収録は、午後二時から始まった。
スタジオの隅に設けられた簡易ブースは、防音パネルで三方を囲まれている。
マイクの前に椅子を引き、水無瀬先生は原稿に一度だけ目を通した。
「では、本番前に一度通してみましょうか」
音響担当が、モニター越しに言う。
私は編集席でヘッドフォンを耳にかけ、レベルを確認した。
「先生、お願いします」
「はい」
先生が、原稿に視線を落とす。
「あなたの手の中には、まだ気づいていない恋の兆しがあります」
ヘッドフォンの中に、声が流れ込んできた。
低くて、落ち着いていて、それでいてどこかに引力のある声。
ラジオで聴いたら、絶対に手を止めてしまう類の。
画面越しなら、まだ耐えられたかもしれない。
けれど今は、ヘッドフォンの中だ。
私だけの耳に、直接注がれているみたいに聞こえる。
「その線は、今はまだ細くても、あなたが誰かに心を開いたとき、静かに、しかし確かに動き始めます」
やばい。
仕事にならない。
ヘッドフォンからの声が、耳元で囁かれているみたいで。
「感情線が乱れているのは、弱さではありません。それだけ、あなたが誰かを深く想える人だという証です」
原稿のチェックをしなければいけない。
テキストと読み上げが合っているか、間の取り方は不自然ではないか、確認する必要がある。
なのに、内容が頭に入ってこない。
声だけが、耳の奥に残っていく。
「どうぞ、その兆しを、恐れないでください」
最後の一文が終わり、静寂が戻った。
私はヘッドフォンを首に下げて、手元のチェックシートに視線を落とす。
何も書けていなかった。
本番は、三テイクで終わった。
先生は読みのクセがなく、修正もほとんど要らない。
むしろ二テイク目より三テイク目の方が、わずかに声が低くなって、音としての完成度が上がっていた。
マイクから少し離れながら私を見る。
「今の読み方、どうでした?」
「……良かったです」
「どのあたりが?」
答えながら、喉の奥で必死に言葉を探した。
構成として。
テンポとして。
原稿との相性として。
どこかを選ばなければいけない。
編集者として。
社会人として。
せめて、まともな単語を。
「声が」
言ってから、血の気が引いた。
「声?」
「いえ」
「いえ?」
「原稿との相性が。落ち着いたトーンが、内容と合っていました」
先生は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
ブースのランプは消えている。
収録も終わっている。
なのに、私はまだヘッドフォンを外せずにいた。
「……声、よすぎる」
本当に小さく、自分でも聞こえるかどうかくらいの音量で、言った。
「白石さん」
跳び上がりそうになった。
いつの間にブースを出たのか、先生がすぐ近くに立っていた。
原稿を手にしたまま、こちらをまっすぐに見ている。
「っ」
「今の、もう一度言うてもろてもええですか」
「何も言っていません」
「そうですか」
先生は、ゆっくりと原稿をテーブルに置いた。
「残念です。僕には、聞こえた気ぃしましたけど」
「空耳だと思います」
「空耳」
「はい」
「マイクのランプ、さっきから点いていますよ」
「うそっ!?」
慌てて見た。
点いていない。
「今は、点いてはりませんね」
先生が、口の端だけで笑う。
私は今まで一度も、先生がこういう顔をするのを見たことがなかった。
穏やかでも、静かでも、何もかも見透かすような顔でもない。
純粋に、楽しんでいる顔。
「……先生、意地が悪いです」
「すみません」
謝っているのに、声が少しも反省していない。
「でも、白石さんがあんまり素直やったので」
その声が、さっきより近い。
「では」
耳元に、低い声が落ちる。
「続きは、また今度」
何の続きなのか、聞いてはいけない気がした。
体温が一気に上がってしまう。
私は慌てて耳を押さえる。
見上げた先で、先生はやっぱり楽しそうに笑っていた。
その言葉の意味を考えないようにして、私は音響担当にデータの確認をお願いした。
