十二月の中旬、屋上の伝説の続きを知ったのは、偶然だった。
岸本先生に呼ばれたのは、放課後の音楽室だった。二曲目の仕上がりを確認したいという話だったから、わたしは一人で向かった。
先生は音楽室の窓際に立っていた。外を見ていて、わたしが入ると振り返った。
「座りなさい」
わたしはパイプ椅子に座った。先生が向かいに座った。
「二曲目、聴かせてもらった。録音のやつ」
「どうでしたか」
「いいわよ。一曲目より重さがある。あなたたちが変わった分、曲も変わってる」
「ありがとうございます」
「ただ」
先生が少し表情を変えた。
「一つ聞きたいことがある」
「何でしょう」
「最近、部員の様子が少し変わったと思う。何かあった?」
わたしは少し考えた。先生には話してもいいかもしれないと思った。顧問だし、ここまで一緒に来てくれた人だし。
「思い出が消えている話、先生は知っていますか?」
先生が少し目を細めた。
「屋上の話ね」
「先生も知ってたんですか?」
「この学校に長くいると、いろいろ聞く」
先生は穏やかな声で言った。
「願いが叶う代わりに、大事な記憶が一つ消える」
「はい」
「あなたたちも、そうなってる?」
「全員、何かが消えています」
先生は少し黙った。
「怖い?」
「怖いけど、続けることにしました。みんなで話し合って」
先生は頷いた。責めるでも、止めるでもなかった。
「先生、屋上の伝説の、続きはありますか?」
先生が少し動いた。
「続き?」
「願いが叶って、思い出が消える。それだけじゃなくて、何か他にも伝わっていることがあれば」
先生はしばらく窓の外を見た。それから言った。
「一つだけ、聞いたことがある」
「何ですか」
「最後のライブで歌うと、消えた思い出が一つだけ戻る」
わたしは息を止めた。
「最後のライブ、というのは」
「アイドル部が終わるとき。部が解散するとき」
先生は穏やかな声で言った。
「最後に全力で歌うと、消えたものが一つだけ戻ってくる。そういう話が、昔からある」
「昔から、って、以前にも同じようなことがあったんですか」
「詳しくは知らない。わたしが聞いたのも、ずっと前に同僚から聞いた話だから」
先生が少し首を傾けた。
「本当かどうかは分からない。でも、あなたたちが本当に流れ星を落とせるなら、あり得ない話でもない」
わたしは少し考えた。
「でも、最後のライブをしたら、アイドル部は終わるんですよね」
「そういうことになる」
「なんで終わるんですか?」
「さあ」
先生は首を振った。
「伝説にそこまでの説明はない。ただ、最後のライブをすると、それが終わりになる。昔から、そう伝わってるらしい」
沈黙が来た。
わたしは手を膝の上に置いて、少し考えた。
最後のライブで歌えば、消えた思い出が一つだけ戻る。でも、アイドル部は終わる。
それは、どちらを選ぶかという話だ。
思い出を取り戻すために終わりを選ぶか、終わりを先延ばしにして続けるか。
「先生は、どう思いますか?」
「わたしの意見は関係ない。あなたたちが決めることよ」
「でも、聞かせてほしいです」
先生は少し間を置いてから言った。
「終わるものは、いつか終わる。終わり方を自分たちで決められるなら、それは悪いことじゃないと思う」
その夜、わたしは一人で考えた。
先生から聞いた話を、どう四人に伝えるか。
最後のライブをすれば思い出が戻る。でも部は終わる。
全員に関わることだから、一人で決められることじゃない。でも、伝え方を間違えると、みんなが傷つくかもしれない。
でも、隠すのは違う。あのとき約束した。消えていく記憶に気づいたとき、一人で抱えないで。これも、一人で抱えてはいけないことだった。
翌日の練習後、わたしは四人を引き止めた。
「みんなに話がある」
四人がわたしを見た。
「昨日、岸本先生から聞いた」
静かな屋上で、わたしは話した。
最後のライブで歌うと、消えた思い出が一つだけ戻ること。
でも、そのライブをしたら、アイドル部は終わること。
話し終えてもしばらく、誰も何も言わなかった。
夕日が低くなっていた。風が吹いて、ましろちゃんの前髪が揺れた。
最初に口を開いたのは、凛ちゃんだった。
「思い出、戻るんだ」
「一つだけ、戻るかもしれない。確かじゃないけど」
「でも可能性はある」
「ある」
凛ちゃんは少し空を見上げた。
「ひかりは、どう思う?」
いきなりそう聞かれて、わたしは少しだけ言葉に詰まった。
「寂しい、とは思う」
「終わるのが?」
