『美人も三日で飽きる』という言葉があるが、それは性別関係なく当てはまると思う。
ここで言う”美”とは世間一般論のことで、それが美しいとされる漠然としたマジョリティーの概念だ。
反して性癖は三日で飽きることはない。
むしろ一生ものとも言えるだろう。
だから困るのだ。
直球でぶち抜いてくる暴力的な上腕三頭筋。
筋肉の筋が張った太腿。
元々の高身長に小さな頭、長い手足を活かし、例えるならまるで海外アクション映画に出てくる軍人さながらだ。
華奢だった薄い肩はどこへ行ったのか。
今や筋肉という鎧を纏って骨の厚みすら感じさせる。
今にして思えば彼は良質な素材だったのだ。
――――多くの俳優やタレントも御用達のパーソナルトレーニングジム『アッパー・ブラッシュ』
鏑木南は今年で二十九歳になる中堅のトレーナーだ。
先輩の伝手で転職し、奇跡的に所属することが出来た憧れのジムでの勤務も三年目になる。
今後の目標は二年後に独立して女性専用のジムを経営をすること。
その夢のために今は多くの経験を積み、実績を残し、起業に向けて準備を進めている。
恋愛する暇もなく忙しい毎日だが人生は充実していた。
まさに黄金期。
なぜなら毎日、大好きな筋肉に囲まれているからだ。
このトレーニングジムに勤める人間は、男女問わずとにかくメリハリのある身体をしている。
そして筋肉の維持にかける想いに余念がない。
プロテインのメーカーに対する議論を交わし、チートデイの賛否について語り合う。
筋肉に必要不可欠なたんぱく質を、より美味しく効率的に摂取するにはどうすればいいか頭を悩ませ、食事が与える心と健康への影響を自らの身体を以て研究する熱い仲間たち。
彼らに囲まれ、よりよい指導をするためのアプローチを模索し実践する日々。
これを黄金期と呼ばずなんと呼べばいいのだろう。
昔から少年アイドルに多い、胸板の薄いスレンダーな体型よりも、重厚感のある身体が好きだった。
ゲームで例えるなら勇者よりも重騎士。
主人公に据えられやすい爽やかな程よい筋肉、などでなく、とにかくパンパンに鍛え上げた筋肉を見せつけるような体格のパワーで押してくるような男。
南はとにかく、そういう男の雄っぽさに対して憧れが強かった。
例に漏れず、隣人で小中高を共にし、大手プロダクションからアイドルデビューした、”国宝級”と称される顔面偏差値を持つ幼馴染ーー北王寺真琴に対しても、南は今まで一度も”いい”とは思わなかった。
北王寺真琴はその名の通り、まるで王子様のような爽やかで清廉とした顔立ちをしている。体格もアイドルにはうってつけのスレンダーなモデルのような体型だった。
外見は完全無欠の王子様。
とはいえ南の知っている真琴は、我が強く、はっきりものを言う性格だったが。
そう、見た目に反して真琴の中身は王子様然とはしていない。そのギャップに落胆する人間もいれば、更に盛り上がる人間もいて、そんな彼らを南はいつも外野から見ている感覚だったが、真琴本人とは気心知れた関係だった。
なまじ顔が良いため彼氏になって欲しいと恋い慕う相手が後を絶たない幼馴染。
真琴がデビューした後は顔を合わせることがなかったが、しかしその男が十年越しに突然現れた。
それも今まさに『肉体改造』で話題沸騰中の南好みの身体になって。
「――南、結婚しよう」
トレーナーと依頼人という立場で再会し、二週間。
何故か顔を合わせるたび、他人がいないのを見計らっては真琴に求婚してくる。
「またその話?集中してよ。役作りしにきてるんでしょう」
ワークアウトの真っ只中でも、真琴はバーベルを持ち上げながら爽やかに告げるので、眉を顰め指摘するが薄い唇から歯列覗かせ軽くあしらわれてしまう。
「別にこの一瞬で水の泡になるなんてことないし、大丈夫だろ。継続力がものをいうし」
