十一月に入って、屋上の風が本格的に冷たくなった。
凛ちゃんが「そろそろ屋上きつくない?」と言い出したけれど、透子が「ここじゃないと落ちない」と言ったので、結局屋上のままになった。全員が厚めの上着を着込んで、マフラーを巻いて練習するようになった。ましろちゃんは相変わらず手袋を忘れた。
その頃から、透子とわたしが二人で話す時間が増えていた。
練習後に残るのはいつものことだったけれど、以前より少し長く残るようになった。理由を言葉にするのは難しかった。透子といると、なんとなく穏やかな気持ちになれた。それだけのことだった。
透子も嫌がらなかった。
ある日の練習後、四人が帰って二人になってから、透子がぽつりと言った。
「妹から、また連絡があった」
「何て?」
「今度の日曜日、会いに来たいって」
「会うの?」
「会う。でも……」
透子は少し間を置いた。
「何を話せばいいか分からない」
わたしは透子の横顔を見た。
「思い出せないから?」
「うん。妹は覚えてることが、わたしには覚えてない。それを隠しながら話すのが、しんどい」
「隠さなくていいんじゃないの?」
「言えない」
「なんで」
透子は少し視線を落とした。
「妹は、わたしのことを信頼してる。お姉ちゃんはなんでも覚えてる、って思ってる。それを壊したくない」
「でも実際には覚えてないんでしょ」
「だから、しんどい」
透子は短く言って、フェンスに寄りかかった。
わたしは少し考えた。透子らしいと思った。弱いところを見せたくない。妹に心配させたくない。でも一人で抱えて、しんどくなっている。
「透子って、昔から妹の前でお姉ちゃんだった?」
「……そういうつもりはなかったけど、気づいたらそうなってた」
「妹さん、何歳?」
「二つ下。中学三年生」
「受験生じゃん」
「うん。だから余計、心配かけたくない」
わたしはフェンスの近くに腰を下ろした。コンクリートが冷たかったけれど、構わなかった。透子も少し考えてから、隣に腰を下ろした。
街の灯りが増え始めていた。
「透子はさ、妹さんに歌を聴かせたいって言ってたよね」
「うん」
「歌が上手くなりたいって願ったのも、それが理由?」
「……たぶん。でも、正確には違うかもしれない」
「どういうこと?」
「歌が上手くなりたいのは、本当のこと。でも、なんでそんなに上手くなりたかったのか。そこが、薄くなってきてる」
わたしは黙った。
「妹に聴かせたかった、というのは覚えてる。でも、なんで妹に聴かせたかったのか。どういう約束をしたのか。もう出てこない」
透子の声は穏やかだった。怒ってもなく、泣いてもなく、ただ淡々としていた。でもその淡々とした声が、かえってわたしには重く聞こえた。
「透子は、それが怖い?」
「怖い、とは少し違う。悲しい、とも違う。ただ、何かが抜けたみたいな感じがする。歯が抜けた穴みたいに、そこに何かがあったことは分かるけど、何があったかは分からない」
的確な表現だとわたしは思った。透子はいつも、言葉が少ないけれど、言葉を選ぶのが上手い。
日曜日が来た。練習はない日だったけれど、夕方に透子からメッセージが来た。
『妹に会ってきた』
わたしはすぐに返した。
『どうだった?』
しばらく間があって、返事が来た。
『歌を聴かせた』
『喜んでくれた?』
『泣いてた』
わたしは少し胸が詰まった。
『透子は?』
『泣かなかった』
また間があった。
『でも、歌いながら、少しだけ思い出した』
『何を?』
『妹が小さいとき、熱を出して寝込んでいたことがあった。そのとき、枕元で歌ったことがある。それを思い出した』
わたしは返事を考えた。でも何を書けばいいか分からなくて、少し待った。
『妹、その話した?』
『した。覚えてた。お姉ちゃんが歌ってくれたから、早く元気になれたって』
また間があった。
『それは覚えてた』