「うん。それに、どの思い出が戻るかも分からないし」
言いながら、自分の声が少し硬いことに気づいた。
凛ちゃんはわたしを見たまま、言った。
「あたしは、まだ終わりたくない」
その言葉のあと、誰もすぐには何も言えなかった。怒っているわけじゃない。責められたわけでもない。それなのに空気だけが少し痛かった。ましろちゃんが小さく息を呑む音がして、玲奈さんは視線を落としたまま指先を握っていた。
凛ちゃんは、わたしたちを順番に見た。
「思い出が大事なのは分かるよ。でも、今ここにあるものまで終わらせるって、そんなに簡単に決めていいの?」
透子が、少し遅れて口を開いた。
「……簡単じゃないから、決められないんだよ」
誰も遮らなかった。凛ちゃんはそのまま続けた。
「友達の記憶が消えてるのは本当だし、怖いのも本当。でも、正直に言うと、消えてしまったものより、今ここにあるものの方が、あたしには大事に感じる」
「今ここにあるもの?」
「ほしあま部。みんなと練習して、文化祭でライブして、星が落ちるのを一緒に見て。そういうの全部」
凛ちゃんは腕を組んだまま言った。
「やっとここまで来たのに、ここで終わりって言われても、あたしはまだ無理」
その言い方は明るかった。
でも、明るく言わないと揺れそうなのを隠しているみたいでもあった。
玲奈さんが囁くような声で言った。
「わたくしは、少し違います」
みんなが玲奈さんを見る。
「続けたい気持ちはあります。でも、それと同じくらい、これ以上失うのは怖いです」
風が吹いた。玲奈さんは視線を落としたまま続けた。
「母との思い出が、どこまで抜けているのか、正直もう自分でも分かりません。写真を見て、あとから“ここにいたはず”と辿っている記憶もあります」
凛ちゃんが少しだけ黙った。
「玲奈さん……」
「音楽は続けたいです。でも、そのために何かを削っていく形になるのなら、わたくしは一度立ち止まって考えたい」
穏やかな声だった。でも、その言葉は、凛ちゃんの「まだ終わりたくない」と正面からぶつかる重さを持っていた。
ましろちゃんが胸の前で手を握った。
「ましろは……最後のライブ、やりたいです」
わたしはましろちゃんを見た。
「昔の夢が思い出せないの、ずっと気になってるから。戻るかもしれないなら、やってみたいです」
「今すぐ?」
凛ちゃんが聞いた。
「今すぐじゃなくても……でも、うやむやにはしたくないです」
ましろちゃんは少し震える声で続けた。
「怖いまま続けるのも、何も決めないまま終わるのも、どっちも嫌です。ちゃんと最後を決めて、そのために歌いたいです」
わたしは透子を見た。透子はずっと黙っていた。フェンスの向こうの空を見ていた。
「透子は?」
透子はすぐには答えなかった。しばらくしてから、ゆっくりと言った。
「妹との約束の記憶が戻るなら、それは戻したい」
「うん」
「でも」
透子は言葉を切った。風が吹いて、黒い髪が少し揺れた。
「終わるために歌うのは、まだ嫌」
誰も口を挟まなかった。透子はそこで、初めてわたしを見た。
「最後のライブをしたら終わるんでしょ」
「……うん」
「じゃあ、それまではまだ歌える」
大きな声じゃなかった。
「わたし、まだ歌いたい」
大きな声じゃなかった。
でも、その場の空気をいちばん強く動かしたのは、その短い一言だった。
「思い出は戻したい。けど、今ここで終わるのは嫌だ。でも、このまま続けたら、また何か消えるかもしれない」
気づいたら、わたしはそう言っていた。
四人が一斉にこっちを見た。自分でも少し驚いた。
凛ちゃんでも玲奈さんでもなく、わたしが先にそれを口にしたことに。
「ひかり」
透子がわたしを見た。
「それ、ひかりが言うんだ」
責める声じゃなかった。でも、少しだけ距離のある言い方だった。
「止めたいわけじゃない」
「でも、止まりたいんでしょ」
「そうじゃなくて」
うまく言葉にならなかった。
わたしは何を守りたいんだろう。透子の歌なのか。みんなの記憶なのか。
それとも、失いたくないこの時間そのものなのか。
「わたしは、みんなにこれ以上何か失ってほしくない」
やっとそれだけを言った。
透子は少し黙った。
「……ひかりは、歌いたくなくなったの?」
その一言が、思ったより深く刺さった。
「違う」
「じゃあ、どうしたいの」
「それは……」
言えなかった。続けたい、とも、ここで終わりたい、とも。
凛ちゃんが、珍しくすぐには口を挟まなかった。