確かにその通りではあるのだが、得意げに言われると妙に腹が立つ。
しかし問題の求婚発言に対して適切な言葉が思い浮かばず言い淀んでは唇を引き結んだ。
それから諦めて持っていたタッチパネルに最後の記録を入力した。
言い返すのも疲れるのだから仕事に徹していよう。
そう考えカウンターに移動しパネルを元の位置に戻していると、不意に影が落ちる。
後ろを振り返るように顔を上げれば、真琴の甘い瞳が南に注がれていた。
「自分の言葉に責任もてよ。お前が言ったんだろ、理想の身体に出会えたら結婚するって」
真琴の言い分曰く、南は『俺の一世一代の告白を台無しにした』らしい。
確かに『好きなやついるの?』ぐらいは聞かれたことがあった気がするが、あの時のことは正直うろ覚えなのだ。
そもそも真琴の事は、こざっぱりしていて好きな部類の人間ではあるものの、前提として異性として意識したことがない。
向こうだってきっと近所に住む女友達ぐらいにしか考えていないだろう。そう思い込んでいた。
しかし大人になって色気を帯びた真琴は、最強の武器ともいえる装備を纏って迫ってくる。
「俺の事、もう眼中にないなんてことないだろ」
「それは……」
徐に手首を掴まれて、驚く間もなく真琴の胸板に触れさせられる。
強引な行為から伝わる質感のよい肉厚の大胸筋。
知らしめられる雄の象徴に指先が震え、口内が潤として、漏れた声は上擦った。
「好きなんだろ、こういう身体が。お前のために頑張ったんだけどな」
学生の頃よりも落ち着いた声音が低く囁いて、よく見れば甘い顔立ちすらも以前より引き締まってさらに洗練されていた。
筋肉は一日で作られるものではない。
相当努力したのだ。
真琴の言葉を身体が証明しているようで、そんな姿をまじまじと見れば、心臓の奥の方がきゅうっと締め付けらたような錯覚が起きる。
「ほら、顔赤くなってる」
「気のせいだって……」
「違うね。絶対、緊張してる。俺相手なのにって動揺してるよな」
言われて更に身体の熱が上がっていくような気がして息が震えた。
「告白も有耶無耶にされて悔しくて、見返してやるつもりで芸能界入ったけど……やっぱお前がいいんだよ」
まさかそんな理由でオーディションに応募していたというのか。いや、悔しいと告げた真琴本人にとっては傷だったのかもしれないが。
知らないうちに幼馴染を傷つけていたのだと思うと罪悪感すら湧き立たせる。
もともと嫌いじゃないのだ。
守備範囲外であっただけで。
それが今、理想を体現した姿になってしまえば、まったく揺らがないなんて言いきれない。
邪な感情に呑まれそうで、はっと我に返った南は真琴の手を解き避けるようにカウンターの奥へと抜けた。
しかし、来月の献立用の資料を探す背中に真琴の声が響く。
「お前の理想ってのが分からないから色々試した。勤務先知ってやっと納得したよ」
びくりと肩は跳ね、ファイルを探す手は止まる。それから俯き気味に息を吐き、振り返った。
「……落ち着いてよ。結婚を前提に友達からお付き合いとか……そこから始めるなら、ね」
「無理。前提ってなにそれ。結婚してよ」
アイドルから俳優に転身したとはいえ相手は芸能人だ。
役者業がようやく板について、ドラマで主要な位置で出演する機会が増え、内容によっては主演だっていくつか取れるのだ。
そんな旬な真琴は肉体改造で更に人気をはくし、今がまさに大事な時期ではないのだろうか。
そんな人間が自分にかまっていて良いわけがない。
「真琴は俳優でしょう」
「俺の需要はもう王子様じゃないから。演技と一途さだけ磨いてるし」
「っ……」
言葉の意図を汲むような答えに年柄にもなく南をたじろがす。いい大人なのに、こんなに言い寄られると本気にしてしまいそうだ。
