手相占い師の指先に、恋心までなぞられました

収録データに問題はなかった。
むしろ、初回にしては出来すぎなくらい。
先生が先に控室へ戻ったあと、音響担当が何気なく笑った。

「白石さん、大変ですね」
「え?」
「水無瀬先生、編集にもけっこうこだわる方って聞いてたので。指名されたって聞いた時、すごいなと思いました」

手元のチェックシートが、かすかに揺れた。

「……指名?」
「違いました? 今回の担当、水無瀬先生から白石さんでって話だったって」

知らない。
そんな話、私は聞いていない。

控室に戻ると、水無瀬先生は窓際に立っていた。
手には、先ほどまで読んでいた原稿がある。

私は扉の前で、一度だけ息を吸う。

「先生」
「はい」

いつもの穏やかな声で返される。
ついさっきまで、その声に振り回されていたことを思い出して、少しだけ耳が熱くなった。
でも、今聞きたいのはそれではない。

「今回の担当のことなんですが」
「担当?」
「私を、先生が指名されたと聞きました」

先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚いたというより、ああ、知られてしまいましたか、という顔。

「……どなたから?」
「音響の方からです」

先生は小さく笑って、原稿を閉じた。

「そうですか」
「本当なんですか」
「本当です」

あまりにもあっさり認められて、逆に言葉に詰まる。

「どうして、私だったんですか」

ずっと胸の奥にあった疑問が、ようやく形になって出てきた。

私は有名編集者ではない。
ベストセラーを何冊も担当してきたわけでもない。
もっと経験のある人も、話題作を作れる人も、社内にはいる。

なのに、どうして。
先生は少しだけ目を伏せた。

「以前、一度だけお見かけしたことがあるんです」
「私を、ですか?」
「はい。半年前の出版記念パーティで」

その言葉に、心当たりがよみがえった。

大きなホテルの宴会場。
著者、編集者、書店関係者、メディア関係者。
華やかな場の隅で、若いスタッフが大御所作家に捕まっていた。

お酒の入った相手は声が大きくて、周囲は気づいているのに、誰も割って入れない。
彼女の顔が強張っているのを見て、私は考えるより先に動いていた。

「先生、そのお話、私もぜひ伺いたいです」

そう言って間に入り、スタッフには別の用事を頼むふりをして逃がした。
相手の機嫌を損ねないように、別の編集者へ話をつなぐ。

場を壊さず、彼女だけを外へ出す。
あの時は、それで精一杯だった。
ただ、それだけだ。
仕事として、必要だと思ったことをしただけ。

「……あの時のことを、覚えていたんですか」
「覚えています」

先生の声が、少しだけ低くなる。

「あなたは、あの場で誰の面子も潰さなかった。けれど、ちゃんと彼女を守った」
「そんな、大したことでは」
「大したことです」

まっすぐに言われて、胸が詰まる。

「人の手を見る仕事をしていると、指先より先に、その人が何を守ろうとしているのかが気になることがあります」

先生は、私の手元に一度だけ視線を落とした。

「あなたは、自分の評価ではなく、あのスタッフの方を守ろうとしていた」
「……」
「だから、次に本を作るなら、あなたにお願いしたいと思いました」

言葉が出なかった。

声が好きだとか。
手が綺麗だとか。
そんなことばかり意識していた自分が、急に恥ずかしくなる。
この人は、私が思っていたよりずっと前から、私の仕事を見てくれていた。

声でもなく、手でもなく。
私自身が、仕事で何をしていたのかを。

「それも、手相でわかったんですか」

照れ隠しみたいに尋ねると、先生は静かに首を振った。

「いいえ。僕の目で見ました」

その声は、占い師のものではなかった。

言葉が途切れる。
空調の音だけが、小さく耳に残った。
先生は少しだけ困ったように笑う。

「……ほんまは、担当になってくれはった時、少し浮かれてました」
「浮かれて……?」
「はい」

今度は私が、先生の顔を見られなくなった。

「思っていた通りの方で、よかったなと」

その言い方があまりにやわらかくて、返す言葉を探しているうちに、胸の奥だけが先に温かくなった。