしたくなる」
わたしはその言葉を聞いて、少し胸があたたかくなった。
透子は変わった。最初に屋上で一人で歌っていた透子は、誰かに見ていてほしいとは思っていなかったはずだ。でも今は、見ていてほしい人がいる。
「ちゃんとできるよ」とわたしは言った。
「根拠は」
「今まで全部ちゃんとできたから」
「それだけ?」
「それだけ。でもじゅうぶんでしょ」
透子はわずかに口元を緩めた。
一時半になった。みんなで体育館の袖に移動した。
客席を袖から覗いた。満員だった。パイプ椅子が全部埋まっていた。後ろに立っている人もいた。文化祭のときより多かった。知っている顔も見えた。同じクラスの子、他のクラスの子、先生たち。岸本先生が後ろの方に立っていた。
そして、前の方に、見慣れない顔が二つあった。
わたしの母親と、隣に座っている女の子。中学生くらいの、黒い髪の。
透子の妹だと分かった。透子に少し似ていた。
透子も気づいていた。袖から客席を見て、少しだけ息を止めたのが分かった。
「見えた?」とわたしは小さく聞いた。
「……見えた」
「よかった」
透子はそれ以上何も言わなかった。でも、目が少し変わった。さっきまでの緊張とは違う、何か別のものが混じった目になった。
凛ちゃんがわたしの手を握った。ましろちゃんがわたしの袖を掴んだ。
「行こう」とわたしは言った。
舞台に出た。照明が眩しかった。文化祭のときと同じ眩しさだったけれど、今日はもっと体の芯に来た。客席がざわめいていたのが、少しずつ静かになった。
みんなで定位置に立った。マイクを持った。
玲奈さんが音源を確認した。頷いた。
音楽が流れ始めた。
一曲目。最初に作った曲。屋上で初めてみんなで歌ったメロディ。
わたしが入った。凛ちゃんが続いた。透子が入った。
透子の声が入ると、空気が変わった。今日も同じだった。
客席が静かになった。一曲目を歌いながら、わたしは一年間のことを思い出していた。
転校してきた日の屋上。透子が一人で歌っていた。流れ星が落ちた。凛ちゃんに声をかけた。玲奈さんの教室に行った。踊り場でましろちゃんが膝を抱えていた。文化祭で初めてライブをした。体育館の窓から流れ星が落ちた。
全部が、この一曲に入っている気がした。
サビで声を張った。
みんなの声が体育館に広がった。
客席の前の方で、わたしの母親が口に手を当てていた。
一曲目が終わった。拍手が来た。
MCを短くした。
「星降る屋上アイドル部、ほしあま部です。今日は来てくれてありがとうございます」
拍手。
「今日は三曲やります。最後まで聴いていただけたら嬉しいです」
それだけにした。
余分なことを言う時間がもったいなかった。早く歌いたかった。
二曲目が始まった。
玲奈さんが作った、覚悟の曲。内側から外側へ広がる曲。
凛ちゃんの振り付けが始まった。サビの前半で抑えて、後半で解放される動き。練習通りだった。でも練習より、全部が大きかった。
透子が歌っていた。
二曲目の透子は、一曲目より深いところから声を出していた。妹がいるから、とさっき言っていた。見ていてほしい人がいると、ちゃんとしたくなる、と。
サビに入ったとき、窓の外に光が見えた。
体育館の高い窓から、空が見えた。その空を、光が走った。
文化祭のときと同じだった。
凛ちゃんが踊りながら気づいた。目が少し大きくなった。でも踊り続けた。
流れ星が落ちていた。体育館の外でも、わたしたちが歌えば落ちる。
二曲目が終わった。
拍手の中で、凛ちゃんがわたしに小声で言った。
「さっき、窓の外」
「見てた」
「落ちてた」
「うん」
「最後の曲でも落ちるかな」
「落ちると思う」
凛ちゃんが小さく頷いた。
