その苦味を知っている 〜曲者専務は甘くて苦い煙を纏う〜

包装紙の匂いが好きだ。
薄いナイロンを破いて、まっさらな紙と共に溢れてくる整った香り。
昔から匂いには敏感な方で、特に贈り物の紙を開いた時の心地よい香りはいつだって心をときめかせた。

地方に根付く、歴史の長いギフトショップ“TOUGO“に勤務する波瀬夏希(はせなつき)は、急ぎで注文の入った品を指定の紙で包んでいた。

皺のないよう箱の側面をぴたりとくっつけたまま、指先でさっと折り目をつけ位置を確認してから手際よく包んでいく。こういう作業は丁寧さと同時に少しの勢いが大事だ。恐々と触れていては大切な贈り物を何度も転がしてしまうことになる。

――よかった。なんとか間に合った。

最後の留めのシールを貼り終わり、手首の腕時計に視線を落とすと夏希はほっと息をついた。
しかし安堵に浸る間もなく、直後に名前を呼ばれる。
声のする方を見れば、勤務歴の長いパートの女性――佐々木が不安そうな顔をしていた。

「須藤さんが帰って来ないんだけど……また喫煙所ですかねぇ」
あと五分で出発だというのに、彼女の口ぶりからは今日の配送担当の須藤はまだ戻っていないようだ。
喫煙者の須藤は休憩と称して隙あらば姿を消してしまう。
一方の夏希の母の歳と変わらない佐々木はタバコの煙が大の苦手らしく、服に臭いが移るのを嫌がってはこうして夏希にいつも声をかけてくるのだ。

「私、ちょっと見てきますね!配達の時間ですもんね」
「ありがとう。ごめんなさいねぇ、波瀬ちゃん忙しいのに」

分かっているなら自分で呼びに行って欲しいものだが、夏希は貼り付けた笑みを返してバックヤードを抜け、店舗の裏手に出ると喫煙所と称される掃除用具入れの隣にある薄暗い場所へと向かった。

大学卒業からギフトショップTOUGOで働く夏希は今年で二十七になる。
店舗長に昇進して半年が経つが、高齢の店舗スタッフの多い会社では皆が夏希を”波瀬ちゃん”と呼ぶ。
親しみと軽視の狭間のような呼び名は、すり減っていた心を鬱屈とした感情へさらに傾けるが、夏希はそれを深呼吸して振り払った。

「須藤さん。やっぱりここですか!これから配送なんですよ。お客様の大切な商品に臭いが移ったら大変です」
「はいはい、すいませんっと。これだけが楽しみなもんでね」

呼ばれた男は皺の寄った顔を緩ませ豪快に笑うと、紙煙草の火だねを吸い殻で潰して捨てて、それからさりげなく夏希の肩を叩いては戻っていく。
注意すればすぐ戻ってきてくれるのできっと悪い人じゃないのだろうが、如何せんがさつで配慮に欠ける人物だ。
須藤の相変わらずの様子に溜息をつき、夏希は喫煙所に残る鋭く鼻につく煙に眉を顰めたあと、苛立ち交じりに溜息を零し勢いよく振り返った。

「――おっと。すみません」

上背があるスーツ姿の男性が一人、波瀬と肩がぶつかりそうになって身を引いて、見知った顔に波瀬は声を上擦らせる。
「専務っ……お疲れさまです!」
精悍な顔立ちで長い睫毛、その影響か甘い目元は眼力がり、緩く持ちあがる大きな口が印象的だ。
「お疲れさま。波瀬さんですよね?直接会うのは全体会議以来でしたっけ」
「はい。お久しぶりです」

半年前、夏希が昇進した時同じくして専務に就任した東郷基春(とうごうもとはる)――社内で有名な人物だ。

ギフトショップTOUGOは基春の父が起こした会社で、彼はその次男坊にあたる。
確か年齢は夏希と十歳ほど違うと聞いたことがある。
年の離れた長男が社長職を継ぎ、その息子が副社長をやっていて、基春自身は独立して食品のネット販売を手掛ける別会社を自分で立ち上げ、経済紙に取り上げられるほど成長させていたらしい。

対してTOUGOは経営が傾きつつあり、会長職に退いた父親が基春の腕を見込んで引き入れたらしいが、今のところ彼が目覚ましい成果を上げたという話はなく、中高年層の多い社内では期待外れなどと噂されている。

基春とは新年度に行われる決起会で一度挨拶した程度で、あとは毎月のミーティングでテレビ会議で同席するものの、これまで二人で話すことなどはなかった。

「ちょうど良かった。今いいですか?」
「はい。なんでしょうか?」
「以前提案してくれた三星コンシェルジュ制度のことだけど、あれ僕としては有りだと思うんですよね」
「あの、かなり前の話ですよね……覚えて下さっていたんですか?」

