君と終わった街で

金曜日の夜だった。

オフィスの窓の外には、東京の夜景が広がっている。

遠くのビル群。

赤く滲むテールランプ。

雨こそ降っていないけれど、空気は少し湿っていた。

洸太はパソコンの画面を見つめたまま、小さく息を吐く。

集中できない。

時計を見る。

まだ二十一時前。

明日になれば、文姫とまた会う。

そう思うだけで、朝からずっと落ち着かなかった。

資料を開いても頭に入ってこない。

スマホを見てしまう。

別に、文姫から連絡が来ているわけでもないのに。

「先輩」

不意に声が飛んできて、洸太は顔を上げる。

斜め向かいのデスク。

平井 桃花が、じっとこちらを見ていた。

茶色のロングヘア。

モデルみたいに整った顔立ち。

仕事終わりで少し髪が崩れているのに、それすら妙に様になっている。

桃花は椅子に座ったまま、じっと洸太を見ていた。

「今日ずっと変ですよ」

「何が」

「落ち着きなさすぎです」

図星だった。

洸太は苦笑する。

フロアには、もうほとんど人が残っていない。

終電前の静かなオフィス。

キーボードを叩く音も止まっていた。

桃花は頬杖をつきながら言う。

「スマホ見る回数、今日たぶん五十回超えてます」

「見てんのかよ」

「見えますもん」

洸太は小さく息を吐いて、椅子にもたれた。

隠しても仕方ない気がした。

桃花とは、それなりに長く働いている。

仕事終わりに飲みに行くこともあるし、気楽に話せる後輩だった。

「……まあ」

少し迷ってから、洸太は口を開く。

「昔の知り合いに会ってさ」

桃花の眉がぴくりと動く。

「女の人ですか」

「なんで分かる」

「分かりますよ、その顔」

洸太は思わず笑ってしまう。

桃花は椅子を少し回して、完全にこちらを向いた。

「元カノですか?」

「違う」

「じゃあ元好きな人?」

その言葉に、洸太は少し黙る。

そして、小さく笑った。

「……まあ、そんな感じ」

桃花の表情が、一瞬だけ止まった。

でもすぐに、いつもの軽い笑みに戻る。

「へぇ」

「再会したんですか」

「ああ。ついこの前、たまたま」

“たまたま”と言いながら、胸の奥が少し熱くなる。

あの雨上がりの交差点を思い出す。

桃花はじっと洸太を見ていた。

「そんな好きだったんですか?」

「高校の時な」

洸太は苦笑する。

「めちゃくちゃ好きだった」

自分で言って、少し恥ずかしくなる。

でも桃花は笑わなかった。

ただ静かに、

「今は?」

と聞く。

洸太は返事に詰まる。

今。

それを、自分でもまだ上手く言葉にできなかった。

文姫といると落ち着く。

楽しい。

会いたいと思う。

でも十年前みたいに、感情をぶつけたいわけじゃない。

好きなのかと聞かれたら。

たぶん、答えは決まっている。

でも、簡単に口にしたくなかった。

「……分かんない」

小さく答える。

桃花は少しだけ視線を落とした。

「その人、脈あるんですか」

洸太は苦笑する。

「ないだろ」

即答だった。

「高校の時、何回も振られてるし」

「でも今また会ってるんですよね?」

「まあな」

「じゃあ分かんないじゃないですか」

桃花はそう言いながらも、どこか納得していない顔をしていた。


静かなオフィス。

エアコンの音だけが響いている。

その時。

桃花がゆっくり立ち上がった。

ヒールの音が、静かなフロアに小さく響く。

洸太の横まで来て、そこで止まる。

「……平井?」

名前を呼んだ瞬間だった。

桃花が、突然洸太のネクタイを軽く掴む。

次の瞬間。

柔らかい感触が、唇へ触れた。

洸太の思考が、一瞬止まる。

短いキスだった。

でも離れたあとも、桃花はすぐには距離を取らなかった。

真っ直ぐ洸太を見つめたまま、小さく息を吐く。

「……それなら」

桃花の声は、少し震えていた。

「私じゃ、ダメですか?」