三曲目の前に、少しだけ間を置いた。
みんなで一度顔を見合わせた。
凛ちゃんが頷いた。玲奈さんが目を閉じた。ましろちゃんが唇を少し噛んだ。透子がわたしを見た。
わたしは透子の目を見た。
何も言わなかった。でも、何かを伝えた気がした。全部、伝わった気がした。
音楽が流れ始めた。
星が降らなくなった日。
穏やかな始まり。玲奈さんのピアノの音が体育館に広がった。ゆっくりとしたテンポで、でも単純じゃない。何層かの音が重なって、少しずつ積み上がっていく。
透子が最初の一音を出した。その瞬間、客席の空気が変わった。
二曲目の透子も良かった。でも三曲目の透子は、もっと違った。声の中に何かが入っていた。さっきまでの透子とも、練習のときの透子とも、違った。
別れる気持ち、と透子は言っていた。本番のときにしか、本当の意味では歌えない、と。
本当のことだった。
今日の透子の声は、透子が半年間で経験したことが全部入っているみたいだった。一人で屋上で歌っていたこと。ひとりでいる方が楽だと思っていたこと。みんなと歌って、違いが分かったこと。妹との記憶が消えていったこと。それでも続けることを選んだこと。全部が、声に乗っていた。
Bメロに入った。
凛ちゃんが踊っていた。
踊りながら、突然動きが一瞬止まりそうになった。
わたしには分かった。
凛ちゃんの顔が、何かを思い出したときの顔になっていた。
でも凛ちゃんは踊り続けた。止まらなかった。目に涙が浮かんでいたけれど、踊り続けた。
しばらくして、凛ちゃんが小さく声を漏らした。歌いながら、踊りながら、ぽつりと言った。
「思い出した……」
客席には聞こえない声だった。でもわたしには聞こえた。
「あの子の名前……思い出した」
凛ちゃんは泣きながら踊り続けた。笑いながら踊り続けた。
サビに入った。
玲奈さんがピアノ伴奏をしながら、突然涙をこぼした。
演奏は止まらなかった。指が動き続けていた。でも頬を涙が伝っていた。
玲奈さんが歌いながら、小さく言った。
「お母様……」
それだけだった。でもその一言に、全部入っていた。
玲奈さんは演奏を続けた。声を出し続けた。
二番のAメロ。
ましろちゃんが歌いながら、少し顔を上げた。
普段は一点を見て歌うましろちゃんが、今日は空を見ていた。体育館の高い天井を。
そして歌いながら、ゆっくりと言った。
「ましろ、思い出しました」
声が少し震えていた。
「ましろの夢……歌手じゃなくて」
間があった。
「学校の先生になりたかったんです」
ましろちゃんの目から涙がこぼれた。でも歌い続けた。声が震えていたけれど、音程は外れなかった。
学校の先生。
ましろちゃんが忘れていた夢が、戻ってきた。
この場所に来たかった理由が、戻ってきた。
二番のサビ。透子の声が、突然変わった。
変わった、というより、何かが加わった。声の芯に、熱いものが混じった。
透子が歌いながら泣いていた。透子が泣くのを、わたしは初めて見た。表情を変えない透子が、舞台の上で泣いていた。涙をこぼしながら、まっすぐ前を向いて歌っていた。
透子が歌いながら言った。声が少し乱れていたけれど、歌い続けた。
「妹のこと……思い出した」
間。
「私、約束してた」
また間。
「ずっと歌を聴かせるって」
透子の声が、一瞬だけ途切れそうになった。
でも途切れなかった。
次の瞬間、今日一番の声が出た。サビの最後の音を、透子は今日の最高の声で歌った。体育館全体に広がった。客席のどこかで、誰かが息を飲む音がした。
最後のサビへの前奏が始まった。
空を見た。体育館の高い窓から、空が見えた。
光が走った。一本じゃなかった。