それは以前、夏希が昇進直後の月イチの会議で提案したもので、『社内検定を作り、合格した者だけが名乗れるギフト選びの専門家制度』のことだった。

「もちろん。”お客様の不安を解消するのがギフトショップの真理”だって話、名言だったなぁ」
「恥ずかしいです……。なんかすごく生意気なこと熱弁してましたよね。しかも不安を、とかネガティブですし」

エリアマネージャーに確認をとって発表した内容だったが、結局のところ夏希の提案は有耶無耶なままだった。
当初は社長と副社長が乗り気だったが、経営に参加している社長夫人が「表現がネガティブ」だと渋い顔をしたのだ。それから方々より色々と難癖をつけられているうちに失速して、今や忘れ去られた過去の産物である。

「むしろ良いと思ったけどな。実際、専門店に来るお客様って信用を買いに来てますよ。個人主観で買いたいとか、安く抑えたいならもっと他に店はあるから」
だから商品のルーツやシーンに対応した商品の相談に対応出来る”資格”を社内検定として広めるのは有りだと基春は爽やかに笑った。
「――それで、嗜好を変えて簡易的に導入できるAIがあるから、まずはチャットコンシェルジュをネット販売に入れたいと思っていて。次のネット事業部の議題に上げていいかな?」

基春の提案に夏希は瞬きを繰り返した。
まさかそのことを話すために、わざわざ自分の居る店舗まで足を運んだのだろうか。

「あの、お言葉ですが、方向性が違うので私の許可なんて気にされなくても……ぜんぜん、提案なさって問題ないと思います」
「そうはいきませんよ。波瀬さんの言葉がきっかけですから」
「でしたら……ぜひ」
「良かった。チャットが導入されて使われるようになったら、社内検定にも波及していきたいですね」

律儀な人。穏やかで明るい空気を纏う基春に夏希は既視感に似た不思議な気持ちになった。
それからふと、胸元の膨らみから見える派手なピンク色に目を止めた。

「専務って電子煙草吸われるんですね」
「あぁ。昔、紙煙草吸ってて。止められなくて結局ここに。幻滅しました?」
「まさか。吸ってるだけで幻滅しませんよ。ただ、その色が珍しいなと……」

渋い濃紺のスーツと不釣り合いの主張の激しい電子タバコを基春が取り出すと、気まずそうに片手で転がしながら笑う。
「仕方なかったんですよ。わりとすぐ壊れて。別のを買ってると、どれが使える物か分からなくなるから違う色を選んだ結果で」
「その色しかなかったんですね」
「そういうことです」
二人して笑いあったあと、夏希はすり減っていた心が少しだけ軽くなった気がした。

家族経営から生まれる決定権の浮遊感に振り回される日々に加え、なぜか毎月起きる請求関係のトラブル。店舗スタッフ同士の仲はいつもギクシャクしていて、夏希は店舗長になったもののかつての輝きを失っていた。
ギフトは人と人との心を繋ぐ。
受け手も贈り手も笑顔になれる、そんな贈り物を選ぶお手伝いがしたい。

そんな熱意をもって入社した中堅企業のTOUGOに、夏希の夢は預けられるのか時々不安に駆られて仕方がない。しかし、基春との会話で少しだけ希望が見えた気がした。


基春と別れ店舗に戻ると、今度は後輩の岸田が電話を片手に夏希に手を挙げた。
「事業本部からです。また請求書が揃ってなかったって。仕入れ先から問い合わせが入ったらしく」
かなり怒ってますよ、そう付け足され保留ボタンを押す手に思わず力が入った。

またこの電話だ。電話口で浴びせられる言葉も凡その検討がついている。

夏希を悩ます問題の一つ。支払い漏れだ。
いつも確認しているのに、いつも数件の抜けが発生するのだ。
TOUGOでは、各店舗で手配した企画商品や経費となる仕入れは店舗で確認したあとに事業本部へクラウドを利用しネットで共有で提出する決まりなのだ。

立て続けに毎月発生する支払い遅延の問題は、夏希の悩みの一つでもあり困っていたが、エリアマネージャーからは管理責任を問われるだけで、事業本部との両方から叱責を受け疲れ果てていた。

「これ何回目ですか?いい加減にしてくださいよ。こっちは必死で毎月処理してるのに、あり得ないんですけど。信用問題に関わるんですから!」

電話越しで苛立つ女性の声に、岸田が背後で「大丈夫ですか?」と問う。
その声音は明らかに他人事のようで、少し楽しんでいる節もあった。

「購入した請求書を提出先のフォルダにアップロードするだけ。たったそれだけですよ!」

「確かにちゃんと確認してアップしているんです……請求書はチェックして、他の人にも一緒に見てもらいましたし……」

「でも最終確認したの、波瀬さんですよね。アップできてないというか、一度消してますよね。なんの理由で下げたのか知りませんけど、そのあと上げるの忘れてますよね。いつも!!もう辞めたらいいんじゃないですか?向いてないですよ」

