洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分は、相変わらず普通の顔をしていた。
昨日、文姫に会ったことなんて嘘みたいに。
通勤電車は今日も混んでいた。
押し込まれるように乗りながら、洸太はぼんやり窓の外を見る。
朝の東京は忙しい。
みんな同じ方向を向いて、同じ顔で歩いている。
誰も他人に興味がない。
それなのに昨日だけ、自分の世界に文姫が戻ってきた。
そのことが、まだ少し不思議だった。
会社に着いて、パソコンを開く。
メール。
会議。
資料修正。
いつもの仕事。
なのに集中できない。
気づくと、スマホの画面を見てしまっている。
もちろん、何も来ていない。
洸太は自分で呆れる。
高校生じゃあるまいし。
けれど、昨日までとは確実に違った。
世界にひとつ、気になる通知が増えてしまった。
昼休み。
コンビニで買ったサンドイッチを片手に、オフィスビルの裏にある喫煙所へ向かう。
煙草に火をつける。
空は薄く曇っていた。
ビル風が煙をすぐに攫っていく。
洸太はスマホを取り出す。
文姫とのトーク画面を開いて、閉じる。
また開く。
送ろうとして、やめる。
何を送ればいいのか分からない。
『おはよう』
……違う気がする。
『昨日はありがとう』
いや、それは昨日言った。
自分でも笑えてくる。
十年経っても、結局こういうところは変わっていないのかもしれない。
その時。
スマホが震えた。
洸太の心臓が、一瞬だけ強く跳ねる。
画面を見る。
『仕事中?』
文姫だった。
たった四文字。
それだけなのに、呼吸が少し浅くなる。
洸太は煙草を咥えたまま、しばらく画面を見つめた。