玲奈さんも、ましろちゃんも黙っていた。
屋上に風の音だけが残った。
やがて玲奈さんが、穏やかに言った。
「今日は、結論を出さなくてもいいのではないでしょうか」
その声で、ようやくみんなが少しだけ息をついた。
「無理に今決めると、たぶん誰かが置いていかれます」
「……そうだね」
わたしは小さく答えた。
凛ちゃんが腕をほどいた。
「じゃあ今日は保留。続けるか、最後のライブを目指すか、次までにちゃんと考えてくる」
「うん」
「ましろも、考えます」
「わたくしも」
「……わたしも」
透子は最後にそう言って、でもわたしの方は見なかった。
そのまま誰からともなく片づけを始めた。
今日は歌わなかった。
歌えば少しは戻るものがある気がしたのに、誰も「歌おう」とは言わなかった。
夕焼けの屋上は、前より少しだけ広くて、少しだけ遠かった。
☆
次の放課後、わたしたちはいつも通り屋上に集まった。
集まった、というだけで、前みたいに自然に輪になれたわけじゃなかった。
誰も遅刻はしなかったし、誰も欠けなかった。挨拶もした。玲奈さんは譜面を出して、凛ちゃんはスピーカーを置いて、ましろちゃんはペットボトルの入った袋をそっと隅に置いた。透子はフェンスの前に立って、風の向きを見ていた。
それなのに、何かが少しずれていた。
「じゃあ、この曲からやろうか」
わたしが言うと、みんな頷いた。
玲奈さんが音源を流した。前奏が始まる。何度も繰り返してきた曲だった。体が覚えているはずだった。
でも、最初の一歩が少し遅れた。
凛ちゃんが半拍だけ先に出て、わたしが合わせる。ましろちゃんがそれを追いかける。透子の声は正確だったのに、正確すぎて、前みたいに自然に寄りかかれない気がした。
サビまで歌って、止まった。
「……もう一回」
玲奈さんは責める声ではなかった。でも、その穏やかさがかえってつらかった。
「ごめん、ちょっと早かった」
凛ちゃんが言った。
「ううん、わたしも遅れた」
「ましろも、少しずれました」
透子は何も言わなかった。フェンスの向こうを見たまま、短く息を吐いた。
もう一度やった。今度は最初より揃った。けれど、前みたいに歌っているうちにひとつになっていく感じがなかった。声は合っているのに、その奥で少しずつ別のことを考えているのが分かるみたいだった。
サビの終わりで、空に光が走った。
一本。少し遅れて、もう一本。
「……見えた」
ましろちゃんが小さく言った。
でも誰も、前みたいに声を上げなかった。
凛ちゃんだけが、無理に明るくするみたいに言った。
「今日は少なめだね」
わたしは空を見上げたまま、「そうだね」と答えた。
本当は、本数のことじゃなかった。たとえ五本落ちても、六本落ちても、今日は前みたいに喜べなかったと思う。
練習を切り上げたあとも、誰からともなくすぐに帰る雰囲気にはならなかった。
でも、残って話したい空気でもなかった。
ましろちゃんが先に「お先に失礼します」と言い、玲奈さんが「では、また明日」と続いた。凛ちゃんは最後まで少し粘るみたいにその場にいたけれど、「また明日ね」と言って階段の方へ向かった。
残ったのは、わたしと透子だった。
前なら、こういう時間は嫌いじゃなかった。
少し風が強くて、空がきれいで、透子が隣にいるだけで、ちゃんと放課後になっていた。でも今日は、何を言えばいいのか分からなかった。
透子はフェンスの前に立ったまま、夕方の空を見ていた。
追いかけて隣に立てばいいのに、それが前より少し遠かった。
「透子」
呼ぶと、透子は振り向かなかった。
「……なに」
「さっき、ごめん」
何に対しての「ごめん」なのか、自分でもはっきりしなかった。昨日のことか、今日のことか、それとももっと前から少しずつずれていたもの全部か。
透子は少し黙ってから言った。
「ひかりが謝ると、余計に分からなくなる」
やわらかい声だった。でも、そのやわらかさが、前より少しだけ遠かった。
そのあと透子は、わたしを見ないまま続けた。
「今日は、もう少し歌ってから帰る」
「……そっか」
「先に帰っていいよ」
前なら「一緒にいる」と言えたはずなのに、その日は言えなかった。
「じゃあ……お先に」
透子は答えなかった。
ただ、風の中で立ったまま、少しだけ顔を上げた。
階段を下りる前に、一度だけ振り返った。
屋上の真ん中に、透子がひとりで立っていた。
最初に見た日の後ろ姿と、少しだけ重なった。
歌うことが、あの子をひとりに戻してしまうのなら。