何本も落ちていた。数えられないくらい。文化祭のときの一本とも、屋上の五本とも違った。体育館の外の空を、何本もの流れ星が同時に落ちていった。
凛ちゃんが気づいた。ましろちゃんが気づいた。玲奈さんが気づいた。透子が気づいた。
客席でも、窓の方を向いた人がいた。
「星」と誰かが言った。
でも音楽は止まらなかった。わたしたちも止まらなかった。
最後のサビが来た。
最後のサビ前、わたしは息を吸った。
空を見た。窓の外に、一番大きな流れ星が落ちていった。
その瞬間、わたしの頭の中で何かが動いた。
公園。ブランコ。二つ並んで。黒い髪の子。
その子が歌っていた。小さな声で、でも透き通るような声で。
わたしが「上手いね」と言った。
その子が振り返った。
顔が見えた。
見えた。
小さい透子だった。
あの写真の子は、透子だった。ブランコに並んで乗っていたのは、透子だった。透き通るような声で歌っていたのは、透子だった。
そして透子が言っていた。
「また一緒に歌おうね」
その声が、頭の中で鮮明に聞こえた。
わたしは泣きながら、最後のサビを歌った。
客席に、わたしの母親がいた。隣に透子の妹がいた。二人とも泣いていた。
透子がわたしを見ていた。
わたしも透子を見た。透子の目が少し大きくなった。
きっと透子にも、何かが戻っていた。あの公園の記憶が。ブランコに並んで座った記憶が。「また一緒に歌おうね」と言った記憶が。
全部が繋がった。わたしたちは、最初から知っていた。
忘れていただけで、ずっと前から知っていた。
最後のサビを、みんなで歌い切った。
音楽が止まった。体育館が静かになった。
一秒。二秒。それから、拍手が来た。文化祭のときより大きかった。スタンディングオベーションだった。パイプ椅子から立ち上がっている人が、客席のあちこちにいた。
わたしは少し前に出て、マイクを持った。
MCをする予定だった。最後の挨拶を、ちゃんと言おうと思っていた。
でも言葉が出てこなかった。
涙が先に来た。わたしは少し笑いながら、泣きながら、それでもマイクを握った。
「流れ星が落ちる屋上で、わたしたちは出会いました」
声が少し震えた。でも続けた。
「願い事も、夢も、思い出も、たくさんありました」
客席のみんなが静かに聞いていた。
「でも、いちばん大事だったのは」
透子を見た。凛ちゃんを見た。玲奈さんを見た。ましろちゃんを見た。
「ここでみんなと歌っていた時間です」
また拍手が起きそうになった。でもみんな、続きを待っていた。
「流れ星がなくなっても」
「アイドル部が終わっても」
「わたしたちは、きっと大丈夫です」
最後の一言を、はっきりと言った。
「だって私たちは――」
みんなで声を揃えた。
「「「「「一緒に歌ったから」」」」」
拍手が来た。
体育館全体が、音に包まれた。
舞台裏に引っ込んだ。凛ちゃんが泣き笑いの顔でわたしに抱きついてきた。ましろちゃんが凛ちゃんの後ろから重なってきた。玲奈さんが三人の外側からそっと手を添えた。
透子が、少し離れたところに立っていた。
わたしは凛ちゃんとましろちゃんから離れて、透子の前に立った。
「透子」
「……うん」
「思い出した?」
透子は少し間を置いた。
「……公園。ブランコ。あなたが来て、歌が上手いって言ってくれた」
「うん」
「また一緒に歌おうねって、言った」
「覚えてた」
「……やっと」
透子の目が少し潤んでいた。泣いたあとの目だった。
「幼なじみ、透子だった」
「……うん」
「ずっと一緒にいた。忘れてただけで」
「……ずっと一緒にいた」
透子が少し前に出た。わたしの胸に、額を押し当ててきた。
抱きつくというより、ただもたれてきた。でもそれが透子らしかった。
