もう最低限の義務は果たしたはずだわ……。
慣れない熱気にすっかり気圧されてしまった私は、会場の隅へ逃れようと試みた。けれど、その退路を断つように一人の男が立ちはだかる。
この国の第二王子、ジスラン殿下。
我が家へ、しつこいほどに手紙を寄越してきていた張本人だ。
ジスラン殿下は、姉君である王女同様に夜を溶かしたような黒髪をもち、魔力はほとんどないのだろう。その瞳はどこか虚無を孕んだ薄灰色をしている。
「ソフィー・ウォルジー嬢。一曲、願えるかな?」
目の前に差し出されたのは、汚れ一つない、苦労を知らぬ者の長く細い指先。
その手はひどく冷たく、彼の内面を映し出しているかのように、どこか底知れぬ冷酷さを感じさせた。
拒絶を許さぬ王族の誘いに、私は精一杯の勇気を振り絞って頭を垂れた。
「恐れ入ります、殿下。……ですが、本日は私にとって初めての夜会。不慣れゆえ、とても殿下のお相手を務められるような余裕がございませんの」
不敬を承知で辞退すると、彼は気を悪くするどころか、楽しげに目を細めた。
「そうか……なら、次は逃がさないよ」
ジスランは私の耳元を掠めるように顔を寄せ、甘い不穏な余韻を残して微笑む。
「また会おうね、ソフィー」
頬を撫でる熱い吐息に顔が引きつりそうになるのを、私は必死の思いで耐え、どうにか淑女の微笑みを返した。
――そして。
このときの私は初めての社交場に必死で、露ほども気づいていなかった。
遠くからその光景を、憎悪に燃える瞳で自分を見つめる公爵令嬢の存在に。
案外あっさりと身を引いたジスラン殿下の背を、継母が鋭い視線で追う。
彼女は無言で父の袖を引っ張り、私に目配せを送った。
私は頷き、彼女の耳元に極小の風魔法を展開する。
それはイヤリングの宝石に絡みつきながら銀色の渦を巻く。
――今日ために新たに開発した魔法。遠方の音を拡張して拾い上げる、私自慢の「盗聴の旋風」だ。
夜会のバルコニーは、格好の密談場所。通常、話し声は夜風に消えてホールまでは届かない。
……だが、私の魔法からは逃げられない。
バルコニーを仕切る厚いカーテンの影、私たちは壁に背を預け、息を潜めて「獲物」の声を待った。
「――ずっと引きこもっていたから、よほど醜い姿かと思っていたが。案外、普通じゃないか」
側近の令息を従えたジスランの、冷ややかな声が鼓膜に届く。
「ウォルジー家の令嬢、ソフィー様のことですか?」
「ああ。家格こそ公爵家に劣るが、あの器量なら『嫁ぎ先候補』に入れてやってもいい。……何より、あの家の財力が魅力だ」
「ジスラン様。よほどアリアーヌ様がお嫌いなのですね……」
「公爵家で甘やかされた傲慢な女の元に婿入りして、誰が苦労などするものか。俺は第二王子だぞ? 至れり尽くせりの財力で俺を迎え入れ、俺を何もさせずに笑わせておいてくれる家。それが俺の理想だ」
側近が「そんなに上手くいきますかねぇ」と苦笑する。
私は背筋を駆け上がるおぞましい悪寒を止めることができなかった。集中力を欠いたせいで、そこでパチンと風魔法が消える。
ふと隣を見ると、継母が手にしていた高価な扇子をバキッと、およそ淑女らしからぬ音を立てて握りつぶしていた。
「ひぇっ……!」
その鬼気迫る迫力に、隣で父が情けない声をあげ震えていた。
「ふふふ……この耳で、確かに聞きましたわよ」
継母は、無残に折れた扇子を握りしめたまま、本日一番の、そして最も恐ろしい「実業家」の笑みを浮かべた。