でも、歌うことを奪うのも、違う気がした。
答えはまだ出なかった。
次の放課後も、わたしたちはいつも通り屋上に集まった。
いつも通りのはずなのに、空気だけが少し違っていた。誰も明るく振る舞おうとはしなかったし、かといって重たい話を避けることもできなかった。歌えば星が落ちる。歌い続ければ、失くしたものが戻るかもしれない。けれどその先に、終わりが待っているかもしれない。
それを知ってしまった以上、前みたいに何も考えずに歌うことは、もうできなかった。
「……最後のライブのこと、今日もう一回ちゃんと話したい」
わたしがそう言うと、みんながゆっくりと頷いた。
最初に口を開いたのは凛ちゃんだった。
「わたし、やっぱりまだ終わりたくない。記憶のことが大事じゃないわけじゃないよ。でも、今ここにあるものまで急いで終わらせたくない」
言葉はまっすぐだった。
玲奈さんも、小さく息をついて続けた。
「わたくしも、考えは大きくは変わっていません。これ以上失うのは、やはり怖いです」
「ましろも……最後のライブはやりたいです。でも、昨日より少しだけ、急がなくていいのかもって思いました。ちゃんと納得して迎えたいです」
三人の言葉が出そろって、最後に視線が透子へ向いた。
透子はしばらく黙ったまま、フェンスの向こうの空を見ていた。
わたしは待った。急かしたくなかった。
「妹との約束の記憶、戻したい気持ちは変わらない」
透子が、ゆっくりと口を開いた。
「でも」
少しだけ間を置いて、続ける。
「終わらせるための歌には、したくない」
その一言が、胸に落ちた。
やりたい。けれど、終わりのためだけにはしたくない。
たぶんそれが、透子のいちばん正直な気持ちだった。
「……じゃあ、今すぐじゃなくていいんじゃないかな」
わたしはみんなの顔を見ながら言った。
「最後のライブをやるって決めるのは、そのままでいい。でも、それを“今すぐ終わるための話”にしないで、もう少し先に置くの」
凛ちゃんがわたしを見る。
「先って?」
「三学期の終わり。春」
言ってみると、その響きは思ったよりしっくりきた。
冬の終わり。今のままじゃないけれど、全部が終わり切る前の季節。
「春の屋上で最後に歌うの、いいかも」
凛ちゃんがぽつりと言った。
「最後って言い方はまだちょっとやだけど……でも、今決めるよりはずっといい。そこまでなら、ちゃんと続けられる気がする」
「わたくしは、その方がいいと思います」
玲奈さんも頷いた。
「急いで決めるより、納得して迎えられる形の方が」
「ましろも、それがいいです」
ましろちゃんが続ける。
「怖いまま決めるんじゃなくて、ちゃんと歌って、ちゃんと最後にしたいです」
最後に、透子が小さく言った。
「……春がいい」
その声はとても穏やかだったけれど、今まででいちばん、前を向いているように聞こえた。
わたしは四人の顔を見回した。
まだ不安は消えていない。怖さだって残っている。
でも、それでもみんなの気持ちは、少しずつ同じ方を向き始めていた。
「じゃあ、春にやろう。それまでにもう一曲、作れる?」
「作る」
玲奈さんが言って、
「振り付けも考える」
凛ちゃんが続いて、
「歌う」
透子が短く言い、
「ましろも、全力でやりますっ!」
ましろちゃんが少しだけ明るい声を出した。
風が吹いた。冬の夕空に、一本の流れ星が落ちた。
今日は一本だけだった。でもその一本が、今日見た中で一番大きかった。
長い尾を引いて、橙の空をゆっくりと落ちていった。
凛ちゃんが「あれ、なんか違う気がする」と言った。
「何が?」
「なんか、返事みたいだった。星から」
誰も笑わなかった。おかしくなかった。むしろ、そうかもしれないとわたしも思った。
決めたことを、星が聞いていた。最後のライブをやると決めた夜、星が一本落ちた。
それだけのことだった。
帰り道、透子がわたしの隣を歩いた。
「ひかり」
「うん」
「最後のライブが終わったら」
透子が少し間を置いた。
「幼なじみの記憶、戻ると思う?」
わたしは少し考えた。
「分からない。でも戻ってほしいとは思ってる」
「なんで」
「その子のことを、ちゃんと覚えていたいから。大事だった記憶なら、なおさら」
透子は少し黙った。
「……わたしも」
「何が?」
「ちゃんと覚えていたい。大事だったものを」
透子の声は穏やかだった。でもわたしにはその言葉が、幼なじみの話だけじゃない気がした。
確かめなかった。街灯の下を、二人で歩いた。