わたしは透子の背中に手を回した。
凛ちゃんが「えっ」と言った。ましろちゃんが「あっ」と言った。玲奈さんが穏やかに微笑んだ。体育館からまだ拍手が聞こえていた。春の光が廊下の窓から差し込んでいた。
星降る屋上アイドル部の、最後のライブが終わった。
みんなで荷物を持って、正面玄関から入った。廊下を歩くと、岸本先生がすでに体育館の準備をしていた。パイプ椅子が並んでいた。スピーカーが設置されていた。舞台の上に、マイクスタンドが五本立っていた。
「来たわね」
「おはようございます」
「今日は天気がいい。声が通りやすい日よ」
先生は相変わらずだった。淡々としていて、でも来てくれていた。準備をしてくれていた。わたしはそれだけで、じゅうぶんだと思った。
四人が舞台の確認をしている間、わたしは体育館の入り口に立って、客席を見た。
まだ誰も来ていない。パイプ椅子が整然と並んでいる。高い天井から光が差し込んでいる。文化祭のときと同じ場所なのに、今日は少し違う感じがした。あのときより、重かった。あのときより、大事だった。
開場は一時。ライブは一時半。
まだ一時間以上ある。
楽屋代わりにした会議室で、みんなで衣装に着替えた。白い衣装を着ると、少し背筋が伸びた。玲奈さんが仕上げた衣装は、最初に作ったときより少しだけ綺麗になっていた。ましろちゃんが「きれいです」と言って、凛ちゃんが「でしょ」と自慢そうに言った。
鏡の前で、みんなで並んだ。
わたしは四人の顔を順番に見た。凛ちゃんは少し緊張した顔をしていたけれど、目が笑っていた。今日が楽しみで仕方ない、という顔だった。
玲奈さんは落ち着いていた。いつものコンクール前と同じ顔、とは少し違った。コンクールのときより、どこか柔らかかった。
ましろちゃんは緊張で顔が白かった。でも背筋は伸びていた。半年前に踊り場で膝を抱えていた子が、今日は舞台に立つ。
透子は鏡を見ていなかった。窓の外を見ていた。何かを確認しているみたいな目だった。
わたしは透子の隣に立った。
「大丈夫?」
「……うん」
「さっきお母さんから連絡来た。妹さん一緒に来てくれるって」
透子の肩が少し動いた。
「そう」
「うん。楽しみにしてるって」
透子は何も言わなかった。でも耳が少し赤くなった。
凛ちゃんがわたしを呼んだ。
「ひかり、玲奈に髪直してもらってる。来る?」
「行く」
わたしは透子の肩を一度だけ軽く叩いて、凛ちゃんの方に向かった。
一時になった。会議室の扉の外から、人の声が聞こえてきた。廊下に人が集まってきているらしかった。凛ちゃんが扉に近づいて耳を当てた。
「けっこう来てる。笑い声とか聞こえる」
「文化祭のとき来てた子たちかな」
「あとSNSで見た人とか。外部の人もいるかも」
ましろちゃんが「外部の人も来るんですか」と少し驚いた顔をした。
「来るかもしれない。でも怖くないよ。誰が来ても、わたしたちが歌うことは変わらないから」
ましろちゃんが頷いた。でも顔は白いままだった。
透子が立ち上がった。少し部屋を歩いて、また座った。落ち着かないのか、と思ったけれど透子が体を動かしているのは珍しかった。
「透子、緊張してる?」
「……してる」
「文化祭のときも緊張してたよね」
「あのときより、してる」
「なんで?」
透子は少し間を置いた。
「妹がいるから」
「見られるのが緊張する?」
「……見ててほしい人がいると、ちゃんとしたくなる」
わたしはその言葉を聞いて、少し胸があたたかくなった。
透子は変わった。最初に屋上で一人で歌っていた透子は、誰かに見ていてほしいとは思っていなかったはずだ。でも今は、見ていてほしい人がいる。
「ちゃんとできるよ」とわたしは言った。
