横浜港の朝は、白く沈黙していた。
汽笛の余韻だけが耳の奥に残り、
海と空の境はゆるやかに溶け合っている。
桟橋も倉庫も、人影も。
すべてが霧に滲み、
輪郭を失っていた。
私は朝霧すみれ。
大正横浜で、
洋裁師見習いとして働いている。
今朝は結婚式当日。
花嫁衣装の最終確認のため、
山手の洋館へ向かっていた。
屋敷の門前には、
朝から馬車が何台も止まっている。
祝賀の花が次々と運び込まれ、
甘い香りが庭いっぱいに漂っていた。
誰もが笑顔。
誰もが祝福ムード。
……なのに。
なぜか胸がざわつく。
違和感。
うまく言えない。
でも、
洋裁師の勘が何かを告げていた。
「……朝霧さん」
低い声。
振り返ると――。
そこには、
今日も整いすぎた顔の男。
新聞記者の小田切さんが立っていた。
黒い外套。
少し癖のある髪。
長い指先には革手袋。
そして今日も、
腹が立つほど格好いい。
「小田切さん?」
「こんな華やかな場所に記者?」
私は首をかしげた。
すると、
彼が肩をすくめる。
「財界の大物の結婚式だからね」
軽く笑う。
「受付で荷物検査までされたよ」
「記者は嫌われ者なんです」
……自分で言うのね。
でも。
なぜだろう。
この人がいると、
少しだけ安心する。
「式の準備、ずいぶん慌ただしいですね」
「ええ」
私は花束へ視線を向ける。
「でも――少し違和感がございます」
「違和感?」
小田切さんが覗き込む。
近い。
顔が近い。
……本当に近い。
私は慌てて花束を指差した。
「こちらです」
中央の大きなブーケ。
華やかな白薔薇。
真珠飾り。
でも――。
「包装紙の端」
「結び目の位置」
「ほんの少しずれています」
小田切さんが目を細める。
「ボクには全然わからない」
「洋裁師ですもの」
私は言った。
「結び目を見る癖があるんです」
「リボン、縫い目、ゆがみ」
一呼吸。
「美しいものほど、少しの乱れが目立ちます」
彼が、
感心したように笑った。
「君って、面白いな」
……また。
そういうことをさらっと言う。
ずるい。
そして式が始まった。
荘厳なオルガン。
聖歌隊の歌声。
白い衣装を着た子どもたち。
私が仕立てた服が、
光の中で揺れている。
胸が熱くなった。
……よかった。
この日のために、
頑張ってきた。
花嫁は、
まるで祝福そのものだった。
誰もが目を奪われる。
誰もが願う。
この幸せが、
永遠でありますように――と。
だからこそ。
その後の出来事は、
誰も予想していなかった。
ブーケトス。
花嫁が笑顔で振り返る。
「いきますわよ」
女性たちが歓声を上げた。
「こちらですわ!」
「受け取った方が次の花嫁ですのよ!」
「どうか私に……!」
「せーの、それ!」
ふわり。
花束が弧を描く。
そして――。
桃色の振袖の女性が受け取った。
「やった……きゃっ!」
悲鳴。
同時に。
「熱い……!」
花嫁の頬に、
赤い斑点が浮かぶ。
女性も襟元を押さえて苦しみ始めた。
ざわっ――。
空気が変わった。
「呪いでは?」
「誰かの恨みよ」
「だって花嫁、親友の婚約者を……」
嫌な噂が広がる。
その時。
「皆さま、ご安心ください」
すっと。
小田切さんが前へ出た。
え。
何する気?
「新聞記者ですが、少々頼れる男です」
にこっと笑う。
「こういう時は、任せてください」
……いや。
無責任。
ものすごく無責任。
でも。
なぜか説得力がある。
若い女中たちが、
思わず見とれている。
「まずは落ち着きましょう」
すると。
ひとりの女中が不安そうに言う。
「でも……呪いだったら……」
次の瞬間。
小田切さんが、
壁際のステッキを取った。
くるり。
空を切る。
目にも止まらない速さ。
ぴたり。
花瓶の横で止まる。
「悪霊がいるなら」
低い声。
「ボクが追い払います」
――え。
格好いい。
なに今。
女中たちが、
きゃっと小さく声を上げる。
「すごい……!」
「素敵……」
……ずるい。
小田切さん、
絶対慣れてる。
そして。
ひとりの若い女中へ近づき、
少しかがむ。
「怖いだろう?」
優しい声。
「でも、君が教えてくれたら――」
一瞬笑う。
「横浜一おいしい焼き菓子を奢る」
「馬車道の店です」
女中の目が、
ぱっと輝いた。
「えっ……!」
「ほ、本当ですか?」
「もちろん」
さらりと言う。
「可愛い女性に協力してもらうには、
こちらも誠意を見せないと」
…………。
うわ。
うまい。
この人、
絶対モテる。
私は思わず言った。
「口がうますぎます」
すると、
小田切さんが笑う。
「仕事です」
そして。
女中が小声で言った。
「……洋子さん、かもしれません」
空気が止まる。
「洋子さん?」
「問屋の娘です」
震える声。
「昔……花嫁さまのお友達でした」