冬の空気は冷たくて、息が少し白くなった。
岸本先生に呼ばれたのは、放課後の音楽室だった。二曲目の仕上がりを確認したいという話だったから、わたしは一人で向かった。
先生は音楽室の窓際に立っていた。外を見ていて、わたしが入ると振り返った。
「座りなさい」
わたしはパイプ椅子に座った。先生が向かいに座った。
「二曲目、聴かせてもらった。録音のやつ」
「どうでしたか」
「いいわよ。一曲目より重さがある。あなたたちが変わった分、曲も変わってる」
「ありがとうございます」
「ただ」
先生が少し表情を変えた。
「一つ聞きたいことがある」
「何でしょう」
「最近、部員の様子が少し変わったと思う。何かあった?」
わたしは少し考えた。先生には話してもいいかもしれないと思った。顧問だし、ここまで一緒に来てくれた人だし。
「思い出が消えている話、先生は知っていますか?」
先生が少し目を細めた。
「屋上の話ね」
「先生も知ってたんですか?」
「この学校に長くいると、いろいろ聞く」
先生は穏やかな声で言った。
「願いが叶う代わりに、大事な記憶が一つ消える」
「はい」
「あなたたちも、そうなってる?」
「全員、何かが消えています」
先生は少し黙った。
「怖い?」
「怖いけど、続けることにしました。みんなで話し合って」
先生は頷いた。責めるでも、止めるでもなかった。
「先生、屋上の伝説の、続きはありますか?」
先生が少し動いた。
「続き?」
「願いが叶って、思い出が消える。それだけじゃなくて、何か他にも伝わっていることがあれば」
先生はしばらく窓の外を見た。それから言った。
「一つだけ、聞いたことがある」
「何ですか」
「最後のライブで歌うと、消えた思い出が一つだけ戻る」
わたしは息を止めた。
「最後のライブ、というのは」
「アイドル部が終わるとき。部が解散するとき」
先生は穏やかな声で言った。
「最後に全力で歌うと、消えたものが一つだけ戻ってくる。そういう話が、昔からある」
「昔から、って、以前にも同じようなことがあったんですか」
「詳しくは知らない。わたしが聞いたのも、ずっと前に同僚から聞いた話だから」
先生が少し首を傾けた。
「本当かどうかは分からない。でも、あなたたちが本当に流れ星を落とせるなら、あり得ない話でもない」
わたしは少し考えた。
「でも、最後のライブをしたら、アイドル部は終わるんですよね」
「そういうことになる」
「なんで終わるんですか?」
「さあ」
先生は首を振った。
「伝説にそこまでの説明はない。ただ、最後のライブをすると、それが終わりになる。昔から、そう伝わってるらしい」
沈黙が来た。
わたしは手を膝の上に置いて、少し考えた。
最後のライブで歌えば、消えた思い出が一つだけ戻る。でも、アイドル部は終わる。
それは、どちらを選ぶかという話だ。
思い出を取り戻すために終わりを選ぶか、終わりを先延ばしにして続けるか。
「先生は、どう思いますか?」
「わたしの意見は関係ない。あなたたちが決めることよ」
「でも、聞かせてほしいです」
先生は少し間を置いてから言った。
「終わるものは、いつか終わる。終わり方を自分たちで決められるなら、それは悪いことじゃないと思う」
その夜、わたしは一人で考えた。
先生から聞いた話を、どう四人に伝えるか。
最後のライブをすれば思い出が戻る。でも部は終わる。
全員に関わることだから、一人で決められることじゃない。でも、伝え方を間違えると、みんなが傷つくかもしれない。
でも、隠すのは違う。あのとき約束した。消えていく記憶に気づいたとき、一人で抱えないで。これも、一人で抱えてはいけないことだった。
翌日の練習後、わたしは四人を引き止めた。
「みんなに話がある」
四人がわたしを見た。
「昨日、岸本先生から聞いた」
静かな屋上で、わたしは話した。
最後のライブで歌うと、消えた思い出が一つだけ戻ること。
でも、そのライブをしたら、アイドル部は終わること。
話し終えてもしばらく、誰も何も言わなかった。
夕日が低くなっていた。風が吹いて、ましろちゃんの前髪が揺れた。
最初に口を開いたのは、凛ちゃんだった。
「思い出、戻るんだ」
「一つだけ、戻るかもしれない。確かじゃないけど」
「でも可能性はある」
「ある」
凛ちゃんは少し空を見上げた。
「ひかりは、どう思う?」
いきなりそう聞かれて、わたしは少しだけ言葉に詰まった。
「寂しい、とは思う」
「終わるのが?」
「うん。それに、どの思い出が戻るかも分からないし」
