――その後。
警察は形式的な調査を行った。
けれど。
誰も深くは追わなかった。
花嫁は、《《事故死》》として記録されたらしい。
遺体もない。
真実もない。
ただ、
霧の日に花嫁が消えた。
それだけが、
横浜の港に残った。
横浜とは、
そういう街だ。
人が消える。
名前ごと、
人生ごと。
けれど誰も、
あえて深くは探さない。
夕方。
港には、
大きな客船の灯りがともっていた。
朝の霧が嘘みたいに晴れて、
海は穏やかだった。
水面には、
夕日がきらきら揺れている。
私は小田切さんと並んで、
桟橋の端に立っていた。
ふたりで、
静かに海を見つめる。
「花嫁は今頃、どこで何をしているだろうね」
小田切さんが、
ぽつりと言った。
私は少し考える。
「きっと――」
海の向こうを見る。
「好きな人と、新しい町へ向かっていると思います」
小さく笑った。
「名前も変えて」
「知らない誰かになって」
「それでも……幸せに暮らしている気がします」
その時だった。
波間に、
白いものが揺れた。
「あ」
思わず声が漏れる。
「小田切さん、あれ……!」
彼が目を細めた。
「待ってて」
近くに落ちていた棒を拾うと、
身を乗り出す。
私は思わず袖を掴んだ。
「危ないです!」
「心配してくれるの?」
振り返る横顔が、
少しだけ笑っている。
「します!」
思わず言ってしまう。
「相棒なんですから!」
一瞬。
小田切さんが止まった。
そして、
少しだけ嬉しそうに笑う。
「……相棒か」
低い声。
「悪くない」
ぽたり。
水を落としながら、
白いものを掬い上げる。
私はそっと受け取った。
濡れた布。
真珠の留め具。
そして――。
「……!」
私は目を見開く。
これ。
私が縫った、
もう片方の手袋。
波に揺られて、
今頃になって戻ってきた。
私は、
そっと撫でた。
まるで。
花嫁が残した、
最後のお手紙みたいだった。
汽笛が鳴る。
遠くで、
人力車の鈴が揺れる音。
横浜は今日も、
何事もなかったように息をしている。
「この手袋は警察に届けよう」
小田切さんが言った。
「海難事故の証拠になる」
私は少しだけ考えて、
静かに首を振る。
「……いいえ」
夕日に透ける白い手袋を見る。
「これはきっと」
一呼吸。
「旅立ちの証です」
花嫁の行方は、
結局わからないまま。
でも――。
これだけは言える。
絶対に、
幸せに暮らしている。
だって。
私がドレスを縫った花嫁は、
みんな幸せになるはずだから。
きっといつか。
遠い未来。
名前を変えた花嫁が、
ふらりと横浜へ戻ってくる日がある。
そして、
こう言うのだ。
『あの時はありがとう』
そんな気がした。
私は手袋を胸に抱き、
歩き出す。
隣には、
小田切さん。
港の風が吹く。
そして――。
「朝霧さん」
「はい?」
振り向く。
すると。
小田切さんが、
少しだけ照れた顔をしていた。
「次の事件も、一緒に来てくれる?」
……また。
そんなこと言う。
心臓に悪い。
でも。
少しだけ、
嬉しい。
「危ないところじゃなければ」
そっぽを向いて答えると、
くすっと笑う声がした。
「それは約束できないな」
夕焼けの港に、
笑い声が溶けていく。
――横浜には、
今日も秘密がある。
霧の向こうに。
そして、
もしかしたら。
私の隣にも。
まだ名前のつかない、
小さな恋があるのかもしれない。
警察は形式的な調査を行った。
けれど。
誰も深くは追わなかった。
花嫁は、《《事故死》》として記録されたらしい。
遺体もない。
真実もない。
ただ、
霧の日に花嫁が消えた。
それだけが、
横浜の港に残った。
横浜とは、
そういう街だ。
人が消える。
名前ごと、
人生ごと。
けれど誰も、
あえて深くは探さない。
夕方。
港には、
大きな客船の灯りがともっていた。
朝の霧が嘘みたいに晴れて、
海は穏やかだった。
水面には、
夕日がきらきら揺れている。
私は小田切さんと並んで、
桟橋の端に立っていた。
ふたりで、
静かに海を見つめる。
「花嫁は今頃、どこで何をしているだろうね」
小田切さんが、
ぽつりと言った。
私は少し考える。
「きっと――」
海の向こうを見る。
「好きな人と、新しい町へ向かっていると思います」
小さく笑った。
「名前も変えて」
「知らない誰かになって」
「それでも……幸せに暮らしている気がします」
その時だった。
波間に、
白いものが揺れた。
「あ」
思わず声が漏れる。
「小田切さん、あれ……!」
彼が目を細めた。
「待ってて」
近くに落ちていた棒を拾うと、
身を乗り出す。
私は思わず袖を掴んだ。
「危ないです!」
「心配してくれるの?」
振り返る横顔が、
少しだけ笑っている。
「します!」
思わず言ってしまう。
「相棒なんですから!」
一瞬。
小田切さんが止まった。
そして、
少しだけ嬉しそうに笑う。
「……相棒か」
低い声。
「悪くない」
ぽたり。
水を落としながら、
白いものを掬い上げる。
私はそっと受け取った。
濡れた布。
真珠の留め具。
そして――。
「……!」
私は目を見開く。
これ。
私が縫った、
もう片方の手袋。
波に揺られて、
今頃になって戻ってきた。
私は、
そっと撫でた。
まるで。
花嫁が残した、
最後のお手紙みたいだった。
汽笛が鳴る。
遠くで、
人力車の鈴が揺れる音。
横浜は今日も、
何事もなかったように息をしている。
「この手袋は警察に届けよう」
小田切さんが言った。
「海難事故の証拠になる」
私は少しだけ考えて、
静かに首を振る。
「……いいえ」
夕日に透ける白い手袋を見る。
「これはきっと」
一呼吸。
「旅立ちの証です」
花嫁の行方は、
結局わからないまま。
でも――。
これだけは言える。
絶対に、
幸せに暮らしている。
だって。
私がドレスを縫った花嫁は、
みんな幸せになるはずだから。
きっといつか。
遠い未来。
名前を変えた花嫁が、
ふらりと横浜へ戻ってくる日がある。
そして、
こう言うのだ。
『あの時はありがとう』
そんな気がした。
私は手袋を胸に抱き、
歩き出す。
隣には、
小田切さん。
港の風が吹く。
そして――。
「朝霧さん」
「はい?」
振り向く。
すると。
小田切さんが、
少しだけ照れた顔をしていた。
「次の事件も、一緒に来てくれる?」
……また。
そんなこと言う。
心臓に悪い。
でも。
少しだけ、
嬉しい。
「危ないところじゃなければ」
そっぽを向いて答えると、
くすっと笑う声がした。
「それは約束できないな」
夕焼けの港に、
笑い声が溶けていく。
――横浜には、
今日も秘密がある。
霧の向こうに。
そして、
もしかしたら。
私の隣にも。
まだ名前のつかない、
小さな恋があるのかもしれない。