最後の一文が、なんとも言えなかった。全部は覚えていない。でもそれだけは覚えていた。透子にとって、それがどれだけ大事だったか。
『よかった』とわたしは返した。
『うん』と透子は返してきた。
翌週の練習で、透子の歌がまた変わっていた。技術的にどう変わったかは、わたしには説明できなかった。でも以前より、何かが乗っている感じがした。凛ちゃんが「透子、すごくない? 今日」と言って、透子が「そう?」と言った。
玲奈さんが練習後にわたしに言った。
「透子さんの声に、感情が増えました」
「分かる?」
「音楽をやっていると、声の質より感情の有無の方が、聴き手に届くことがあります。透子さんの声は元から質がいい。でも最近、そこに何かが加わっている」
「何だと思う?」
「誰かに届けたい、という気持ちだと思います」
わたしは透子を見た。今日も淡々と練習している。表情は変わらない。でも玲奈さんの言う通り、何かが違う。
その日の練習後、二人で残った。
「妹さんに会ってきた話、教えてくれてありがとう」
「メッセージだったけど」
「それでも」
透子は少し下を向いた。
「ひかりに言いたかった」
「なんで?」
「……なんでかは分からない。でも、言いたかった」
わたしはそれを聞いて、少し不思議な気持ちになった。透子が誰かに話したくなる、ということ自体が、たぶん珍しい。透子は自分の中に溜めておくタイプだから。
「透子って、友達多い?」
透子が少し考えた。
「少ない」
「ほしあま部より前は?」
「……ほとんどいなかった」
「なんで?」
「一人でいる方が楽だった。誰かといると、合わせないといけない。それが疲れる」
「わたしといるときも疲れる?」
透子は少し間を置いた。
「……疲れない」
「なんで?」
「ひかりは、合わせろと言わないから」
わたしは少し笑った。
「そんなこと意識したことなかったけど」
「だからいい」
透子は真顔で言った。わたしは夕空を見た。もう星が落ちない時間になっていた。でも橙の空は綺麗だった。
「透子って、ずっと一人で屋上で歌ってたんだよね」
「うん」
「寂しくなかった?」
透子は少し時間をかけて答えた。
「寂しいかどうか、分からなかった。一人が当たり前だったから」
「今は?」
「今は……」
透子が少し止まった。
「分かる」
「何が分かるの?」
「寂しかったんだと。一人で歌ってた頃が」
わたしは何も言わなかった。
透子が続けた。
「ひかりが来てから、分かった。一人のときとみんなといるときが、こんなに違うって」
「それって、よかった?」
「……よかったと思う」
透子がわたしを見た。
「でも、困ることもある」
「困ること?」
「一人でいられなくなってきてる」
透子は少し困った顔で言った。困った顔を透子がするのは珍しかった。
「それのどこが困るの?」
「慣れてないから」
「慣れればいい」
「そう簡単に言う」
「簡単だよ。毎日ここに来て、みんなといればいい」
透子はわたしを見た。少し、何かを言いかけた。でも言わなかった。
代わりに、正面を向いた。夕風が吹いた。透子の黒い髪が揺れた。
「……ひかり」
「うん?」
「屋上で最初に見たとき、怖くなかった?」
「何が?」
「見知らぬ人が、ひとりで歌を歌ってた。普通は怖い」
「怖くなかったよ。透子の歌を聴いてたから」
「それだけで?」
「それだけで。いい歌を歌ってる人は、怖くない」
透子はまた黙った。それからぽつりと言った。
「……あのとき、もし怖い顔されてたら、もう一回来なかったと思う?」
「怖い顔、しなくてよかった」
「……うん」
透子の声が、少しだけ柔らかかった。
街の灯りが増えていた。空が暗くなっていた。そろそろ帰らないといけない時間だった。
でも、もう少しここにいたかった。透子の隣で、冷たい空気の中で、街を見ていたかった。
それがなぜなのか、わたしにはまだうまく説明できなかった。
ただ、透子の隣が、なんとなく、居心地よかった。
