小田切さんは、ふっと笑った。
そして部屋へ戻ると、
奥さまと使用人たちに向き直った。
壁に立てかけてあったステッキをひょいと持ち上げる。
次の瞬間――。
くるり。
鮮やかに回した。
「そこにいるのは悪霊か?」
低い声。
「やあっ!」
見えない敵を、
すぱっと斬り払う。
それはもう、
驚くほど見事な動きだった。
「おお……!」
使用人たちが思わず声を上げる。
奥さまですら、
一瞬涙を止めて見入っていた。
……すご。
この人、
何者なの?
しかも、ちょっと格好いい。
いや、かなり格好いい。
悔しい。
「悪霊は成敗しました」
小田切さんは、
まるで舞台俳優みたいに一礼した。
「皆さま、お嬢様がご心配なのはわかります」
静かな声。
けれど、不思議と安心する響きがある。
「ですが、ここは私たちに任せてください」
私たち。
……私たち?
その言葉に、
なぜか少し胸が跳ねた。
「奥様はお部屋でお休みください」
「皆さんは仕事へ戻ってください。何かわかり次第、必ずお知らせします」
なんという説得力。
なにも解決していないのに。
なのに――。
みんな、納得してしまった。
小さなため息をつきながら、
それぞれの持ち場へ戻っていく。
部屋から誰もいなくなると、
小田切さんは若いメイドを花嫁の椅子へ座らせた。
「さあ、怖がらなくていい」
少しかがみ、
目線を合わせる。
「知っていることを全部話してくれたまえ」
……優しい。
こういう時、
この人ずるい。
若いメイドは唇を噛み、
迷っているようだった。
私はそっと手を握る。
「秘密は守るわ」
安心させるように微笑んだ。
「話してちょうだい」
小田切さんも、
ゆっくりうなずく。
「勇気を出して、メイドさん」
優しい声。
「事件解決には君の協力が必要なんだ」
一拍置いて、
にっこり笑う。
「解決したら、ボクからプレゼントをあげよう」
メイドが瞬きをした。
「馬車道通りの洋菓子店のクッキーだ」
小田切さんが、
もったいぶるように言う。
「それはそれは、うまい」
……出た。
イケメンの懐柔作戦。
若い女の子が甘いもの好きなの、
わかってる。
ずるい。
そして、ちょっと悔しい。
「馬車道通りの……クッキー」
メイドの目が、
ほんの少しだけ輝いた。
「いただいたことありませんわ……」
そして、小さくうなずく。
「……わたくし、がんばります」
私と小田切さんは、
同時にほっと息をついた。
メイドは私たちを見て、
震える声で話し始める。
「……あ、あたし、見たんです」
ごくり。
空気が変わる。
「昨夜――霧の中で」
私は息を呑んだ。
「夜中の十二時頃、
ある人と会う約束をしていました」
顔を赤くする。
「誰にも内緒です……あたし、その人が好きなんです」
私は小田切さんと顔を見合わせた。
……青春。
いや、今そこ?
でも、ちょっと可愛い。
「いつものように門のところで待っていました」
メイドの肩が震える。
「その時です」
声が、かすれた。
「白いドレスの女の人が、
目の前を通って行ったんです」
しん――。
空気が静まる。
「そう、あちらへ」
彼女が指差した先。
窓の向こう。
霧の奥。
「……あちらへ行くと、桟橋へ続くんです」
小田切さんが、
静かに私を見る。
「海へ向かって?」
「……ええ」
メイドは震えながら言った。
「あたし、すぐに思いました」
一瞬、
言うのをためらう。
「横浜で噂の――《港の白い女》だって」
小田切さんが反応する。
「霧の夜に現れるという、
海の精霊の話だね」
メイドは何度もうなずく。
「行き場のない女を、
海の底へ連れて行くって……」
私は思わず腕をさすった。
霧のせい?
