Fahrenheit -華氏- Ⅲ


お手洗いは喫煙所を通り越して店の奥にあった。客席から見えないように壁がありその奥が男女別れた個室になっているようだ。その男性用の方から伊藤さんが出てきた。


「あれ?君もトイレ?」と伊藤さんが聞いてきて、あたしは大げさに口元をハンカチで押さえ


「ええ、ちょっと……酔っ払ってしまいまして。どうしてだろう、体調悪いのかしら」と俯いた。


「大丈夫?」と伊藤さんがあたしの肩に触れようとした瞬間、あたしはわざとヒールを傾けた。伊藤さんがすかさずあたしを抱きとめてくれてあたしは伊藤さんの胸の中。


「だいぶ酔ってるのかな?大丈夫?」伊藤さんは心配しながらも、あたしは見過ごさなかった。彼の唇にほんの少し笑みが浮かぶのを。


「ご迷惑をお掛けしてすみません。お手洗い行ってきます」あたしは彼の胸にそっと手を置き、ゆっくりと顔を上げた。


「ルカちゃん―――……」伊藤さんがあたしを引き寄せるように抱きしめてきて、嫌悪感の漂う安っぽい香水の匂いが不快に鼻孔を刺激した。香りも体温も、力強さも―――啓とまるで違う。


どうしてあたしは未だに些細なことでも啓と比べてしまうのだろうか。


「瑠華ちゃん、大丈夫?」葵さんが来て、伊藤さんの手はすぐに離れていった。


「彼女、酔っ払っちゃったみたい。ちょっと様子見てあげて」と伊藤さんは何事もなかったかのようにあたしの両肩に触れて、そっと引きはがす。


慣れてるな。


白々しい目で彼が席に戻るのを見送っていると


「瑠華ちゃん、大丈夫!あいつから何かされてない?」


と葵さんは真剣そのもの。


「大丈夫ですよ。目的は達成しましたので。今度マナミさんがお手洗いか何かで席を外したとき、葵さんも席を外してください。そのときに一気に畳みかける」


あたしが目を上げると、葵さんの喉がごくりと動いた。


「大丈夫です、ここはお客もまだたくさんいるし彼も下手なことはしないでしょう、私を信じてください」と言うと


「う、うん」と葵さんは渋々頷いた。