汽笛の余韻だけが耳の奥に残り、
海と空の境はゆるやかに溶け合っている。
桟橋も倉庫も、人影も。
すべてが霧に滲み、
輪郭を失っていた。
私は朝霧すみれ。
大正横浜で、
洋裁師見習いとして働いている。
今朝は結婚式当日。
花嫁衣装の最終確認のため、
山手の洋館へ向かっていた。
屋敷の門前には、
朝から馬車が何台も止まっている。
祝賀の花が次々と運び込まれ、
甘い香りが庭いっぱいに漂っていた。
誰もが笑顔。
誰もが祝福ムード。
……なのに。
なぜか胸がざわつく。
違和感。
うまく言えない。
でも、
洋裁師の勘が何かを告げていた。
「……朝霧さん」
低い声。
振り返ると――。
そこには、
今日も整いすぎた顔の男。
新聞記者の小田切さんが立っていた。
黒い外套。
少し癖のある髪。
長い指先には革手袋。
そして今日も、
腹が立つほど格好いい。
「小田切さん?」
「こんな華やかな場所に記者?」
私は首をかしげた。
すると、
彼が肩をすくめる。
「財界の大物の結婚式だからね」
軽く笑う。
「受付で荷物検査までされたよ」
「記者は嫌われ者なんです」
……自分で言うのね。
でも。
なぜだろう。
この人がいると、
少しだけ安心する。
「式の準備、ずいぶん慌ただしいですね」
「ええ」
私は花束へ視線を向ける。
「でも――少し違和感がございます」
「違和感?」
小田切さんが覗き込む。
近い。
顔が近い。
……本当に近い。
私は慌てて花束を指差した。
「こちらです」
中央の大きなブーケ。
華やかな白薔薇。
真珠飾り。
でも――。
「包装紙の端」
「結び目の位置」
「ほんの少しずれています」
小田切さんが目を細める。
「ボクには全然わからない」
「洋裁師ですもの」
私は言った。
「結び目を見る癖があるんです」
「リボン、縫い目、ゆがみ」
一呼吸。
「美しいものほど、少しの乱れが目立ちます」
彼が、
感心したように笑った。
「君って、面白いな」
……また。
そういうことをさらっと言う。
ずるい。
そして式が始まった。
荘厳なオルガン。
聖歌隊の歌声。
白い衣装を着た子どもたち。
私が仕立てた服が、
光の中で揺れている。
胸が熱くなった。
……よかった。
この日のために、
頑張ってきた。
花嫁は、
まるで祝福そのものだった。
誰もが目を奪われる。
誰もが願う。
この幸せが、
永遠でありますように――と。
だからこそ。
その後の出来事は、
誰も予想していなかった。
ブーケトス。
花嫁が笑顔で振り返る。
「いきますわよ」
女性たちが歓声を上げた。
「こちらですわ!」
「受け取った方が次の花嫁ですのよ!」
「どうか私に……!」
「せーの、それ!」
ふわり。
花束が弧を描く。
そして――。
桃色の振袖の女性が受け取った。
「やった……きゃっ!」
悲鳴。
同時に。
「熱い……!」
花嫁の頬に、
赤い斑点が浮かぶ。
女性も襟元を押さえて苦しみ始めた。
ざわっ――。
空気が変わった。
「呪いでは?」
「誰かの恨みよ」
「だって花嫁、親友の婚約者を……」
嫌な噂が広がる。
その時。
「皆さま、ご安心ください」
すっと。
小田切さんが前へ出た。
え。
何する気?
「新聞記者ですが、少々頼れる男です」
にこっと笑う。
「こういう時は、任せてください」
……いや。
無責任。
ものすごく無責任。
でも。
なぜか説得力がある。
若い女中たちが、
思わず見とれている。
「まずは落ち着きましょう」
すると。
ひとりの女中が不安そうに言う。
「でも……呪いだったら……」
次の瞬間。
小田切さんが、
壁際のステッキを取った。
くるり。
空を切る。
目にも止まらない速さ。
ぴたり。
花瓶の横で止まる。
「悪霊がいるなら」
低い声。
「ボクが追い払います」
――え。
格好いい。
なに今。
女中たちが、
きゃっと小さく声を上げる。
「すごい……!」
「素敵……」
……ずるい。
小田切さん、
絶対慣れてる。
そして。
ひとりの若い女中へ近づき、
少しかがむ。
「怖いだろう?」
優しい声。
「でも、君が教えてくれたら――」
一瞬笑う。
「横浜一おいしい焼き菓子を奢る」
「馬車道の店です」
女中の目が、
ぱっと輝いた。
「えっ……!」
「ほ、本当ですか?」
「もちろん」
さらりと言う。
「可愛い女性に協力してもらうには、
こちらも誠意を見せないと」
…………。
うわ。
うまい。
この人、
絶対モテる。
私は思わず言った。
「口がうますぎます」
すると、
小田切さんが笑う。
「仕事です」
そして。
女中が小声で言った。
「……洋子さん、かもしれません」
空気が止まる。
「洋子さん?」
「問屋の娘です」
震える声。
「昔……花嫁さまのお友達でした」



