自転車で保育園から書店へと向かう。この通勤時間が私のひとりの時間だ。
大抵は萌の事を考えるように努めているけれど、さっきのように彰良さんのことを自然と考えてしまう。
四月は入学シーズンなので、児童書の絵本のプレゼントなんかも多い。『ニコチャンマン』の人気は今でも飛びぬけている。シマリス出版の大きな柱になっているのは否めない。
彰良さんはグッズ展開やイベントで今日も忙しくしていることだろう。
……ダメだ、彰良さんの事ばかり考えてしまう。夜なんか今以上に思い出して会いたくなる。
じっくり今日あったことを話したり、萌がああだった、こうだったと報告したり。思い浮かべる彰良さんはいつもにこにこして私の話を聞いてくれる。
顔を鮮明に思い出し
「深雪」
と名を呼ぶのを想像するだけで胸の内がぎゅっと締め付けられる。
もうこんなふうに思い出しちゃいけないのに。
もう会えない人なのに。
私は気持ちを書店の売り場のことに切り替えて駐車場に自転車を停めた。
「萌ちゃん、保育園に慣れてきたんやない」
書店の同僚で休憩時間が同じタイミングになる矢代さんがお弁当を広げながら言った。
「そうですね。思ってた以上に順応性あったみたいです」
「そうなんよね。意外とあっさり保育園に馴染んでいくんよね、これが。お母さんとしてはちょっと寂しくない?」
「そうなんです。こないだまで保育園に行く行かないでぐずってたのが嘘みたいで」
ははは、そうなんやねーと快活に笑う矢代さんのお子さんはもう中学生。仕事だけでなく育児の先輩でもあるのでよく萌の話を聞いてもらう。
隠すこともできないので私がシングルマザーであることは既に伝えてある。
朝作ったお弁当を食べながら萌が残さず食べてくれるといいな、と思う。
「おっ、そのネギ入りの卵焼き、うちの夫も好きやったとよ」
矢代さんが私のお弁当の中身を見てそう言った。
「そうなんですか。これうちの娘も結構好きで」
「ふうん。思い出したら食べたくなってくるねえ」
あ、よかったら、と矢代さんの弁当箱のフタにネギ入り卵焼きを乗せてあげる。
「ありがとう。御礼に豚肉のシソ巻きあげるわ」
そう言って物々交換が成立した。矢代さんはすぐに卵焼きを食べる。
「ああ、ちょうどいい味やん。これやったら夫も喜ぶな。多分、今頃『なんでお前ばっかし』って天国で腹かいてるよ」
そうなのだ。矢代さんもまたシングルマザーなのだ。矢代さんは十年前に旦那様を病気で亡くしている。
だけど旦那様の話は休憩時間の間、何度でも出てくる。まるで今も生きてるみたいに。
「あの......矢代さん、ちょっと聞いてみてもいいですか」
「うん?」
さっぱりしたショートカットで金髪に近い明るい髪の毛に小さな顔。優しい目でどうしたの、と私を見る。
「矢代さんよく亡くなった旦那様の事を話されるから......ごめんなさい、不躾なこと言って。でも未だに思い出すのってつらくないのかな、って思って......」
「そうやね。私も夫が亡くなったばっかりのころは無理やり忘れようとしてたとよ。でもある日、気づいたと。私の中のあの人への思いは変わらん。忘れよう、思い出しちゃだめだ、って思うからつらいとよ。もちろん、思い出しすぎて泣いてしまう夜もあったけどね。でも自分の気持ちを否定するより肯定する方がラクだし楽しい......そう気づいてからはもうバンバン思い出すようにしてる。天国で夫もうるさがってるかもしれんね」
ははは、と矢代さんは明るく笑う。
「忘れずに思っていても、いいんでしょうか。もう会えないのに」
うーん、と矢代さんは水稲のお茶を飲んだ。
「山本さんのところは嫌いで別れたんじゃないって言ってたよね。なんか訳アリで別れたんやったろ。そしたら今さら無理に嫌いになることもできんけん...そうやね、思い出してもいいっちゃない。誰かを好きって気持ちはきっと大切にしてあげる方がいいとよ。自分に優しくできるし、他人にも優しい気持ちになれる。あ、でも思ってたらいつか会える、なんて言うつもりはないけん。その線引きは自分でちゃんとしてね。ただ好きでいることはきっと山本さんをほっこりさせてくれるよ。大事な気持ち、いつでも胸の中の引き出しから出せるようにしとこう......ってごめん、語ってしもたね」
私は首を振った。
「いえ。すごく有難かったです。主人のことを忘れようって無理してたので......そうですよね。ずっと好きでいてもいいんですよね。気持ちがラクになりました」
本当に胸の内がやわらかく温かいものであふれていた。
彰良さんのことをずっと好きでいい。無理に忘れなくていいんだ。
声には出さなかったけれど心の中でそう呟くと、気持ちの深いところまでその言葉が響いた。