言いながら、自分の声が少し硬いことに気づいた。
凛ちゃんはわたしを見たまま、言った。
「あたしは、まだ終わりたくない」
その言葉のあと、誰もすぐには何も言えなかった。怒っているわけじゃない。責められたわけでもない。それなのに空気だけが少し痛かった。ましろちゃんが小さく息を呑む音がして、玲奈さんは視線を落としたまま指先を握っていた。
凛ちゃんは、わたしたちを順番に見た。
「思い出が大事なのは分かるよ。でも、今ここにあるものまで終わらせるって、そんなに簡単に決めていいの?」
透子が、少し遅れて口を開いた。
「……簡単じゃないから、決められないんだよ」
誰も遮らなかった。凛ちゃんはそのまま続けた。
「友達の記憶が消えてるのは本当だし、怖いのも本当。でも、正直に言うと、消えてしまったものより、今ここにあるものの方が、あたしには大事に感じる」
「今ここにあるもの?」
「ほしあま部。みんなと練習して、文化祭でライブして、星が落ちるのを一緒に見て。そういうの全部」
凛ちゃんは腕を組んだまま言った。
「やっとここまで来たのに、ここで終わりって言われても、あたしはまだ無理」
その言い方は明るかった。
でも、明るく言わないと揺れそうなのを隠しているみたいでもあった。
玲奈さんが囁くような声で言った。
「わたくしは、少し違います」
みんなが玲奈さんを見る。
「続けたい気持ちはあります。でも、それと同じくらい、これ以上失うのは怖いです」
風が吹いた。玲奈さんは視線を落としたまま続けた。
「母との思い出が、どこまで抜けているのか、正直もう自分でも分かりません。写真を見て、あとから“ここにいたはず”と辿っている記憶もあります」
凛ちゃんが少しだけ黙った。
「玲奈さん……」
「音楽は続けたいです。でも、そのために何かを削っていく形になるのなら、わたくしは一度立ち止まって考えたい」
穏やかな声だった。でも、その言葉は、凛ちゃんの「まだ終わりたくない」と正面からぶつかる重さを持っていた。
ましろちゃんが胸の前で手を握った。
「ましろは……最後のライブ、やりたいです」
わたしはましろちゃんを見た。
「昔の夢が思い出せないの、ずっと気になってるから。戻るかもしれないなら、やってみたいです」
「今すぐ?」
凛ちゃんが聞いた。
「今すぐじゃなくても……でも、うやむやにはしたくないです」
ましろちゃんは少し震える声で続けた。
「怖いまま続けるのも、何も決めないまま終わるのも、どっちも嫌です。ちゃんと最後を決めて、そのために歌いたいです」
わたしは透子を見た。透子はずっと黙っていた。フェンスの向こうの空を見ていた。
「透子は?」
透子はすぐには答えなかった。しばらくしてから、ゆっくりと言った。
「妹との約束の記憶が戻るなら、それは戻したい」
「うん」
「でも」
透子は言葉を切った。風が吹いて、黒い髪が少し揺れた。
「終わるために歌うのは、まだ嫌」
誰も口を挟まなかった。透子はそこで、初めてわたしを見た。
「最後のライブをしたら終わるんでしょ」
「……うん」
「じゃあ、それまではまだ歌える」
大きな声じゃなかった。
「わたし、まだ歌いたい」
大きな声じゃなかった。
でも、その場の空気をいちばん強く動かしたのは、その短い一言だった。
「思い出は戻したい。けど、今ここで終わるのは嫌だ。でも、このまま続けたら、また何か消えるかもしれない」
気づいたら、わたしはそう言っていた。
四人が一斉にこっちを見た。自分でも少し驚いた。
凛ちゃんでも玲奈さんでもなく、わたしが先にそれを口にしたことに。
「ひかり」
透子がわたしを見た。
「それ、ひかりが言うんだ」
責める声じゃなかった。でも、少しだけ距離のある言い方だった。
「止めたいわけじゃない」
「でも、止まりたいんでしょ」
「そうじゃなくて」
うまく言葉にならなかった。
わたしは何を守りたいんだろう。透子の歌なのか。みんなの記憶なのか。
それとも、失いたくないこの時間そのものなのか。
「わたしは、みんなにこれ以上何か失ってほしくない」
やっとそれだけを言った。
透子は少し黙った。
「……ひかりは、歌いたくなくなったの?」
その一言が、思ったより深く刺さった。
「違う」
「じゃあ、どうしたいの」
「それは……」
言えなかった。続けたい、とも、ここで終わりたい、とも。
凛ちゃんが、珍しくすぐには口を挟まなかった。
玲奈さんも、ましろちゃんも黙っていた。