少し寒い。
「怖くなったんです」
メイドはぎゅっとエプロンを握る。
「あたしも白い服だったから」
「え?」
「昨夜、好きな人と会うために、白っぽいワンピースを着てたんです」
小田切さんが、
手帳に素早くメモする。
「だから――」
メイドは震えながら言った。
「海の精霊さん、あたしには行き場があるんですって」
一生懸命、
両手を握る。
「何度も、何度も言いました」
なんだか、
切なくなった。
好きな人がいる。
だから、
まだ海へは行けない。
そんな願い。
「それで?」
小田切さんが静かに聞く。
「お嬢様だとは思わなかったのかい?」
「思いませんでした!」
メイドは首を振る。
「だってお嬢様には、これからお嫁入りという素晴らしい行き場がありますもの!」
その言葉に、
私は胸が痛くなった。
行き場。
誰にでも、
あるとは限らない。
「その後、約束を破って屋敷へ戻りました」
メイドは続けた。
「お嬢様のお部屋には灯りがついていました」
「つけっぱなしで寝ておられるのだと思ったんです」
「時々、そういうことがありましたから」
小田切さんが、
静かに手帳を閉じた。
そして、ぽつりと言う。
「港町には昔から伝説がある」
低い声。
「《港の白い女》――」
霧の日に現れる、
白い女。
「行き場のない女を、
海の精霊が連れて行く」
そして。
「白い衣類だけが、
桟橋に残される」
――はっ。
私は顔を上げた。
「……桟橋を見に行きましょう」
自分でも驚くほど、
声が落ち着いていた。
「小田切さん」
彼がこちらを見る。
そして。
ふっと笑った。
「やっぱり、君は勇敢だな」
低い声。
「でも――」
一歩近づく。
「危険だから、絶対にボクから離れないで」
……っ。
近い。
顔が近い。
心臓に悪い。
「わ、わかっています!」
思わず早口になる。
小田切さんが、
少しだけ楽しそうに笑った。
霧の中。
私たちは並んで歩き出した。
桟橋へ向かって。
そこに、
本当に《港の白い女》が残したものがあるとも知らずに――。
そして部屋へ戻ると、
奥さまと使用人たちに向き直った。
壁に立てかけてあったステッキをひょいと持ち上げる。
次の瞬間――。
くるり。
鮮やかに回した。
「そこにいるのは悪霊か?」
低い声。
「やあっ!」
見えない敵を、
すぱっと斬り払う。
それはもう、
驚くほど見事な動きだった。
「おお……!」
使用人たちが思わず声を上げる。
奥さまですら、
一瞬涙を止めて見入っていた。
……すご。
この人、
何者なの?
しかも、ちょっと格好いい。
いや、かなり格好いい。
悔しい。
「悪霊は成敗しました」
小田切さんは、
まるで舞台俳優みたいに一礼した。
「皆さま、お嬢様がご心配なのはわかります」
静かな声。
けれど、不思議と安心する響きがある。
「ですが、ここは私たちに任せてください」
私たち。
……私たち?
その言葉に、
なぜか少し胸が跳ねた。
「奥様はお部屋でお休みください」
「皆さんは仕事へ戻ってください。何かわかり次第、必ずお知らせします」
なんという説得力。
なにも解決していないのに。
なのに――。
みんな、納得してしまった。
小さなため息をつきながら、
それぞれの持ち場へ戻っていく。
部屋から誰もいなくなると、
小田切さんは若いメイドを花嫁の椅子へ座らせた。
「さあ、怖がらなくていい」
少しかがみ、
目線を合わせる。
「知っていることを全部話してくれたまえ」
……優しい。
こういう時、
この人ずるい。
若いメイドは唇を噛み、
迷っているようだった。
私はそっと手を握る。
「秘密は守るわ」
安心させるように微笑んだ。
「話してちょうだい」
小田切さんも、
ゆっくりうなずく。
「勇気を出して、メイドさん」
優しい声。
「事件解決には君の協力が必要なんだ」
一拍置いて、
にっこり笑う。
「解決したら、ボクからプレゼントをあげよう」
メイドが瞬きをした。
「馬車道通りの洋菓子店のクッキーだ」
小田切さんが、
もったいぶるように言う。
「それはそれは、うまい」
……出た。
イケメンの懐柔作戦。
若い女の子が甘いもの好きなの、
わかってる。
ずるい。
そして、ちょっと悔しい。
「馬車道通りの……クッキー」
メイドの目が、
ほんの少しだけ輝いた。
「いただいたことありませんわ……」
そして、小さくうなずく。
「……わたくし、がんばります」
私と小田切さんは、
同時にほっと息をついた。
メイドは私たちを見て、
震える声で話し始める。
「……あ、あたし、見たんです」
ごくり。
空気が変わる。
「昨夜――霧の中で」
私は息を呑んだ。
「夜中の十二時頃、
ある人と会う約束をしていました」
顔を赤くする。
「誰にも内緒です……あたし、その人が好きなんです」
私は小田切さんと顔を見合わせた。
……青春。
いや、今そこ?