もう一個卵焼き食べますか?と矢代さんに言ったら
「いいよ、いいよ。山本さんの分が無くなるやん」
「あっそうか」
この人と出会えてよかった、と思いながらふたりで笑った。
朝の情報番組なんてバタバタしているときのBGMだ。だから深刻な問題だな、と頭の隅で考えていても、実際に萌の保育園に行く準備の手を止めたりはしない。
ところが、今朝はそうじゃなかった。
お弁当を作り終えて朝ごはんのサラダを作っている時だった。
耳がアナウンサーの言う『シマリス』という言葉を捉えてはっとした。
テレビの画面を見ると男性が車で警察に連行されているのが映っていた。
『大手児童書出版社 シマリス出版の副社長 大麻不法所持のため逮捕』
テロップを読んでテレビの画面に近付く。逮捕されたのは彰良さんの従弟だ。確か彰良さんが『無理な仕事のやり方をするからうまくいく企画もダメになったりする』と言って困っていた人だ。
仕事で相性の合わない人というのはいるものだから、仕方ないんだろうな、とその話を聞きながら思ったものだけれど。
今回の事件は相性どころではない。
大手の、子どもや母親から絶大な信頼を寄せられているシマリス出版だからこその大事件だ。
テレビの中のコメンテーター達が言う。
「シマリスって幼児向けの絵本とかで稼いでる出版社でしょ。どうなんでしょうね。こんなダークな事件が起こっちゃって」
「やばいんじゃないですか。子供の親ってこういうことに敏感ですよね。非買運動とか起こるんじゃないですか」
「あ、『ニコチャンマン』って誰もが知ってる絵本があるでしょ。その作家さんが週刊誌の質問に答えてますね。えーっと....『ニコチャンマン』の作家の岡崎まさこさんによると『こんなことがあるなんて信じられないです。さすがに動揺しています』記者が『それではもうシマリスで書かない、なんて事もあるんじゃないですか』『それはなんとも言えません。ただシマリスに残念な気持ちがあるのは確かです』......と、こう言ってますね。僕はあると思いますよ。岡崎さんのシマリス離れ。子ども向けの本ですもん、やっぱりクリーンなところで書きたいですよね」
コメンテーターのやりとりはまだまだ続きそうだった。
喉がからからに渇いていた。彰良さんが大事にしていた『ニコチャンマン』がシマリスから離れるかもしれない。そんなこと、あっていいはずがない。
ニュース画面には出て来なかったけれど、彰良さんはきっと心を痛めているはず。あんなに手塩をかけて育ててきた『ニコチャンマン』なのだ。もうシマリスでは書かない、新刊は出ない、なんてことが起きたら彰良さんは地の底を這うような痛手を負うに違いない。何よりも彰良さんの心が悲しみで満たされているような気がして仕方がない。
なにか、解決策はないのだろうか。
せめて『ニコチャンマン』の作者の岡崎さんがシマリスから離れるなんてことがなかったらいいのに。
「ママ、お洋服着せて」
パジャマ姿の萌がテレビの前で棒立ちになっている私に言った。
「あ...ああ、ごめんね」
パジャマから園の制服に着替えさせていると沙雪も起きてきた。
「深雪、これって藤堂さんやばいんじゃない?」
「うん」
萌の着替えを終わらせて途中だったサラダ作りに戻る。
野菜を刻みながら考える。何か私にできること。私にしかできないこと。なにか、なにかないだろうか。
トマトのスライスを切ったところでひとつのひらめきがあった。できるだろうかそんなこと。でも、私にできることと言ったらそれくらいしかない。
ブロッコリーを添えてサラダができあがると私はテレビを今も見ている沙雪に言った。
「もうすぐでしょ。沙雪の東京でのCMのオーディション。私も萌連れて東京に行く。チケット取れるかな」
「それならミドリさんの得意分野だから大丈夫と思うけど......深雪が行くのはなんで?まさかシマリスにどうこうしようって思ってんの」
浅はかと思われてもいいと思い、私はぐっと深く頷いた。
「無理だよ。深雪に何ができんの。まさかと思うけど藤堂さんを励ましに行くとか言わないでしょうね」
「……結果的にはそうなる。『ニコチャンマン』の作者の岡崎さんにはツテがあるから会ってくる。絶対シマリスから離れないでくださいってお願いしてくる」
「お願いって、あんた、一介の書店員の言葉なんて聞いてくれるわけないじゃない」
「わかってる。でもそうしたいの。だって彰良さんが心底大切にしているものを失くすところを私、見たくない。ただでさえ私と萌えは身を隠して『彼が愛する権利』を奪っている。もう、これ以上、彰良さんがなにかを奪われるところを見たくないの!」