「根拠は」
「今まで全部ちゃんとできたから」
「それだけ?」
「それだけ。でもじゅうぶんでしょ」
透子はわずかに口元を緩めた。
一時半になった。みんなで体育館の袖に移動した。
客席を袖から覗いた。満員だった。パイプ椅子が全部埋まっていた。後ろに立っている人もいた。文化祭のときより多かった。知っている顔も見えた。同じクラスの子、他のクラスの子、先生たち。岸本先生が後ろの方に立っていた。
そして、前の方に、見慣れない顔が二つあった。
わたしの母親と、隣に座っている女の子。中学生くらいの、黒い髪の。
透子の妹だと分かった。透子に少し似ていた。
透子も気づいていた。袖から客席を見て、少しだけ息を止めたのが分かった。
「見えた?」とわたしは小さく聞いた。
「……見えた」
「よかった」
透子はそれ以上何も言わなかった。でも、目が少し変わった。さっきまでの緊張とは違う、何か別のものが混じった目になった。
凛ちゃんがわたしの手を握った。ましろちゃんがわたしの袖を掴んだ。
「行こう」とわたしは言った。
舞台に出た。照明が眩しかった。文化祭のときと同じ眩しさだったけれど、今日はもっと体の芯に来た。客席がざわめいていたのが、少しずつ静かになった。
みんなで定位置に立った。マイクを持った。
玲奈さんが音源を確認した。頷いた。
音楽が流れ始めた。
一曲目。最初に作った曲。屋上で初めてみんなで歌ったメロディ。
わたしが入った。凛ちゃんが続いた。透子が入った。
透子の声が入ると、空気が変わった。今日も同じだった。
客席が静かになった。一曲目を歌いながら、わたしは一年間のことを思い出していた。
転校してきた日の屋上。透子が一人で歌っていた。流れ星が落ちた。凛ちゃんに声をかけた。玲奈さんの教室に行った。踊り場でましろちゃんが膝を抱えていた。文化祭で初めてライブをした。体育館の窓から流れ星が落ちた。
全部が、この一曲に入っている気がした。
サビで声を張った。
みんなの声が体育館に広がった。
客席の前の方で、わたしの母親が口に手を当てていた。
一曲目が終わった。拍手が来た。
MCを短くした。
「星降る屋上アイドル部、ほしあま部です。今日は来てくれてありがとうございます」
拍手。
「今日は三曲やります。最後まで聴いていただけたら嬉しいです」
それだけにした。
余分なことを言う時間がもったいなかった。早く歌いたかった。
二曲目が始まった。
玲奈さんが作った、覚悟の曲。内側から外側へ広がる曲。
凛ちゃんの振り付けが始まった。サビの前半で抑えて、後半で解放される動き。練習通りだった。でも練習より、全部が大きかった。
透子が歌っていた。
二曲目の透子は、一曲目より深いところから声を出していた。妹がいるから、とさっき言っていた。見ていてほしい人がいると、ちゃんとしたくなる、と。
サビに入ったとき、窓の外に光が見えた。
体育館の高い窓から、空が見えた。その空を、光が走った。
文化祭のときと同じだった。
凛ちゃんが踊りながら気づいた。目が少し大きくなった。でも踊り続けた。
流れ星が落ちていた。体育館の外でも、わたしたちが歌えば落ちる。
二曲目が終わった。
拍手の中で、凛ちゃんがわたしに小声で言った。
「さっき、窓の外」
「見てた」
「落ちてた」
「うん」
「最後の曲でも落ちるかな」
「落ちると思う」
凛ちゃんが小さく頷いた。
三曲目の前に、少しだけ間を置いた。
みんなで一度顔を見合わせた。
凛ちゃんが頷いた。玲奈さんが目を閉じた。ましろちゃんが唇を少し噛んだ。透子がわたしを見た。
わたしは透子の目を見た。
何も言わなかった。でも、何かを伝えた気がした。全部、伝わった気がした。