屋上に風の音だけが残った。
やがて玲奈さんが、穏やかに言った。
「今日は、結論を出さなくてもいいのではないでしょうか」
その声で、ようやくみんなが少しだけ息をついた。
「無理に今決めると、たぶん誰かが置いていかれます」
「……そうだね」
わたしは小さく答えた。
凛ちゃんが腕をほどいた。
「じゃあ今日は保留。続けるか、最後のライブを目指すか、次までにちゃんと考えてくる」
「うん」
「ましろも、考えます」
「わたくしも」
「……わたしも」
透子は最後にそう言って、でもわたしの方は見なかった。
そのまま誰からともなく片づけを始めた。
今日は歌わなかった。
歌えば少しは戻るものがある気がしたのに、誰も「歌おう」とは言わなかった。
夕焼けの屋上は、前より少しだけ広くて、少しだけ遠かった。
☆
次の放課後、わたしたちはいつも通り屋上に集まった。
集まった、というだけで、前みたいに自然に輪になれたわけじゃなかった。
誰も遅刻はしなかったし、誰も欠けなかった。挨拶もした。玲奈さんは譜面を出して、凛ちゃんはスピーカーを置いて、ましろちゃんはペットボトルの入った袋をそっと隅に置いた。透子はフェンスの前に立って、風の向きを見ていた。
それなのに、何かが少しずれていた。
「じゃあ、この曲からやろうか」
わたしが言うと、みんな頷いた。
玲奈さんが音源を流した。前奏が始まる。何度も繰り返してきた曲だった。体が覚えているはずだった。
でも、最初の一歩が少し遅れた。
凛ちゃんが半拍だけ先に出て、わたしが合わせる。ましろちゃんがそれを追いかける。透子の声は正確だったのに、正確すぎて、前みたいに自然に寄りかかれない気がした。
サビまで歌って、止まった。
「……もう一回」
玲奈さんは責める声ではなかった。でも、その穏やかさがかえってつらかった。
「ごめん、ちょっと早かった」
凛ちゃんが言った。
「ううん、わたしも遅れた」
「ましろも、少しずれました」
透子は何も言わなかった。フェンスの向こうを見たまま、短く息を吐いた。
もう一度やった。今度は最初より揃った。けれど、前みたいに歌っているうちにひとつになっていく感じがなかった。声は合っているのに、その奥で少しずつ別のことを考えているのが分かるみたいだった。
サビの終わりで、空に光が走った。
一本。少し遅れて、もう一本。
「……見えた」
ましろちゃんが小さく言った。
でも誰も、前みたいに声を上げなかった。
凛ちゃんだけが、無理に明るくするみたいに言った。
「今日は少なめだね」
わたしは空を見上げたまま、「そうだね」と答えた。
本当は、本数のことじゃなかった。たとえ五本落ちても、六本落ちても、今日は前みたいに喜べなかったと思う。
練習を切り上げたあとも、誰からともなくすぐに帰る雰囲気にはならなかった。
でも、残って話したい空気でもなかった。
ましろちゃんが先に「お先に失礼します」と言い、玲奈さんが「では、また明日」と続いた。凛ちゃんは最後まで少し粘るみたいにその場にいたけれど、「また明日ね」と言って階段の方へ向かった。
残ったのは、わたしと透子だった。
前なら、こういう時間は嫌いじゃなかった。
少し風が強くて、空がきれいで、透子が隣にいるだけで、ちゃんと放課後になっていた。でも今日は、何を言えばいいのか分からなかった。
透子はフェンスの前に立ったまま、夕方の空を見ていた。
追いかけて隣に立てばいいのに、それが前より少し遠かった。
「透子」
呼ぶと、透子は振り向かなかった。
「……なに」
「さっき、ごめん」
何に対しての「ごめん」なのか、自分でもはっきりしなかった。昨日のことか、今日のことか、それとももっと前から少しずつずれていたもの全部か。
透子は少し黙ってから言った。
「ひかりが謝ると、余計に分からなくなる」
やわらかい声だった。でも、そのやわらかさが、前より少しだけ遠かった。
そのあと透子は、わたしを見ないまま続けた。
「今日は、もう少し歌ってから帰る」
「……そっか」
「先に帰っていいよ」
前なら「一緒にいる」と言えたはずなのに、その日は言えなかった。
「じゃあ……お先に」
透子は答えなかった。
ただ、風の中で立ったまま、少しだけ顔を上げた。
階段を下りる前に、一度だけ振り返った。
屋上の真ん中に、透子がひとりで立っていた。
最初に見た日の後ろ姿と、少しだけ重なった。
歌うことが、あの子をひとりに戻してしまうのなら。
でも、歌うことを奪うのも、違う気がした。