スタジオの隅に設けられた簡易ブースは、防音パネルで三方を囲まれている。
マイクの前に椅子を引き、水無瀬先生は原稿に一度だけ目を通した。
「では、本番前に一度通してみましょうか」
音響担当が、モニター越しに言う。
私は編集席でヘッドフォンを耳にかけ、レベルを確認した。
「先生、お願いします」
「はい」
先生が、原稿に視線を落とす。
「あなたの手の中には、まだ気づいていない恋の兆しがあります」
ヘッドフォンの中に、声が流れ込んできた。
低くて、落ち着いていて、それでいてどこかに引力のある声。
ラジオで聴いたら、絶対に手を止めてしまう類の。
画面越しなら、まだ耐えられたかもしれない。
けれど今は、ヘッドフォンの中だ。
私だけの耳に、直接注がれているみたいに聞こえる。
「その線は、今はまだ細くても、あなたが誰かに心を開いたとき、静かに、しかし確かに動き始めます」
やばい。
仕事にならない。
ヘッドフォンからの声が、耳元で囁かれているみたいで。
「感情線が乱れているのは、弱さではありません。それだけ、あなたが誰かを深く想える人だという証です」
原稿のチェックをしなければいけない。
テキストと読み上げが合っているか、間の取り方は不自然ではないか、確認する必要がある。
なのに、内容が頭に入ってこない。
声だけが、耳の奥に残っていく。
「どうぞ、その兆しを、恐れないでください」
最後の一文が終わり、静寂が戻った。
私はヘッドフォンを首に下げて、手元のチェックシートに視線を落とす。
何も書けていなかった。
本番は、三テイクで終わった。
先生は読みのクセがなく、修正もほとんど要らない。
むしろ二テイク目より三テイク目の方が、わずかに声が低くなって、音としての完成度が上がっていた。
マイクから少し離れながら私を見る。
「今の読み方、どうでした?」
「……良かったです」
「どのあたりが?」
答えながら、喉の奥で必死に言葉を探した。
構成として。
テンポとして。
原稿との相性として。
どこかを選ばなければいけない。
編集者として。
社会人として。
せめて、まともな単語を。
「声が」
言ってから、血の気が引いた。
「声?」
「いえ」
「いえ?」
「原稿との相性が。落ち着いたトーンが、内容と合っていました」
先生は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
ブースのランプは消えている。
収録も終わっている。
なのに、私はまだヘッドフォンを外せずにいた。
「……声、よすぎる」
本当に小さく、自分でも聞こえるかどうかくらいの音量で、言った。
「白石さん」
跳び上がりそうになった。
いつの間にブースを出たのか、先生がすぐ近くに立っていた。
原稿を手にしたまま、こちらをまっすぐに見ている。
「っ」
「今の、もう一度言うてもろてもええですか」
「何も言っていません」
「そうですか」
先生は、ゆっくりと原稿をテーブルに置いた。
「残念です。僕には、聞こえた気ぃしましたけど」
「空耳だと思います」
「空耳」
「はい」
「マイクのランプ、さっきから点いていますよ」
「うそっ!?」
慌てて見た。
点いていない。
「今は、点いてはりませんね」
先生が、口の端だけで笑う。
私は今まで一度も、先生がこういう顔をするのを見たことがなかった。
穏やかでも、静かでも、何もかも見透かすような顔でもない。
純粋に、楽しんでいる顔。
「……先生、意地が悪いです」
「すみません」
謝っているのに、声が少しも反省していない。
「でも、白石さんがあんまり素直やったので」
その声が、さっきより近い。
「では」
耳元に、低い声が落ちる。
「続きは、また今度」
何の続きなのか、聞いてはいけない気がした。
体温が一気に上がってしまう。
私は慌てて耳を押さえる。
見上げた先で、先生はやっぱり楽しそうに笑っていた。
その言葉の意味を考えないようにして、私は音響担当にデータの確認をお願いした。