それは理想の身体に対してなのか、それとも真琴の気持ちに対してなのか今はまだすぐに答えは出ない。
しかし根底にある南の不安を見透かすように真はいい募る。
「お前は知らないかもしれないけど、ちゃんと公言してるから。惚れてる相手に好かれたくて改造したって」
南は資料を手に立ち上がった。
確かに盛んにニュースで取り上げられていたが、まさか自分のことを指していたなんて。
「南が頷くまで諦めないから。アプローチ続ければ少しは響くだろ。違う?」
今まで感じたことのない獣じみた視線を感じ、戸惑い以上に胸の鼓動の痛みが強くなる。
叩きつけられる好みの身体。
それを南のためだけに作ってきてやったと豪語する真琴。
ずるい。
その重みが今の自分には刺さってしまっている。
誘惑に負けて気を抜けば頷いてしまいそうだ。
その時、不意に個室の扉がノックされた。
「ーーごめん南さん。急ぎで、ちょっといいかな?」
顔を出したのは先輩の葉山玲司で、南より二歳年上の男性トレーナーだ。
そしてこの会社、アッパー・ブラッシュに南を誘った張本人でもある。
南は我に返り、真琴に断りを入れたあと手招いている葉山の元へ向かった。
葉山は短いメッシュの入った金髪に浅黒い肌の派手な出立ちの男だ。
女性からは遊んでそうと言われがちだが、至って本人は真面目で控えめ。見た目を派手にしたのは、内気な性格を隠すためらしい。
タブを見ながら顧客のトレーニング予定を確認し合い、短い会話のあと顔を上げれば、葉山は南越しに笑みを向けて小さく会釈していた。
振り返ると器具の前で腕を組んで待っている真琴が居て、こちらに向けられていると思われる視線はまるで葉山を品定めしているようだった。
「ごめん。次は食事内容の確認させてもらっていい?」
葉山が去り、南はジム特注のプロテインパウダーで作ったドリンクを作りながら言った。
「さっきの。名前で呼んでたけど、やけに親しいじゃん」
突拍子のない言葉にシェイクする手に思わず力が入る。おかしなタイミングで力をかけたせいでボトルが飛んでいきそうなった。
「やめてよ。そんなのじゃないし、葉山さんはここに呼んでくれた前の会社の先輩。ただの名残だから」
二人が元々居た会社には南と同名の鏑木が居た。そのため社内では皆が二人を下の名で呼び、葉山はその癖が抜けず現在も変わらず名前で呼んでくる。
ただそれだけなのだ。
「へぇ。周りはみんな鏑木って呼ぶのに?」
「だから前の会社に同じ苗字の人がいて……」
「でも今は居ないだろ。必要性ないし逆に浮くんじゃない?」
追求してくる真琴は至極冷静に責めてくるが、言い訳じみた主張をしなければならない自分に疑問が落ちる。
一体何の権利があっていきなり口出しされなければならないのか。
求婚されてはいるが、了承していない。
それに本当に葉山はただの先輩でそれ以上の関係はないのだから不満そうにされてもかなわない。
「なにそれ、嫉妬?」
南は勢い余って口走っていた。
「そうだけど」
出来上がったドリンクを勝手に皆の手から取り上げた真琴は蓋を開けるなりボトルを傾け一口煽る。
その首筋と根元の発達した筋肉を見せつけるように。
「必要ないことわざわざしてる奴は気になる。お前も少しはそういうの感じ取れよ」
飲み干したボトルを突き返し、唖然と瞳を瞬く南に逞しい腕を伸ばすと顔の横を追い越して髪に触れる。
後ろで一つに纏め上げた黒髪を指で梳き、真琴は怪訝な顔で見てくる。
「まぁ、お前が鈍いおかげで俺のものに出来るんだろうけど」
怪訝な顔は静かな熱の篭った視線へと変わる。
雰囲気を変えてくる真琴にせっかく冷めていた熱がぶり返し片足を後ろへ引いた。
「だから結婚するって言ってな……」
「するよ」
「え……?」
「だってお前、髪染めてないだろ」
