その彼......芳人さんというのだけど資産家の生まれでご実家の経営する会社を継ぐことが決まっていたわ。大学を卒業したらその会社に入って二十七歳の頃には副社長に就任した。私と彼は付き合いだして十年経っていたけれど、お互いに飽くことは一度もなかった。仕事の土台がしっかりしてから結婚したいという彼の言い分を聞いて、私は彼からのプロポーズを待っていた。
副社長に就任してしばらくして彼ははっきりと結婚を申し込んでくれた。夢のようだったわ。彼の事業はうまくいっていたし非の打ちどころのない結婚だと思った。何よりも彼のことが好きだった。キスもセックスもその人としかしたことがなかった。彼に愛されているということが私の軸だった。彼のいない毎日なんか考えられなかったからずっと一緒にいられる結婚は私の夢そのものだった」
お母様は一気に話された。私は唇を結んで聞いていた。
「でもね。彼のお父様は製薬会社の娘と息子を結婚させようとしたのよ。私は芳人さんのお父さんお母さんとも懇意にしてもらっていた。娘のようにかわいがってもらっていると思っていた。でも芳人さんのお父さんは私に笑いながら言ったわ。
『悪いね、みっちゃん。芳人の結婚はもう決まってんだ。芳人との結婚は諦めてくれ』
まるでちょっとおつかいに行ってくれ、というのと同じ調子で言われたわ。私の夢は近所の小娘のちょっとした恋物語だと思われていたのね。
私は泣いたわ。もちろん芳人さんにも詰め寄った。どういうことなのって。そうしたら彼は言ったわ。
『今うちの会社は苦しい。製薬会社とつながりができたら何とか持ちこたえられそうだ。ほんの数年のことだよ。ちゃんと離婚して君を迎えに来るから。待っていてくれ』
なんて勝手なことを言うんだろうって私は怒ったわ。あんなに愛しあっていたのに、こんなに簡単に私と別れようとしてる?信じられなかった。私は怒りのあまり、ちょうどきていた縁談話に乗って結婚した。それが藤堂よ」
私は目を見開いた。そんないきさつがあったなんて。
「それから十年は芳人とも会っていなかった。彰良が生まれて子育てに追われていたわ。でも彰良も中学に入って私も自分の時間が持てるようになってきた。それであるパーティーに行ったら芳人と再会したの」
お母様の目は潤んだ。懐かしい日々が目の前を通り過ぎているかのよう。
「芳人と私の間に言葉はもう必要なかった。この十年、ずっとお互いのことを求めていたのがすぐにわかった。だってあんなに愛し合っていたのだもの。忘れられるわけがないのよ。
私たちは隙をみてはホテルで逢瀬を交わすようになった。私は芳人との時間の方が自分の人生だと思えた。本当に一緒に生きるべきなのは芳人なんだって。芳人も同じ気持ちだった。離婚の準備を進めるから君もそうしてくれと言われたわ。
私はうなずいた。それが藤堂の家や彰良を捨てることになっても、それで構わないと思った。それくらい芳人との人生を本気で考えていたの」
私はただ聞くことしかできず、手を握りしめてお母様の話を聞き入った。
「でも、神さまはそれを許してくれなかった。離婚の話を進めようとしていた芳人は奥さんの運転する車で事故にあって夫婦ともに帰らぬ人になったのよ」
私は息をのんだ。そんな過去がお母様にあったなんて。
「私は半狂乱になりそうになったけど、なんとか理性で食い止めたわ。私にはプレゼントが残っていたから。それが貴島鈴音ちゃん。貴島芳人の一人娘よ」
「あっ......!」
私は足ががくがくと震えた。絡まっていた糸が解けた。
お母様は椅子から立ち上がり、私に向って歩いてきた。
「鈴音ちゃんはねえ、芳人そっくりなの。よく娘は男親に似るっていうわよね」
「そ...んな...」
「あなたたちまだ付き合って数か月でしょう。私と芳人との間に流れた時間に比べたらちっぽけなものよね。すぐに新しい人を好きになって忘れられるわ。なんなら私がいい男性を紹介したっていいわ」
お母様は歌うように言った。
私は頭を殴られたような気分だった。お母様の激情。深い、深い愛。
お母様は私の顔に顔を近づけてきた。
「ねえ。わかって。私は血が必要なの。貴島芳人の血が流れている鈴音ちゃんが彰良と結婚すれば芳人の血とつながった孫ができるでしょう?その孫を抱くのが芳人にとり残された私の夢なの」
私は自分の腹部に手をやった。
