大正ハイカラ娘・朝霧すみれと新聞記者小田切レン~消えた花嫁の謎を解く~

 小田切さんの目が、
 すっと細くなる。

「あなたが殺した?」

 低い声。

「保険金をかけて」

 風が吹いた。

 黒いドレスの裾が、
 かすかに揺れる。

 女は――。

 しばらく、
 何も言わなかった。

 ただ。

 遠くの海を見つめている。

 霧はもう、
 ほとんど晴れかけていた。

 やがて。

 彼女が、ぽつりと言った。

「妹は――生きています」

 私は息を呑んだ。

 小田切さんも、
 一瞬言葉を失う。

「え?」

 思わず声が出た。

「もう、別の名前で」

 静かな声。

「別の町で、生きています」

 風が吹く。

 港の匂いがした。

 私は小田切さんと顔を見合わせた。

 彼の目が、
 少しだけ大きくなる。

 まるで、
 予想外だったみたいに。

「どういうことです?」

 小田切さんが聞く。

 女は、
 黒い手袋をぎゅっと握った。

 そして。

 ゆっくり語り始める。

「妹には……好きな人がいました」

 低く、
 震える声。

「けれど、家は許さなかった」

 視線を落とす。

「財閥との縁談でしたから」

 胸が、少し痛くなる。

 ああ。

 そういうこと。

 結婚したい人と、
 結婚できない。

 大正の女の人には、
 よくある話なのかもしれない。

「妹は言いました」

 女の目が潤む。

『あの人と結婚できないなら、死んだ方がまし』

 私は、
 思わず息を止めた。

 そんなに。

 そんなに好きだったんだ。

「……だから」

 女は、
 唇を震わせた。

「私は、生きてほしかった」

 静かな声。

「名前を捨ててもいい」

「家を捨ててもいい」

「全部捨ててもいいから――」

 涙をこらえるように、
 空を見る。

「生きていてほしかったんです」

 胸が、
 ぎゅっと苦しくなる。

 小田切さんも、
 何も言わない。

 ただ、
 静かに聞いていた。

「だから、提案しました」

 女は続ける。

「《港の白い女》になりましょう、と」

 風が止まる。

 私は黙って耳を傾けた。

「妹が私にドレスを着せました」

「裾を持ってくれました」

「だから、あのドレスは汚れていなかったのです」

 ――あ。

 私は、
 はっとする。

 裾。

 あの違和感。

 全部つながった。

「妹は黒い旅行着を着ていました」

「霧に紛れるために」

 低い声。

「桟橋まで一緒に歩きました」

 女の肩が震える。

「そして」

 ゆっくり。

 苦しそうに言う。

「妹にドレスを脱がせてもらいました」

「薄手のワンピースになって」

「ふたりで、抱き合いました」

 涙声だった。

「……幸せになってねって」

 私は胸が苦しくなる。

 切ない。

 あまりにも。

「それから妹は――」

 女が空を見る。

「誰と、どこへ行ったのか」

 一拍。

「私も知りません」

 しん、と静まる。

 波音だけが聞こえる。

 私は、
 そっとポケットから白い手袋を出した。

「これを……」

 女が顔を上げる。

 震える指で受け取った。

 そして。

 ぎゅっと胸に抱く。

 まるで。

 妹そのものみたいに。

「……ありがとうございます」

 小さな声。

 深く頭を下げた。

 そして。

 女は歩き出す。

 霧の名残の中へ。

 黒いドレスの背中が、
 少しずつ遠ざかっていく。

 ――もう、
 二度と会えない気がした。

 振り返らない。

 ただ前だけを向いている。

 それが、
 なぜだか泣きたくなるほど綺麗だった。

「……行かせるのかい?」

 隣で小田切さんが言う。

 私は静かにうなずく。

「ええ」

 一呼吸。

「だって――」

 胸が痛む。

「花嫁は、生きているんですもの」

 その言葉に、
 小田切さんが少し笑った。

「君は甘いな」

「そうでしょうか」

「でも」

 彼が、
 少しだけ優しい目をする。

「嫌いじゃない」

 …………。

 また。

 急にそういうこと言う。

 ずるい。

 港には、
 大きな汽笛が響いた。

 まるで。

 誰かの旅立ちを祝うみたいに――。