そのまま退こうとした身体はピタリと止まる。図星を突かれたような感覚に戸惑ったからだ。
「南は染めない方が似合うって言ったの俺。あれだけ卒業したら絶対染めるって言ってたのに、なんでまだこのままなの?」
確かに、生まれてこの方一度も染めた事はない。
カラーを入れたいと思った事は何度もあったが、色を選んでいるうちに真琴の言葉を思い出していたからだ。
あながち的外れでない真琴の言葉は守備範囲外という言葉を完全に崩すには説得力があり、南の瞳が揺れる。
「自覚ないよな」
真琴の口元が歪み吐息が漏れる。
「青臭いプライドは捨てたから、俺は欲しいもん貰うって決めたんでよろしく」
肩を叩くと真琴はトレーニングルームを出ていこうとした。
その背中を追って振り返る。
緊張が滲み、肌がくり立つのを感じながら南は声を上げた。
「ねぇ、なんで私なの?」
真琴は口角を上げて言う。
「お前が自分にしろって言ったんだろ。高校最後の夏、思い出してみれば」
ーーそうだ。最後の夏、補講帰りに二人でした長話し。
「目が覚めて俺の顔が変わってたら、誰も俺だって分からないだろーな」
「急になに言ってんの?」
「だから、俺は顔が目印って話」
「よく分かんないけど、顔が印じゃなんか問題あるの?それ」
「大問題だって」
「別にいいじゃん。武器持ってんだから贅沢すぎ。私が男ならその顔に生まれたいし。欲しがるねー」
「うるせ。俺のいいところ顔以外で10個言える奴に出会いたいわ」
「阿呆らし。そういう奴に限って結局上っ面だけの薄っぺらーい愛だの恋だのにハマるんだよ。止めときな」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「もう私にしとけばー?」
確かにそう言った。
会話が次第に面倒になって適当な事を言った気がする。
これはとんでもない蓋を開けてしまったかもしれない。
ここで言う”美”とは世間一般論のことで、それが美しいとされる漠然としたマジョリティーの概念だ。
反して性癖は三日で飽きることはない。
むしろ一生ものとも言えるだろう。
だから困るのだ。
直球でぶち抜いてくる暴力的な上腕三頭筋。
筋肉の筋が張った太腿。
元々の高身長に小さな頭、長い手足を活かし、例えるならまるで海外アクション映画に出てくる軍人さながらだ。
華奢だった薄い肩はどこへ行ったのか。
今や筋肉という鎧を纏って骨の厚みすら感じさせる。
今にして思えば彼は良質な素材だったのだ。
――――多くの俳優やタレントも御用達のパーソナルトレーニングジム『アッパー・ブラッシュ』
鏑木南は今年で二十九歳になる中堅のトレーナーだ。
先輩の伝手で転職し、奇跡的に所属することが出来た憧れのジムでの勤務も三年目になる。
今後の目標は二年後に独立して女性専用のジムを経営をすること。
その夢のために今は多くの経験を積み、実績を残し、起業に向けて準備を進めている。
恋愛する暇もなく忙しい毎日だが人生は充実していた。
まさに黄金期。
なぜなら毎日、大好きな筋肉に囲まれているからだ。
このトレーニングジムに勤める人間は、男女問わずとにかくメリハリのある身体をしている。
そして筋肉の維持にかける想いに余念がない。
プロテインのメーカーに対する議論を交わし、チートデイの賛否について語り合う。
筋肉に必要不可欠なたんぱく質を、より美味しく効率的に摂取するにはどうすればいいか頭を悩ませ、食事が与える心と健康への影響を自らの身体を以て研究する熱い仲間たち。
彼らに囲まれ、よりよい指導をするためのアプローチを模索し実践する日々。
これを黄金期と呼ばずなんと呼べばいいのだろう。
昔から少年アイドルに多い、胸板の薄いスレンダーな体型よりも、重厚感のある身体が好きだった。