凛ちゃんが「そろそろ屋上きつくない?」と言い出したけれど、透子が「ここじゃないと落ちない」と言ったので、結局屋上のままになった。全員が厚めの上着を着込んで、マフラーを巻いて練習するようになった。ましろちゃんは相変わらず手袋を忘れた。
その頃から、透子とわたしが二人で話す時間が増えていた。
練習後に残るのはいつものことだったけれど、以前より少し長く残るようになった。理由を言葉にするのは難しかった。透子といると、なんとなく穏やかな気持ちになれた。それだけのことだった。
透子も嫌がらなかった。
ある日の練習後、四人が帰って二人になってから、透子がぽつりと言った。
「妹から、また連絡があった」
「何て?」
「今度の日曜日、会いに来たいって」
「会うの?」
「会う。でも……」
透子は少し間を置いた。
「何を話せばいいか分からない」
わたしは透子の横顔を見た。
「思い出せないから?」
「うん。妹は覚えてることが、わたしには覚えてない。それを隠しながら話すのが、しんどい」
「隠さなくていいんじゃないの?」
「言えない」
「なんで」
透子は少し視線を落とした。
「妹は、わたしのことを信頼してる。お姉ちゃんはなんでも覚えてる、って思ってる。それを壊したくない」
「でも実際には覚えてないんでしょ」
「だから、しんどい」
透子は短く言って、フェンスに寄りかかった。
わたしは少し考えた。透子らしいと思った。弱いところを見せたくない。妹に心配させたくない。でも一人で抱えて、しんどくなっている。
「透子って、昔から妹の前でお姉ちゃんだった?」
「……そういうつもりはなかったけど、気づいたらそうなってた」
「妹さん、何歳?」
「二つ下。中学三年生」
「受験生じゃん」
「うん。だから余計、心配かけたくない」
わたしはフェンスの近くに腰を下ろした。コンクリートが冷たかったけれど、構わなかった。透子も少し考えてから、隣に腰を下ろした。
街の灯りが増え始めていた。
「透子はさ、妹さんに歌を聴かせたいって言ってたよね」
「うん」
「歌が上手くなりたいって願ったのも、それが理由?」
「……たぶん。でも、正確には違うかもしれない」
「どういうこと?」
「歌が上手くなりたいのは、本当のこと。でも、なんでそんなに上手くなりたかったのか。そこが、薄くなってきてる」
わたしは黙った。
「妹に聴かせたかった、というのは覚えてる。でも、なんで妹に聴かせたかったのか。どういう約束をしたのか。もう出てこない」
透子の声は穏やかだった。怒ってもなく、泣いてもなく、ただ淡々としていた。でもその淡々とした声が、かえってわたしには重く聞こえた。
「透子は、それが怖い?」
「怖い、とは少し違う。悲しい、とも違う。ただ、何かが抜けたみたいな感じがする。歯が抜けた穴みたいに、そこに何かがあったことは分かるけど、何があったかは分からない」
的確な表現だとわたしは思った。透子はいつも、言葉が少ないけれど、言葉を選ぶのが上手い。
日曜日が来た。練習はない日だったけれど、夕方に透子からメッセージが来た。
『妹に会ってきた』
わたしはすぐに返した。
『どうだった?』
しばらく間があって、返事が来た。
『歌を聴かせた』
『喜んでくれた?』
『泣いてた』
わたしは少し胸が詰まった。
『透子は?』
『泣かなかった』
また間があった。
『でも、歌いながら、少しだけ思い出した』
『何を?』
『妹が小さいとき、熱を出して寝込んでいたことがあった。そのとき、枕元で歌ったことがある。それを思い出した』
わたしは返事を考えた。でも何を書けばいいか分からなくて、少し待った。
『妹、その話した?』
『した。覚えてた。お姉ちゃんが歌ってくれたから、早く元気になれたって』
また間があった。
『それは覚えてた』