音楽が流れ始めた。
星が降らなくなった日。
穏やかな始まり。玲奈さんのピアノの音が体育館に広がった。ゆっくりとしたテンポで、でも単純じゃない。何層かの音が重なって、少しずつ積み上がっていく。
透子が最初の一音を出した。その瞬間、客席の空気が変わった。
二曲目の透子も良かった。でも三曲目の透子は、もっと違った。声の中に何かが入っていた。さっきまでの透子とも、練習のときの透子とも、違った。
別れる気持ち、と透子は言っていた。本番のときにしか、本当の意味では歌えない、と。
本当のことだった。
今日の透子の声は、透子が半年間で経験したことが全部入っているみたいだった。一人で屋上で歌っていたこと。ひとりでいる方が楽だと思っていたこと。みんなと歌って、違いが分かったこと。妹との記憶が消えていったこと。それでも続けることを選んだこと。全部が、声に乗っていた。
Bメロに入った。
凛ちゃんが踊っていた。
踊りながら、突然動きが一瞬止まりそうになった。
わたしには分かった。
凛ちゃんの顔が、何かを思い出したときの顔になっていた。
でも凛ちゃんは踊り続けた。止まらなかった。目に涙が浮かんでいたけれど、踊り続けた。
しばらくして、凛ちゃんが小さく声を漏らした。歌いながら、踊りながら、ぽつりと言った。
「思い出した……」
客席には聞こえない声だった。でもわたしには聞こえた。
「あの子の名前……思い出した」
凛ちゃんは泣きながら踊り続けた。笑いながら踊り続けた。
サビに入った。
玲奈さんがピアノ伴奏をしながら、突然涙をこぼした。
演奏は止まらなかった。指が動き続けていた。でも頬を涙が伝っていた。
玲奈さんが歌いながら、小さく言った。
「お母様……」
それだけだった。でもその一言に、全部入っていた。
玲奈さんは演奏を続けた。声を出し続けた。
二番のAメロ。
ましろちゃんが歌いながら、少し顔を上げた。
普段は一点を見て歌うましろちゃんが、今日は空を見ていた。体育館の高い天井を。
そして歌いながら、ゆっくりと言った。
「ましろ、思い出しました」
声が少し震えていた。
「ましろの夢……歌手じゃなくて」
間があった。
「学校の先生になりたかったんです」
ましろちゃんの目から涙がこぼれた。でも歌い続けた。声が震えていたけれど、音程は外れなかった。
学校の先生。
ましろちゃんが忘れていた夢が、戻ってきた。
この場所に来たかった理由が、戻ってきた。
二番のサビ。透子の声が、突然変わった。
変わった、というより、何かが加わった。声の芯に、熱いものが混じった。
透子が歌いながら泣いていた。透子が泣くのを、わたしは初めて見た。表情を変えない透子が、舞台の上で泣いていた。涙をこぼしながら、まっすぐ前を向いて歌っていた。
透子が歌いながら言った。声が少し乱れていたけれど、歌い続けた。
「妹のこと……思い出した」
間。
「私、約束してた」
また間。
「ずっと歌を聴かせるって」
透子の声が、一瞬だけ途切れそうになった。
でも途切れなかった。
次の瞬間、今日一番の声が出た。サビの最後の音を、透子は今日の最高の声で歌った。体育館全体に広がった。客席のどこかで、誰かが息を飲む音がした。
最後のサビへの前奏が始まった。
空を見た。体育館の高い窓から、空が見えた。
光が走った。一本じゃなかった。
何本も落ちていた。数えられないくらい。文化祭のときの一本とも、屋上の五本とも違った。体育館の外の空を、何本もの流れ星が同時に落ちていった。
凛ちゃんが気づいた。ましろちゃんが気づいた。玲奈さんが気づいた。透子が気づいた。
客席でも、窓の方を向いた人がいた。
「星」と誰かが言った。