ゲームで例えるなら勇者よりも重騎士。
主人公に据えられやすい爽やかな程よい筋肉、などでなく、とにかくパンパンに鍛え上げた筋肉を見せつけるような体格のパワーで押してくるような男。
南はとにかく、そういう男の雄っぽさに対して憧れが強かった。
例に漏れず、隣人で小中高を共にし、大手プロダクションからアイドルデビューした、”国宝級”と称される顔面偏差値を持つ幼馴染ーー北王寺真琴に対しても、南は今まで一度も”いい”とは思わなかった。
北王寺真琴はその名の通り、まるで王子様のような爽やかで清廉とした顔立ちをしている。体格もアイドルにはうってつけのスレンダーなモデルのような体型だった。
外見は完全無欠の王子様。
とはいえ南の知っている真琴は、我が強く、はっきりものを言う性格だったが。
そう、見た目に反して真琴の中身は王子様然とはしていない。そのギャップに落胆する人間もいれば、更に盛り上がる人間もいて、そんな彼らを南はいつも外野から見ている感覚だったが、真琴本人とは気心知れた関係だった。
なまじ顔が良いため彼氏になって欲しいと恋い慕う相手が後を絶たない幼馴染。
真琴がデビューした後は顔を合わせることがなかったが、しかしその男が十年越しに突然現れた。
それも今まさに『肉体改造』で話題沸騰中の南好みの身体になって。
「――南、結婚しよう」
トレーナーと依頼人という立場で再会し、二週間。
何故か顔を合わせるたび、他人がいないのを見計らっては真琴に求婚してくる。
「またその話?集中してよ。役作りしにきてるんでしょう」
ワークアウトの真っ只中でも、真琴はバーベルを持ち上げながら爽やかに告げるので、眉を顰め指摘するが薄い唇から歯列覗かせ軽くあしらわれてしまう。
「別にこの一瞬で水の泡になるなんてことないし、大丈夫だろ。継続力がものをいうし」
確かにその通りではあるのだが、得意げに言われると妙に腹が立つ。
しかし問題の求婚発言に対して適切な言葉が思い浮かばず言い淀んでは唇を引き結んだ。
それから諦めて持っていたタッチパネルに最後の記録を入力した。
言い返すのも疲れるのだから仕事に徹していよう。
そう考えカウンターに移動しパネルを元の位置に戻していると、不意に影が落ちる。
後ろを振り返るように顔を上げれば、真琴の甘い瞳が南に注がれていた。
「自分の言葉に責任もてよ。お前が言ったんだろ、理想の身体に出会えたら結婚するって」
真琴の言い分曰く、南は『俺の一世一代の告白を台無しにした』らしい。
確かに『好きなやついるの?』ぐらいは聞かれたことがあった気がするが、あの時のことは正直うろ覚えなのだ。
そもそも真琴の事は、こざっぱりしていて好きな部類の人間ではあるものの、前提として異性として意識したことがない。
向こうだってきっと近所に住む女友達ぐらいにしか考えていないだろう。そう思い込んでいた。
しかし大人になって色気を帯びた真琴は、最強の武器ともいえる装備を纏って迫ってくる。
「俺の事、もう眼中にないなんてことないだろ」
「それは……」
徐に手首を掴まれて、驚く間もなく真琴の胸板に触れさせられる。
強引な行為から伝わる質感のよい肉厚の大胸筋。
知らしめられる雄の象徴に指先が震え、口内が潤として、漏れた声は上擦った。
「好きなんだろ、こういう身体が。お前のために頑張ったんだけどな」
学生の頃よりも落ち着いた声音が低く囁いて、よく見れば甘い顔立ちすらも以前より引き締まってさらに洗練されていた。
筋肉は一日で作られるものではない。
相当努力したのだ。
真琴の言葉を身体が証明しているようで、そんな姿をまじまじと見れば、心臓の奥の方がきゅうっと締め付けらたような錯覚が起きる。
「ほら、顔赤くなってる」
「気のせいだって……」