最後の一文が、なんとも言えなかった。全部は覚えていない。でもそれだけは覚えていた。透子にとって、それがどれだけ大事だったか。
『よかった』とわたしは返した。
『うん』と透子は返してきた。
翌週の練習で、透子の歌がまた変わっていた。技術的にどう変わったかは、わたしには説明できなかった。でも以前より、何かが乗っている感じがした。凛ちゃんが「透子、すごくない? 今日」と言って、透子が「そう?」と言った。
玲奈さんが練習後にわたしに言った。
「透子さんの声に、感情が増えました」
「分かる?」
「音楽をやっていると、声の質より感情の有無の方が、聴き手に届くことがあります。透子さんの声は元から質がいい。でも最近、そこに何かが加わっている」
「何だと思う?」
「誰かに届けたい、という気持ちだと思います」
わたしは透子を見た。今日も淡々と練習している。表情は変わらない。でも玲奈さんの言う通り、何かが違う。
その日の練習後、二人で残った。
「妹さんに会ってきた話、教えてくれてありがとう」
「メッセージだったけど」
「それでも」
透子は少し下を向いた。
「ひかりに言いたかった」
「なんで?」
「……なんでかは分からない。でも、言いたかった」
わたしはそれを聞いて、少し不思議な気持ちになった。透子が誰かに話したくなる、ということ自体が、たぶん珍しい。透子は自分の中に溜めておくタイプだから。
「透子って、友達多い?」
透子が少し考えた。
「少ない」
「ほしあま部より前は?」
「……ほとんどいなかった」
「なんで?」
「一人でいる方が楽だった。誰かといると、合わせないといけない。それが疲れる」
「わたしといるときも疲れる?」
透子は少し間を置いた。
「……疲れない」
「なんで?」
「ひかりは、合わせろと言わないから」
わたしは少し笑った。
「そんなこと意識したことなかったけど」
「だからいい」
透子は真顔で言った。わたしは夕空を見た。もう星が落ちない時間になっていた。でも橙の空は綺麗だった。
「透子って、ずっと一人で屋上で歌ってたんだよね」
「うん」
「寂しくなかった?」
透子は少し時間をかけて答えた。
「寂しいかどうか、分からなかった。一人が当たり前だったから」
「今は?」
「今は……」
透子が少し止まった。
「分かる」
「何が分かるの?」
「寂しかったんだと。一人で歌ってた頃が」
わたしは何も言わなかった。
透子が続けた。
「ひかりが来てから、分かった。一人のときとみんなといるときが、こんなに違うって」
「それって、よかった?」
「……よかったと思う」
透子がわたしを見た。
「でも、困ることもある」
「困ること?」
「一人でいられなくなってきてる」
透子は少し困った顔で言った。困った顔を透子がするのは珍しかった。
「それのどこが困るの?」
「慣れてないから」
「慣れればいい」
「そう簡単に言う」
「簡単だよ。毎日ここに来て、みんなといればいい」
透子はわたしを見た。少し、何かを言いかけた。でも言わなかった。
代わりに、正面を向いた。夕風が吹いた。透子の黒い髪が揺れた。
「……ひかり」
「うん?」
「屋上で最初に見たとき、怖くなかった?」
「何が?」
「見知らぬ人が、ひとりで歌を歌ってた。普通は怖い」
「怖くなかったよ。透子の歌を聴いてたから」
「それだけで?」
「それだけで。いい歌を歌ってる人は、怖くない」
透子はまた黙った。それからぽつりと言った。
「……あのとき、もし怖い顔されてたら、もう一回来なかったと思う?」
「怖い顔、しなくてよかった」
「……うん」
透子の声が、少しだけ柔らかかった。
街の灯りが増えていた。空が暗くなっていた。そろそろ帰らないといけない時間だった。
でも、もう少しここにいたかった。透子の隣で、冷たい空気の中で、街を見ていたかった。
それがなぜなのか、わたしにはまだうまく説明できなかった。
ただ、透子の隣が、なんとなく、居心地よかった。