電話越しに罵られ、夏希は喉の奥が固くなるのを感じた。
そんなことは自分が痛いほど分かっている。
自分がしたかったのはこんなことじゃない……本当に、いっそ辞めて転職した方がいいのかもしれない。


旧態依然としている会社も、面倒を人に押し付ける人も、配慮を知らないガサツな人も、他人事で涼しい顔をしている人も――うんざりだ。

――――その時、肩をそっと叩かれた。視線を移すと基春の姿があった。

「ちょっと代わってください」
冷静な声が落ちると、返事をする間もなく受話器を取られ、夏希は瞳を揺らした。

「東郷です。波瀬さんを辞めさせて欲しいって相談があったから店舗に来てみたんですけど、彼女のせいじゃないですよ。例の請求書、店舗アカウントで下げた履歴はあるけど、別のPCから操作されてました」

基春の説明を聞き、夏希は唖然とした。
別のパソコンから操作されていた、悪意を持って仕事の邪魔をした人間が居たというのか。

「えぇ。管理が店舗用アカウントだからバレないと思ったのかな。社内システムの管理会社に問い合わせたらログの見方を教えてくれたんですけど、別の人のPCですね。波瀬さんへの嫌がらせかな」

基春は事業本部の担当に説明を終えると、受話器を置いて夏希たちを振り返った。

「岸谷さんのパソコンからのアクセスでしたよ」

――彼女が一体なぜ?
社内で珍しく年の近い後輩で、良好な関係かは分からないが、あたらず触らず、適度な距離感を持って接していたはずだ。
夏希は訳が分からず岸谷を見遣ると視線を逸らした。

「知りません!私じゃないです」
「でも履歴は残ってる。岸谷さんの使用しているパソコンなのに、誰が他に使うんです?画面ロックだってあるのに」
「それはっ……」
「無知は綻びの元ですよ」

基春の冷めた声に一蹴され、岸谷は声を引きつらせると青ざめたまま震え俯いた。


――後日、岸谷の動機が判明した。

「副社長が、波瀬さんばかり褒めてたから……私がいるのに」
歳の近い夏希の昇進と、実は恋人関係にあった副社長が夏希に興味を持つようになっていることに焦り、排除しようとした結果の犯行だったらしい。

そのことを夏希は基春から個人的に知らされることとなった。
呼び出された事業本部の会議室で、夏希は基春に頭を下げたあと訊ねた。

「なんで私の管理責任じゃないって思ったんですか?」
「決起会の言葉も、プレゼン内容も良かったからかな……波瀬さんがお客様に真摯な人だってよく伝わってたよ。波瀬さんにとったら、きっと仕入れ先だってお客様、ですよね」

基春の言葉に目頭が熱くなり夏希は頷いた。

「そんな人が不誠実な杜撰な管理をするはずがないですよ。しかも毎月、変でしょう」
屈託なく笑う基春に、夏希は今日まで胸に溜めていた想いを吐露した。

「ありがとうございます……やっと肩の荷が下りました。私、自分で処理出来なくて情けないです……だから、ずっと前から実は心機一転しようと思っていて。専務には先にお話ししようと思うんですが、この会社辞めます」

言葉にすると胸を押さえつけていた錘が浮いた気がしたが、目の前の基春は首を傾げた。


「逃げるの?」
「逃げるってそんな……自分を守るためです」

「でも、どこだって同じだと思いますよ。似たような人間がいて、似たようなやっかみをうける」

基春の視線に真っすぐ捉えられ、心の深いところがぎゅっと絞られた。
これは、分かっていたことを言葉にされ、混乱した故の感情だ。

それから不意に片手を引かれ、基春の顔が近づいた。
整った歯列が覗くと同時に、茶葉が燻されたような渋い苦みが香る。

「――セントラルホテル。507号室」
その言葉と香りに夏希は瞠目する。

――たった一人、昇進祝いで訪れたBAR。
浮気が原因で別れた恋人。祝い事の前に消沈しきった自分。そこに声をかけてきた男性。
酔いも混ざって話が弾み、勢いで誘いにのったホテル。

その人はただ、夏希を優しく抱きしめるだけで甘やかし、なにもせず一夜を明かした。

目覚めると姿はなく代わりに連絡先の書かれた紙が残っていたが、部屋の引出しにしまったままだ。
うろ覚えの記憶に顔ははっきりと思えておらず、記憶に残るのは心地良い香り。

「思い出した?僕のこと」
「え、あ……あの、私……」


「よかったら君にとって気持ち良く働ける居場所の作りかた、教えてあげるよ」

基春の言葉は、息の詰まっていた胸の奥までまるで香りが満ちていくようで、淀んだ人生が染め替えられる予感がした。