「違うね。絶対、緊張してる。俺相手なのにって動揺してるよな」
言われて更に身体の熱が上がっていくような気がして息が震えた。
「告白も有耶無耶にされて悔しくて、見返してやるつもりで芸能界入ったけど……やっぱお前がいいんだよ」
まさかそんな理由でオーディションに応募していたというのか。いや、悔しいと告げた真琴本人にとっては傷だったのかもしれないが。
知らないうちに幼馴染を傷つけていたのだと思うと罪悪感すら湧き立たせる。
もともと嫌いじゃないのだ。
守備範囲外であっただけで。
それが今、理想を体現した姿になってしまえば、まったく揺らがないなんて言いきれない。
邪な感情に呑まれそうで、はっと我に返った南は真琴の手を解き避けるようにカウンターの奥へと抜けた。
しかし、来月の献立用の資料を探す背中に真琴の声が響く。
「お前の理想ってのが分からないから色々試した。勤務先知ってやっと納得したよ」
びくりと肩は跳ね、ファイルを探す手は止まる。それから俯き気味に息を吐き、振り返った。
「……落ち着いてよ。結婚を前提に友達からお付き合いとか……そこから始めるなら、ね」
「無理。前提ってなにそれ。結婚してよ」
アイドルから俳優に転身したとはいえ相手は芸能人だ。
役者業がようやく板について、ドラマで主要な位置で出演する機会が増え、内容によっては主演だっていくつか取れるのだ。
そんな旬な真琴は肉体改造で更に人気をはくし、今がまさに大事な時期ではないのだろうか。
そんな人間が自分にかまっていて良いわけがない。
「真琴は俳優でしょう」
「俺の需要はもう王子様じゃないから。演技と一途さだけ磨いてるし」
「っ……」
言葉の意図を汲むような答えに年柄にもなく南をたじろがす。いい大人なのに、こんなに言い寄られると本気にしてしまいそうだ。
それは理想の身体に対してなのか、それとも真琴の気持ちに対してなのか今はまだすぐに答えは出ない。
しかし根底にある南の不安を見透かすように真はいい募る。
「お前は知らないかもしれないけど、ちゃんと公言してるから。惚れてる相手に好かれたくて改造したって」
南は資料を手に立ち上がった。
確かに盛んにニュースで取り上げられていたが、まさか自分のことを指していたなんて。
「南が頷くまで諦めないから。アプローチ続ければ少しは響くだろ。違う?」
今まで感じたことのない獣じみた視線を感じ、戸惑い以上に胸の鼓動の痛みが強くなる。
叩きつけられる好みの身体。
それを南のためだけに作ってきてやったと豪語する真琴。
ずるい。
その重みが今の自分には刺さってしまっている。
誘惑に負けて気を抜けば頷いてしまいそうだ。
その時、不意に個室の扉がノックされた。
「ーーごめん南さん。急ぎで、ちょっといいかな?」
顔を出したのは先輩の葉山玲司で、南より二歳年上の男性トレーナーだ。
そしてこの会社、アッパー・ブラッシュに南を誘った張本人でもある。
南は我に返り、真琴に断りを入れたあと手招いている葉山の元へ向かった。
葉山は短いメッシュの入った金髪に浅黒い肌の派手な出立ちの男だ。
女性からは遊んでそうと言われがちだが、至って本人は真面目で控えめ。見た目を派手にしたのは、内気な性格を隠すためらしい。
タブを見ながら顧客のトレーニング予定を確認し合い、短い会話のあと顔を上げれば、葉山は南越しに笑みを向けて小さく会釈していた。
振り返ると器具の前で腕を組んで待っている真琴が居て、こちらに向けられていると思われる視線はまるで葉山を品定めしているようだった。
「ごめん。次は食事内容の確認させてもらっていい?」
葉山が去り、南はジム特注のプロテインパウダーで作ったドリンクを作りながら言った。
「さっきの。名前で呼んでたけど、やけに親しいじゃん」
