「ほんま、素直でかわええな。もう離さへんよ」
左手は、彼の指に絡め取られている。
逃げられないように、けれど痛くはない力加減で。
そして、彼の右手は私の腰に回っていた。
何これ。
仕事中なのに。
相手は担当作家なのに。
しかも予約半年待ちの、人気手相占い師なのに。
なのに私は、彼の言葉の意味よりも、耳元に落ちる声と、絡められた指先にばかり全神経を奪われている。
手から伝わる熱も。
耳元に響く声も。
私を見つめる、甘くて逃げ道のない瞳も。
どれひとつとして、振りほどける気がしない。
そもそも、私が水無瀬律という人の新刊販促を担当することになったのは、一週間前のことだった。
「新刊の担当をさせていただくことになりました、白石舞です。よろしくお願いいたします」
差し出した名刺を、彼はすぐには受け取らなかった。
一瞬、私の名前を見る。
それから、私の顔。
最後に、名刺を持つ私の指先へ視線を落とす。
「……白石さん」
低い声で名前を呼ばれただけなのに、背筋が妙に伸びた。
「あの、先生?」
「いえ。失礼しました。水無瀬律です。こちらこそ、よろしくお願いします」
差し出された名刺を受け取る。
同時に、私の名刺も彼の手に渡った。
その時、ほんの少しだけ、指先が触れた。
たったそれだけなのに。
彼の指は、こちらが見てはいけないものみたいに綺麗だった。
「では、さっそくですが」
慌てて資料を開く。
仕事。
これは仕事だ。
相手は著者で、私は担当編集者。
しかも、発売直前の大切な新刊販促を任されたばかりだ。
初回打ち合わせで、妙な意識をしている場合ではない。
「今回の新刊ですが、読者層は二十代後半から三十代の女性を想定しています。恋愛に悩む方が、自分の気持ちを前向きに整理できるような、やわらかい実用書にできればと」
「恋愛手相、でしたね」
「はい。先生の鑑定の雰囲気を、そのまま本に落とし込めたらと思っています」
「では、白石さん」
「はい」
「少し、手を見せていただいても?」
顔を上げると、水無瀬先生は穏やかに微笑んでいた。
「実演を入れるなら、実際にどう見えるか共有しておいた方がいいでしょう」
もっともな提案だ。
編集者として断る理由はない。
なのに、私は一瞬だけ返事に詰まった。
「……私の、手ですか?」
「はい」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「大丈夫です。痛いことはしません」
そんなふうに言われると、余計に変な意識をしてしまう。
そういう問題ではない。
そう思いながらも、私はおずおずと右手を差し出した。
「失礼します」
彼の指先が、私の掌をそっと支える。
逃がさないように。
でも、決して強くはない力で。
「この生命線は……」
低く落ち着いた声と一緒に、綺麗な指先が私の掌をゆっくりとなぞった。
紙の上では、ただの線。
なのに、彼の指が触れた途端、そこだけ自分のものではないみたいに敏感になる。
「……っ」
くすぐったいのに、手を引けない。
先生がわずかに身を乗り出す。
吐息が耳元にかかりそうなほど、距離が近くなった。
「この生命線、綺麗に伸びていますね」
先生の指先が、私の掌の中央から手首へ向かって、ゆっくりと線を辿る。
「体力がある、というより……責任感で自分を動かす人です。多少無理をしても、周りを優先してしまう」
「そ、そうでしょうか」
「違いますか?」
低い声が、すぐ近くで笑う。
違う、と言いたかった。
けれど、思い当たることがありすぎて、言葉が出てこない。
先生の指先が、今度は掌の真ん中を横切る線へ移った。
「知能線は長めですね。考える力が強い。仕事ではかなり冷静に判断できる人です」
「それは……編集者なので」
「でも、冷静なふりが上手いだけかもしれません」
「え?」
「本当は、かなり揺れやすい」
綺麗な指先が、私の掌を軽く押さえる。
逃げないで、と言われているみたいな力加減だった。
「たとえば今も、平気な顔をしようとしている」
「……先生」
「すみません。職業病です」
謝っているはずなのに、声は少しも悪びれていない。
先生の指が、今度は小指の下から人差し指の方へ伸びる線に触れた。
「感情線は、少し乱れていますね」
「乱れているんですか」
「悪い意味ではありません。感情が豊かで、人の気持ちにも敏感。ただ、そのぶん自分の気持ちは後回しにしがちです」
指先が掌の線をなぞるたび、そこだけ熱を持つ。
「恋愛では、簡単には踏み込みません。好きになっても、まず理由を探すタイプです」
「理由?」
「仕事だから。相手は著者だから。今はそういう時期じゃないから」
息が止まった。
「そうやって、心が動いたことを別の言葉で片づけようとする」
「……それも、手相に出るんですか」
「半分は」
先生は、私の手を取ったまま、静かに目を伏せる。
それから、こちらを見た。
「半分は、顔に出ています」
そう言われて、手相ではなく私自身を覗き込まれた気がした。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
