Fahrenheit -華氏- Ⅲ



♥ Ruka ♥


啓は、この日定時過ぎにすぐに帰っていった。申し訳なさそうにしていたけれど、この日珍しく定時まで消化できずに残っていた仕事をしていたあたしにとってちょうど良かったのかもしれない。


まだ―――…


まだ、二人っきりになるのは辛い。


一方で「どこへ行くのですか?誰と?」と問いかけたくなる自分を必死に押さえている。


あたしは―――ポーカーフェイスを装えただろうか。


佐々木さんも帰って行った。


仕事は20時を過ぎて何とか終わり、PCの電源を落としながら小さくため息をつき、プラダの黒いバッグに一枚の紙が入ったクリアファイルを確認しながら入れる。


白いニットの上、ミルクティベージュのマント風コートを羽織った。オフホワイトのふわふわミンクの襟元が気に入って買ったお気に入りの一着。


最後に引き出しを開け、いつも“そこ”に置いてある心音から受け取ったベリー色のUSBを確認して引き出しを戻そうと思っていたときだった。


「かしわっぎさ~ん」


明るく声を掛けられ、あたしは顔を上げた。


二村さん―――


あたしは顎を引いた。


「何か?」低く問いかけると


「手の傷の具合どお?」とそれは自然に近寄ってくる。あたしは乱暴に引き出しを閉め、ガチャガチャと音を立てながらその引き出しに鍵を掛けた。


「あなたに心配される程のものでもありません」


そっけなく言って彼の横を素通りしようとすると


「待ってよ~今日飲みにいかない?」と急なお誘い。


「私が?あなたと?何故」


「何故って……葉月は体調悪いとかで先帰っちゃったしー、瑞野さんを誘ったら神流部長と飲みに行くって言われてサ」


啓と、瑞野さんが―――


思わず目を開く。


「ほしの屋って知ってる?そこまで飲みに行ってるみたい」


ほしの屋―――勿論知ってる。あれは数か月前、経理部との合同飲み会で利用した会社直営の居酒屋さん。