でも音楽は止まらなかった。わたしたちも止まらなかった。
最後のサビが来た。
最後のサビ前、わたしは息を吸った。
空を見た。窓の外に、一番大きな流れ星が落ちていった。
その瞬間、わたしの頭の中で何かが動いた。
公園。ブランコ。二つ並んで。黒い髪の子。
その子が歌っていた。小さな声で、でも透き通るような声で。
わたしが「上手いね」と言った。
その子が振り返った。
顔が見えた。
見えた。
小さい透子だった。
あの写真の子は、透子だった。ブランコに並んで乗っていたのは、透子だった。透き通るような声で歌っていたのは、透子だった。
そして透子が言っていた。
「また一緒に歌おうね」
その声が、頭の中で鮮明に聞こえた。
わたしは泣きながら、最後のサビを歌った。
客席に、わたしの母親がいた。隣に透子の妹がいた。二人とも泣いていた。
透子がわたしを見ていた。
わたしも透子を見た。透子の目が少し大きくなった。
きっと透子にも、何かが戻っていた。あの公園の記憶が。ブランコに並んで座った記憶が。「また一緒に歌おうね」と言った記憶が。
全部が繋がった。わたしたちは、最初から知っていた。
忘れていただけで、ずっと前から知っていた。
最後のサビを、みんなで歌い切った。
音楽が止まった。体育館が静かになった。
一秒。二秒。それから、拍手が来た。文化祭のときより大きかった。スタンディングオベーションだった。パイプ椅子から立ち上がっている人が、客席のあちこちにいた。
わたしは少し前に出て、マイクを持った。
MCをする予定だった。最後の挨拶を、ちゃんと言おうと思っていた。
でも言葉が出てこなかった。
涙が先に来た。わたしは少し笑いながら、泣きながら、それでもマイクを握った。
「流れ星が落ちる屋上で、わたしたちは出会いました」
声が少し震えた。でも続けた。
「願い事も、夢も、思い出も、たくさんありました」
客席のみんなが静かに聞いていた。
「でも、いちばん大事だったのは」
透子を見た。凛ちゃんを見た。玲奈さんを見た。ましろちゃんを見た。
「ここでみんなと歌っていた時間です」
また拍手が起きそうになった。でもみんな、続きを待っていた。
「流れ星がなくなっても」
「アイドル部が終わっても」
「わたしたちは、きっと大丈夫です」
最後の一言を、はっきりと言った。
「だって私たちは――」
みんなで声を揃えた。
「「「「「一緒に歌ったから」」」」」
拍手が来た。
体育館全体が、音に包まれた。
舞台裏に引っ込んだ。凛ちゃんが泣き笑いの顔でわたしに抱きついてきた。ましろちゃんが凛ちゃんの後ろから重なってきた。玲奈さんが三人の外側からそっと手を添えた。
透子が、少し離れたところに立っていた。
わたしは凛ちゃんとましろちゃんから離れて、透子の前に立った。
「透子」
「……うん」
「思い出した?」
透子は少し間を置いた。
「……公園。ブランコ。あなたが来て、歌が上手いって言ってくれた」
「うん」
「また一緒に歌おうねって、言った」
「覚えてた」
「……やっと」
透子の目が少し潤んでいた。泣いたあとの目だった。
「幼なじみ、透子だった」
「……うん」
「ずっと一緒にいた。忘れてただけで」
「……ずっと一緒にいた」
透子が少し前に出た。わたしの胸に、額を押し当ててきた。
抱きつくというより、ただもたれてきた。でもそれが透子らしかった。
わたしは透子の背中に手を回した。
凛ちゃんが「えっ」と言った。ましろちゃんが「あっ」と言った。玲奈さんが穏やかに微笑んだ。体育館からまだ拍手が聞こえていた。春の光が廊下の窓から差し込んでいた。
星降る屋上アイドル部の、最後のライブが終わった。