今日、私はお母様との待ち合わせに来る前に産婦人科に寄った。生理が遅れていてもしかして、と思い妊娠検査薬を使ったら陽性だったのだ。産婦人科医から妊娠していますとはっきり告げられた。私は温泉で何度も彰良さんと睦みあっていたのでそのときの子だと思う。
お母様の告白を聞きながら。この子をどうしよう、とまず思った。
私は子供を産みたい気持ちが膨れ上がっていて、中絶したりすることは考えられなかった。お母様の話が本当だったら、この子はお母様にとってかわいい孫でも何でもない。自分の夢を遮る邪魔ものだ。
お母様の言う通り、私と彰良さんはまだ出会って数か月。十年以上芳人さんを慕ったというお母様の恋情と比べたらとてもちっぽけなことだろう。
私は確かに彰良さんとの恋にふわふわしていた。
最初から気があって、ちょっとしたことでデートするようになった。高校生みたいな恋。
私の彰良さんへの気持ちとお母様の芳人さんへの気持ちを秤にかけたらお母様の方に傾くことが容易く想像できた。
気になっていた事があったのでそれを口にした。
「あの......鈴音さんは、彰良さんとの結婚に前向きなんでしょうか?」
お母様ははっ、と笑った。
「あの子の男遊びのことを言ってるの?とっくに知ってるわ。いいじゃないのちょっとした火遊び。あの子だって藤堂家に入ればきちんと妻の役を勤めるでしょう。そういうふうにしむけてきたもの。今はちょっと息抜きしてるだけなのよ」
お母様の意志は鈴音さんの火遊びくらいでは揺らがないのだ。
たしかに鈴音さんは彰良さんとの結婚を狙っているように私にも見えた。ふたりきりで会ってホテルの客室に行くよう仕組むなんて、そうとしか考えられない。
鈴音さんもお母様も彰良さんとの結婚を望んでいる。
私が諦めればふたりの思う通りになる......。
深雪!
どこかで私の名を呼ぶ彰良さんの声がした気がした。
それと同時に、お腹の中の子供の存在感がぐっと強まった。
彰良さんを失っても私にはこの子がいる。
きっと男の子で彰良さんに似るだろう。この子がいれば私は生きていける。
私は顔をあげてお母様の目を見つめた。
「わかりました。彰良さんとお別れします」
自分でも驚くくらい冷静な声が出た。
「わかってくれたのね。ありがとう。あなたにもきっと一生ものの恋が訪れるときがくるわ」
にっこり微笑んでお母様は言った。
いいえ。もう一生恋なんてしない。この子と生きていきます。声には出さずに胸の内でそう言った。
【 藤堂彰良side 】
イタリア出張から帰る三日前。突然、深雪と連絡が取れなくなった。最近の深雪は電話で話していてもどこか元気がなかった。それでいつもの出張の時よりもマメに連絡しようとしたのだが、まず電話がつながらなくなり、ラインもブロックされた。
いったい、なにが起こったんだ?と、俺は激しく動揺した。俺が深雪の気に障るようなことをなにかしただろうか、と何度考えても思い当たらない。
イタリアのブックフェアで手に入れた珍しい絵本などを土産に買った。それを見て喜ぶ深雪を何度も想像していたのに。
次に俺を襲って来たのは不安感だった。
深雪の身に何かあったのかもしれない。想像したくもないが悪い輩に捕まって俺と連絡を取れないようにされた。もしくは交通事故でスマホが壊れたままで深雪が入院している可能性だってある。
想像はどんどん悪い方に傾き、俺は二日、仕事を早く切り上げて帰国することにした。成田空港からカートを引いたまま、まっすぐ吉永書店へと向かう。
タクシーに乗りながら深雪と付き合う前の事を思い出す。あの頃はまだ名前すら知らなかった。でも深雪が吉永書店のレジに立っているかと思うとそれだけでわくわくした気持ちになり、駆け足に近い早足になったものだ。
かつてはこう思っていた。
彼女はいるだろうか。たまに休みなのか早番なのかいないときもある。いてくれ。いてほしい。あの笑顔が見たい。
俺は今もその時と変わらない気持ちで。いや、つきあって深雪の事を深く知ってさらに愛しさが大きくなった。
俺は自分の心に素直になり、気持ちを吐露しプロポーズをした。
人生で初めてのプロポーズだ。
深雪がどう返事するかドキドキしたが、答えはOKだった。ああ、この子と一生一緒にいられると天にも昇る気持ちだったのに。
はやく深雪の顔を見て安心したい。
タクシーは駅ビルの前で止まり、俺は走るようにして吉永書店へと向かった。カートがガタガタと揺れてわずらわしかったがどこかに預ける暇すらもったいなかった。
吉永書店に入る。レジを見るが深雪ではない。じゃあ文庫売り場はどうだ。視界の中に制服のうしろ姿を捉えた。足早で近付く。