思わず声を荒げてしまった。
大抵は萌の事を考えるように努めているけれど、さっきのように彰良さんのことを自然と考えてしまう。
四月は入学シーズンなので、児童書の絵本のプレゼントなんかも多い。『ニコチャンマン』の人気は今でも飛びぬけている。シマリス出版の大きな柱になっているのは否めない。
彰良さんはグッズ展開やイベントで今日も忙しくしていることだろう。
……ダメだ、彰良さんの事ばかり考えてしまう。夜なんか今以上に思い出して会いたくなる。
じっくり今日あったことを話したり、萌がああだった、こうだったと報告したり。思い浮かべる彰良さんはいつもにこにこして私の話を聞いてくれる。
顔を鮮明に思い出し
「深雪」
と名を呼ぶのを想像するだけで胸の内がぎゅっと締め付けられる。
もうこんなふうに思い出しちゃいけないのに。
もう会えない人なのに。
私は気持ちを書店の売り場のことに切り替えて駐車場に自転車を停めた。
「萌ちゃん、保育園に慣れてきたんやない」
書店の同僚で休憩時間が同じタイミングになる矢代さんがお弁当を広げながら言った。
「そうですね。思ってた以上に順応性あったみたいです」
「そうなんよね。意外とあっさり保育園に馴染んでいくんよね、これが。お母さんとしてはちょっと寂しくない?」
「そうなんです。こないだまで保育園に行く行かないでぐずってたのが嘘みたいで」
ははは、そうなんやねーと快活に笑う矢代さんのお子さんはもう中学生。仕事だけでなく育児の先輩でもあるのでよく萌の話を聞いてもらう。
隠すこともできないので私がシングルマザーであることは既に伝えてある。
朝作ったお弁当を食べながら萌が残さず食べてくれるといいな、と思う。
「おっ、そのネギ入りの卵焼き、うちの夫も好きやったとよ」
矢代さんが私のお弁当の中身を見てそう言った。
「そうなんですか。これうちの娘も結構好きで」
「ふうん。思い出したら食べたくなってくるねえ」
あ、よかったら、と矢代さんの弁当箱のフタにネギ入り卵焼きを乗せてあげる。
「ありがとう。御礼に豚肉のシソ巻きあげるわ」
そう言って物々交換が成立した。矢代さんはすぐに卵焼きを食べる。
「ああ、ちょうどいい味やん。これやったら夫も喜ぶな。多分、今頃『なんでお前ばっかし』って天国で腹かいてるよ」
そうなのだ。矢代さんもまたシングルマザーなのだ。矢代さんは十年前に旦那様を病気で亡くしている。
だけど旦那様の話は休憩時間の間、何度でも出てくる。まるで今も生きてるみたいに。
「あの......矢代さん、ちょっと聞いてみてもいいですか」
「うん?」
さっぱりしたショートカットで金髪に近い明るい髪の毛に小さな顔。優しい目でどうしたの、と私を見る。
「矢代さんよく亡くなった旦那様の事を話されるから......ごめんなさい、不躾なこと言って。でも未だに思い出すのってつらくないのかな、って思って......」
「そうやね。私も夫が亡くなったばっかりのころは無理やり忘れようとしてたとよ。でもある日、気づいたと。私の中のあの人への思いは変わらん。忘れよう、思い出しちゃだめだ、って思うからつらいとよ。もちろん、思い出しすぎて泣いてしまう夜もあったけどね。でも自分の気持ちを否定するより肯定する方がラクだし楽しい......そう気づいてからはもうバンバン思い出すようにしてる。天国で夫もうるさがってるかもしれんね」
ははは、と矢代さんは明るく笑う。
「忘れずに思っていても、いいんでしょうか。もう会えないのに」
うーん、と矢代さんは水稲のお茶を飲んだ。
「山本さんのところは嫌いで別れたんじゃないって言ってたよね。なんか訳アリで別れたんやったろ。そしたら今さら無理に嫌いになることもできんけん...そうやね、思い出してもいいっちゃない。誰かを好きって気持ちはきっと大切にしてあげる方がいいとよ。自分に優しくできるし、他人にも優しい気持ちになれる。あ、でも思ってたらいつか会える、なんて言うつもりはないけん。その線引きは自分でちゃんとしてね。ただ好きでいることはきっと山本さんをほっこりさせてくれるよ。大事な気持ち、いつでも胸の中の引き出しから出せるようにしとこう......ってごめん、語ってしもたね」
私は首を振った。
「いえ。すごく有難かったです。主人のことを忘れようって無理してたので......そうですよね。ずっと好きでいてもいいんですよね。気持ちがラクになりました」
本当に胸の内がやわらかく温かいものであふれていた。
彰良さんのことをずっと好きでいい。無理に忘れなくていいんだ。
声には出さなかったけれど心の中でそう呟くと、気持ちの深いところまでその言葉が響いた。