困るくらい、恥ずかしいだけで。
左手は、彼の指に絡め取られている。
逃げられないように、けれど痛くはない力加減で。
そして、彼の右手は私の腰に回っていた。
何これ。
仕事中なのに。
相手は担当作家なのに。
しかも予約半年待ちの、人気手相占い師なのに。
なのに私は、彼の言葉の意味よりも、耳元に落ちる声と、絡められた指先にばかり全神経を奪われている。
手から伝わる熱も。
耳元に響く声も。
私を見つめる、甘くて逃げ道のない瞳も。
どれひとつとして、振りほどける気がしない。
そもそも、私が水無瀬律という人の新刊販促を担当することになったのは、一週間前のことだった。
「新刊の担当をさせていただくことになりました、白石舞です。よろしくお願いいたします」
差し出した名刺を、彼はすぐには受け取らなかった。
一瞬、私の名前を見る。
それから、私の顔。
最後に、名刺を持つ私の指先へ視線を落とす。
「……白石さん」
低い声で名前を呼ばれただけなのに、背筋が妙に伸びた。
「あの、先生?」
「いえ。失礼しました。水無瀬律です。こちらこそ、よろしくお願いします」
差し出された名刺を受け取る。
同時に、私の名刺も彼の手に渡った。
その時、ほんの少しだけ、指先が触れた。
たったそれだけなのに。
彼の指は、こちらが見てはいけないものみたいに綺麗だった。
「では、さっそくですが」
慌てて資料を開く。
仕事。
これは仕事だ。
相手は著者で、私は担当編集者。
しかも、発売直前の大切な新刊販促を任されたばかりだ。
初回打ち合わせで、妙な意識をしている場合ではない。
「今回の新刊ですが、読者層は二十代後半から三十代の女性を想定しています。恋愛に悩む方が、自分の気持ちを前向きに整理できるような、やわらかい実用書にできればと」
「恋愛手相、でしたね」
「はい。先生の鑑定の雰囲気を、そのまま本に落とし込めたらと思っています」
「では、白石さん」
「はい」
「少し、手を見せていただいても?」
顔を上げると、水無瀬先生は穏やかに微笑んでいた。
「実演を入れるなら、実際にどう見えるか共有しておいた方がいいでしょう」
もっともな提案だ。
編集者として断る理由はない。
なのに、私は一瞬だけ返事に詰まった。
「……私の、手ですか?」
「はい」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「大丈夫です。痛いことはしません」
そんなふうに言われると、余計に変な意識をしてしまう。
そういう問題ではない。
そう思いながらも、私はおずおずと右手を差し出した。
「失礼します」
彼の指先が、私の掌をそっと支える。
逃がさないように。
でも、決して強くはない力で。
「この生命線は……」
低く落ち着いた声と一緒に、綺麗な指先が私の掌をゆっくりとなぞった。
紙の上では、ただの線。
なのに、彼の指が触れた途端、そこだけ自分のものではないみたいに敏感になる。
「……っ」
くすぐったいのに、手を引けない。
先生がわずかに身を乗り出す。
吐息が耳元にかかりそうなほど、距離が近くなった。
「この生命線、綺麗に伸びていますね」
先生の指先が、私の掌の中央から手首へ向かって、ゆっくりと線を辿る。
「体力がある、というより……責任感で自分を動かす人です。多少無理をしても、周りを優先してしまう」
「そ、そうでしょうか」
「違いますか?」
低い声が、すぐ近くで笑う。
違う、と言いたかった。
けれど、思い当たることがありすぎて、言葉が出てこない。
先生の指先が、今度は掌の真ん中を横切る線へ移った。
「知能線は長めですね。考える力が強い。仕事ではかなり冷静に判断できる人です」
「それは……編集者なので」
「でも、冷静なふりが上手いだけかもしれません」
「え?」
「本当は、かなり揺れやすい」
綺麗な指先が、私の掌を軽く押さえる。
逃げないで、と言われているみたいな力加減だった。
「たとえば今も、平気な顔をしようとしている」
「……先生」
「すみません。職業病です」
謝っているはずなのに、声は少しも悪びれていない。
先生の指が、今度は小指の下から人差し指の方へ伸びる線に触れた。
「感情線は、少し乱れていますね」
「乱れているんですか」
「悪い意味ではありません。感情が豊かで、人の気持ちにも敏感。ただ、そのぶん自分の気持ちは後回しにしがちです」
指先が掌の線をなぞるたび、そこだけ熱を持つ。
「恋愛では、簡単には踏み込みません。好きになっても、まず理由を探すタイプです」
「理由?」
「仕事だから。相手は著者だから。今はそういう時期じゃないから」
息が止まった。
「そうやって、心が動いたことを別の言葉で片づけようとする」
「……それも、手相に出るんですか」
「半分は」
先生は、私の手を取ったまま、静かに目を伏せる。
それから、こちらを見た。
「半分は、顔に出ています」
そう言われて、手相ではなく私自身を覗き込まれた気がした。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
困るくらい、恥ずかしいだけで。