突拍子のない言葉にシェイクする手に思わず力が入る。おかしなタイミングで力をかけたせいでボトルが飛んでいきそうなった。
「やめてよ。そんなのじゃないし、葉山さんはここに呼んでくれた前の会社の先輩。ただの名残だから」
二人が元々居た会社には南と同名の鏑木が居た。そのため社内では皆が二人を下の名で呼び、葉山はその癖が抜けず現在も変わらず名前で呼んでくる。
ただそれだけなのだ。
「へぇ。周りはみんな鏑木って呼ぶのに?」
「だから前の会社に同じ苗字の人がいて……」
「でも今は居ないだろ。必要性ないし逆に浮くんじゃない?」
追求してくる真琴は至極冷静に責めてくるが、言い訳じみた主張をしなければならない自分に疑問が落ちる。
一体何の権利があっていきなり口出しされなければならないのか。
求婚されてはいるが、了承していない。
それに本当に葉山はただの先輩でそれ以上の関係はないのだから不満そうにされてもかなわない。
「なにそれ、嫉妬?」
南は勢い余って口走っていた。
「そうだけど」
出来上がったドリンクを勝手に皆の手から取り上げた真琴は蓋を開けるなりボトルを傾け一口煽る。
その首筋と根元の発達した筋肉を見せつけるように。
「必要ないことわざわざしてる奴は気になる。お前も少しはそういうの感じ取れよ」
飲み干したボトルを突き返し、唖然と瞳を瞬く南に逞しい腕を伸ばすと顔の横を追い越して髪に触れる。
後ろで一つに纏め上げた黒髪を指で梳き、真琴は怪訝な顔で見てくる。
「まぁ、お前が鈍いおかげで俺のものに出来るんだろうけど」
怪訝な顔は静かな熱の篭った視線へと変わる。
雰囲気を変えてくる真琴にせっかく冷めていた熱がぶり返し片足を後ろへ引いた。
「だから結婚するって言ってな……」
「するよ」
「え……?」
「だってお前、髪染めてないだろ」
そのまま退こうとした身体はピタリと止まる。図星を突かれたような感覚に戸惑ったからだ。
「南は染めない方が似合うって言ったの俺。あれだけ卒業したら絶対染めるって言ってたのに、なんでまだこのままなの?」
確かに、生まれてこの方一度も染めた事はない。
カラーを入れたいと思った事は何度もあったが、色を選んでいるうちに真琴の言葉を思い出していたからだ。
あながち的外れでない真琴の言葉は守備範囲外という言葉を完全に崩すには説得力があり、南の瞳が揺れる。
「自覚ないよな」
真琴の口元が歪み吐息が漏れる。
「青臭いプライドは捨てたから、俺は欲しいもん貰うって決めたんでよろしく」
肩を叩くと真琴はトレーニングルームを出ていこうとした。
その背中を追って振り返る。
緊張が滲み、肌がくり立つのを感じながら南は声を上げた。
「ねぇ、なんで私なの?」
真琴は口角を上げて言う。
「お前が自分にしろって言ったんだろ。高校最後の夏、思い出してみれば」
ーーそうだ。最後の夏、補講帰りに二人でした長話し。
「目が覚めて俺の顔が変わってたら、誰も俺だって分からないだろーな」
「急になに言ってんの?」
「だから、俺は顔が目印って話」
「よく分かんないけど、顔が印じゃなんか問題あるの?それ」
「大問題だって」
「別にいいじゃん。武器持ってんだから贅沢すぎ。私が男ならその顔に生まれたいし。欲しがるねー」
「うるせ。俺のいいところ顔以外で10個言える奴に出会いたいわ」
「阿呆らし。そういう奴に限って結局上っ面だけの薄っぺらーい愛だの恋だのにハマるんだよ。止めときな」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「もう私にしとけばー?」
確かにそう言った。
会話が次第に面倒になって適当な事を言った気がする。
これはとんでもない蓋を開けてしまったかもしれない。