答えはまだ出なかった。
次の放課後も、わたしたちはいつも通り屋上に集まった。
いつも通りのはずなのに、空気だけが少し違っていた。誰も明るく振る舞おうとはしなかったし、かといって重たい話を避けることもできなかった。歌えば星が落ちる。歌い続ければ、失くしたものが戻るかもしれない。けれどその先に、終わりが待っているかもしれない。
それを知ってしまった以上、前みたいに何も考えずに歌うことは、もうできなかった。
「……最後のライブのこと、今日もう一回ちゃんと話したい」
わたしがそう言うと、みんながゆっくりと頷いた。
最初に口を開いたのは凛ちゃんだった。
「わたし、やっぱりまだ終わりたくない。記憶のことが大事じゃないわけじゃないよ。でも、今ここにあるものまで急いで終わらせたくない」
言葉はまっすぐだった。
玲奈さんも、小さく息をついて続けた。
「わたくしも、考えは大きくは変わっていません。これ以上失うのは、やはり怖いです」
「ましろも……最後のライブはやりたいです。でも、昨日より少しだけ、急がなくていいのかもって思いました。ちゃんと納得して迎えたいです」
三人の言葉が出そろって、最後に視線が透子へ向いた。
透子はしばらく黙ったまま、フェンスの向こうの空を見ていた。
わたしは待った。急かしたくなかった。
「妹との約束の記憶、戻したい気持ちは変わらない」
透子が、ゆっくりと口を開いた。
「でも」
少しだけ間を置いて、続ける。
「終わらせるための歌には、したくない」
その一言が、胸に落ちた。
やりたい。けれど、終わりのためだけにはしたくない。
たぶんそれが、透子のいちばん正直な気持ちだった。
「……じゃあ、今すぐじゃなくていいんじゃないかな」
わたしはみんなの顔を見ながら言った。
「最後のライブをやるって決めるのは、そのままでいい。でも、それを“今すぐ終わるための話”にしないで、もう少し先に置くの」
凛ちゃんがわたしを見る。
「先って?」
「三学期の終わり。春」
言ってみると、その響きは思ったよりしっくりきた。
冬の終わり。今のままじゃないけれど、全部が終わり切る前の季節。
「春の屋上で最後に歌うの、いいかも」
凛ちゃんがぽつりと言った。
「最後って言い方はまだちょっとやだけど……でも、今決めるよりはずっといい。そこまでなら、ちゃんと続けられる気がする」
「わたくしは、その方がいいと思います」
玲奈さんも頷いた。
「急いで決めるより、納得して迎えられる形の方が」
「ましろも、それがいいです」
ましろちゃんが続ける。
「怖いまま決めるんじゃなくて、ちゃんと歌って、ちゃんと最後にしたいです」
最後に、透子が小さく言った。
「……春がいい」
その声はとても穏やかだったけれど、今まででいちばん、前を向いているように聞こえた。
わたしは四人の顔を見回した。
まだ不安は消えていない。怖さだって残っている。
でも、それでもみんなの気持ちは、少しずつ同じ方を向き始めていた。
「じゃあ、春にやろう。それまでにもう一曲、作れる?」
「作る」
玲奈さんが言って、
「振り付けも考える」
凛ちゃんが続いて、
「歌う」
透子が短く言い、
「ましろも、全力でやりますっ!」
ましろちゃんが少しだけ明るい声を出した。
風が吹いた。冬の夕空に、一本の流れ星が落ちた。
今日は一本だけだった。でもその一本が、今日見た中で一番大きかった。
長い尾を引いて、橙の空をゆっくりと落ちていった。
凛ちゃんが「あれ、なんか違う気がする」と言った。
「何が?」
「なんか、返事みたいだった。星から」
誰も笑わなかった。おかしくなかった。むしろ、そうかもしれないとわたしも思った。
決めたことを、星が聞いていた。最後のライブをやると決めた夜、星が一本落ちた。
それだけのことだった。
帰り道、透子がわたしの隣を歩いた。
「ひかり」
「うん」
「最後のライブが終わったら」
透子が少し間を置いた。
「幼なじみの記憶、戻ると思う?」
わたしは少し考えた。
「分からない。でも戻ってほしいとは思ってる」
「なんで」
「その子のことを、ちゃんと覚えていたいから。大事だった記憶なら、なおさら」
透子は少し黙った。
「……わたしも」
「何が?」
「ちゃんと覚えていたい。大事だったものを」
透子の声は穏やかだった。でもわたしにはその言葉が、幼なじみの話だけじゃない気がした。
確かめなかった。街灯の下を、二人で歩いた。
冬の空気は冷たくて、息が少し白くなった。