でも、ちょっと可愛い。
「いつものように門のところで待っていました」
メイドの肩が震える。
「その時です」
声が、かすれた。
「白いドレスの女の人が、
目の前を通って行ったんです」
しん――。
空気が静まる。
「そう、あちらへ」
彼女が指差した先。
窓の向こう。
霧の奥。
「……あちらへ行くと、桟橋へ続くんです」
小田切さんが、
静かに私を見る。
「海へ向かって?」
「……ええ」
メイドは震えながら言った。
「あたし、すぐに思いました」
一瞬、
言うのをためらう。
「横浜で噂の――《港の白い女》だって」
小田切さんが反応する。
「霧の夜に現れるという、
海の精霊の話だね」
メイドは何度もうなずく。
「行き場のない女を、
海の底へ連れて行くって……」
私は思わず腕をさすった。
霧のせい?
少し寒い。
「怖くなったんです」
メイドはぎゅっとエプロンを握る。
「あたしも白い服だったから」
「え?」
「昨夜、好きな人と会うために、白っぽいワンピースを着てたんです」
小田切さんが、
手帳に素早くメモする。
「だから――」
メイドは震えながら言った。
「海の精霊さん、あたしには行き場があるんですって」
一生懸命、
両手を握る。
「何度も、何度も言いました」
なんだか、
切なくなった。
好きな人がいる。
だから、
まだ海へは行けない。
そんな願い。
「それで?」
小田切さんが静かに聞く。
「お嬢様だとは思わなかったのかい?」
「思いませんでした!」
メイドは首を振る。
「だってお嬢様には、これからお嫁入りという素晴らしい行き場がありますもの!」
その言葉に、
私は胸が痛くなった。
行き場。
誰にでも、
あるとは限らない。
「その後、約束を破って屋敷へ戻りました」
メイドは続けた。
「お嬢様のお部屋には灯りがついていました」
「つけっぱなしで寝ておられるのだと思ったんです」
「時々、そういうことがありましたから」
小田切さんが、
静かに手帳を閉じた。
そして、ぽつりと言う。
「港町には昔から伝説がある」
低い声。
「《港の白い女》――」
霧の日に現れる、
白い女。
「行き場のない女を、
海の精霊が連れて行く」
そして。
「白い衣類だけが、
桟橋に残される」
――はっ。
私は顔を上げた。
「……桟橋を見に行きましょう」
自分でも驚くほど、
声が落ち着いていた。
「小田切さん」
彼がこちらを見る。
そして。
ふっと笑った。
「やっぱり、君は勇敢だな」
低い声。
「でも――」
一歩近づく。
「危険だから、絶対にボクから離れないで」
……っ。
近い。
顔が近い。
心臓に悪い。
「わ、わかっています!」
思わず早口になる。
小田切さんが、
少しだけ楽しそうに笑った。
霧の中。
私たちは並んで歩き出した。
桟橋へ向かって。
そこに、
本当に《港の白い女》が残したものがあるとも知らずに――。