もう一個卵焼き食べますか?と矢代さんに言ったら
「いいよ、いいよ。山本さんの分が無くなるやん」
「あっそうか」
この人と出会えてよかった、と思いながらふたりで笑った。
朝の情報番組なんてバタバタしているときのBGMだ。だから深刻な問題だな、と頭の隅で考えていても、実際に萌の保育園に行く準備の手を止めたりはしない。
ところが、今朝はそうじゃなかった。
お弁当を作り終えて朝ごはんのサラダを作っている時だった。
耳がアナウンサーの言う『シマリス』という言葉を捉えてはっとした。
テレビの画面を見ると男性が車で警察に連行されているのが映っていた。
『大手児童書出版社 シマリス出版の副社長 大麻不法所持のため逮捕』
テロップを読んでテレビの画面に近付く。逮捕されたのは彰良さんの従弟だ。確か彰良さんが『無理な仕事のやり方をするからうまくいく企画もダメになったりする』と言って困っていた人だ。
仕事で相性の合わない人というのはいるものだから、仕方ないんだろうな、とその話を聞きながら思ったものだけれど。
今回の事件は相性どころではない。
大手の、子どもや母親から絶大な信頼を寄せられているシマリス出版だからこその大事件だ。
テレビの中のコメンテーター達が言う。
「シマリスって幼児向けの絵本とかで稼いでる出版社でしょ。どうなんでしょうね。こんなダークな事件が起こっちゃって」
「やばいんじゃないですか。子供の親ってこういうことに敏感ですよね。非買運動とか起こるんじゃないですか」
「あ、『ニコチャンマン』って誰もが知ってる絵本があるでしょ。その作家さんが週刊誌の質問に答えてますね。えーっと....『ニコチャンマン』の作家の岡崎まさこさんによると『こんなことがあるなんて信じられないです。さすがに動揺しています』記者が『それではもうシマリスで書かない、なんて事もあるんじゃないですか』『それはなんとも言えません。ただシマリスに残念な気持ちがあるのは確かです』......と、こう言ってますね。僕はあると思いますよ。岡崎さんのシマリス離れ。子ども向けの本ですもん、やっぱりクリーンなところで書きたいですよね」
コメンテーターのやりとりはまだまだ続きそうだった。
喉がからからに渇いていた。彰良さんが大事にしていた『ニコチャンマン』がシマリスから離れるかもしれない。そんなこと、あっていいはずがない。
ニュース画面には出て来なかったけれど、彰良さんはきっと心を痛めているはず。あんなに手塩をかけて育ててきた『ニコチャンマン』なのだ。もうシマリスでは書かない、新刊は出ない、なんてことが起きたら彰良さんは地の底を這うような痛手を負うに違いない。何よりも彰良さんの心が悲しみで満たされているような気がして仕方がない。
なにか、解決策はないのだろうか。
せめて『ニコチャンマン』の作者の岡崎さんがシマリスから離れるなんてことがなかったらいいのに。
「ママ、お洋服着せて」
パジャマ姿の萌がテレビの前で棒立ちになっている私に言った。
「あ...ああ、ごめんね」
パジャマから園の制服に着替えさせていると沙雪も起きてきた。
「深雪、これって藤堂さんやばいんじゃない?」
「うん」
萌の着替えを終わらせて途中だったサラダ作りに戻る。
野菜を刻みながら考える。何か私にできること。私にしかできないこと。なにか、なにかないだろうか。
トマトのスライスを切ったところでひとつのひらめきがあった。できるだろうかそんなこと。でも、私にできることと言ったらそれくらいしかない。
ブロッコリーを添えてサラダができあがると私はテレビを今も見ている沙雪に言った。
「もうすぐでしょ。沙雪の東京でのCMのオーディション。私も萌連れて東京に行く。チケット取れるかな」
「それならミドリさんの得意分野だから大丈夫と思うけど......深雪が行くのはなんで?まさかシマリスにどうこうしようって思ってんの」
浅はかと思われてもいいと思い、私はぐっと深く頷いた。
「無理だよ。深雪に何ができんの。まさかと思うけど藤堂さんを励ましに行くとか言わないでしょうね」
「……結果的にはそうなる。『ニコチャンマン』の作者の岡崎さんにはツテがあるから会ってくる。絶対シマリスから離れないでくださいってお願いしてくる」
「お願いって、あんた、一介の書店員の言葉なんて聞いてくれるわけないじゃない」
「わかってる。でもそうしたいの。だって彰良さんが心底大切にしているものを失くすところを私、見たくない。ただでさえ私と萌えは身を隠して『彼が愛する権利』を奪っている。もう、これ以上、彰良さんがなにかを奪われるところを見たくないの!」
思わず声を荒げてしまった。