「みゆ......」
ふっと振り返った制服の女性は深雪ではなかった。思い出した。一度紹介された事がある。同僚で一番仲のいい......たしか真奈美さん、だったはずだ。
「あっ......藤堂さん」
彼女の顔がくもった。俺は不審に思われないよう、焦っていたが必死に笑顔を作った。
「忙しいところすまないね。深雪はどこかな。今日は出社してる?」
副社長に就任してしばらくして彼ははっきりと結婚を申し込んでくれた。夢のようだったわ。彼の事業はうまくいっていたし非の打ちどころのない結婚だと思った。何よりも彼のことが好きだった。キスもセックスもその人としかしたことがなかった。彼に愛されているということが私の軸だった。彼のいない毎日なんか考えられなかったからずっと一緒にいられる結婚は私の夢そのものだった」
お母様は一気に話された。私は唇を結んで聞いていた。
「でもね。彼のお父様は製薬会社の娘と息子を結婚させようとしたのよ。私は芳人さんのお父さんお母さんとも懇意にしてもらっていた。娘のようにかわいがってもらっていると思っていた。でも芳人さんのお父さんは私に笑いながら言ったわ。
『悪いね、みっちゃん。芳人の結婚はもう決まってんだ。芳人との結婚は諦めてくれ』
まるでちょっとおつかいに行ってくれ、というのと同じ調子で言われたわ。私の夢は近所の小娘のちょっとした恋物語だと思われていたのね。
私は泣いたわ。もちろん芳人さんにも詰め寄った。どういうことなのって。そうしたら彼は言ったわ。
『今うちの会社は苦しい。製薬会社とつながりができたら何とか持ちこたえられそうだ。ほんの数年のことだよ。ちゃんと離婚して君を迎えに来るから。待っていてくれ』
なんて勝手なことを言うんだろうって私は怒ったわ。あんなに愛しあっていたのに、こんなに簡単に私と別れようとしてる?信じられなかった。私は怒りのあまり、ちょうどきていた縁談話に乗って結婚した。それが藤堂よ」
私は目を見開いた。そんないきさつがあったなんて。
「それから十年は芳人とも会っていなかった。彰良が生まれて子育てに追われていたわ。でも彰良も中学に入って私も自分の時間が持てるようになってきた。それであるパーティーに行ったら芳人と再会したの」
お母様の目は潤んだ。懐かしい日々が目の前を通り過ぎているかのよう。
「芳人と私の間に言葉はもう必要なかった。この十年、ずっとお互いのことを求めていたのがすぐにわかった。だってあんなに愛し合っていたのだもの。忘れられるわけがないのよ。
私たちは隙をみてはホテルで逢瀬を交わすようになった。私は芳人との時間の方が自分の人生だと思えた。本当に一緒に生きるべきなのは芳人なんだって。芳人も同じ気持ちだった。離婚の準備を進めるから君もそうしてくれと言われたわ。
私はうなずいた。それが藤堂の家や彰良を捨てることになっても、それで構わないと思った。それくらい芳人との人生を本気で考えていたの」
私はただ聞くことしかできず、手を握りしめてお母様の話を聞き入った。
「でも、神さまはそれを許してくれなかった。離婚の話を進めようとしていた芳人は奥さんの運転する車で事故にあって夫婦ともに帰らぬ人になったのよ」
私は息をのんだ。そんな過去がお母様にあったなんて。
「私は半狂乱になりそうになったけど、なんとか理性で食い止めたわ。私にはプレゼントが残っていたから。それが貴島鈴音ちゃん。貴島芳人の一人娘よ」
「あっ......!」
私は足ががくがくと震えた。絡まっていた糸が解けた。
お母様は椅子から立ち上がり、私に向って歩いてきた。
「鈴音ちゃんはねえ、芳人そっくりなの。よく娘は男親に似るっていうわよね」
「そ...んな...」
「あなたたちまだ付き合って数か月でしょう。私と芳人との間に流れた時間に比べたらちっぽけなものよね。すぐに新しい人を好きになって忘れられるわ。なんなら私がいい男性を紹介したっていいわ」
お母様は歌うように言った。
私は頭を殴られたような気分だった。お母様の激情。深い、深い愛。
お母様は私の顔に顔を近づけてきた。
「ねえ。わかって。私は血が必要なの。貴島芳人の血が流れている鈴音ちゃんが彰良と結婚すれば芳人の血とつながった孫ができるでしょう?その孫を抱くのが芳人にとり残された私の夢なの」
私は自分の腹部に手をやった。
今日、私はお母様との待ち合わせに来る前に産婦人科に寄った。生理が遅れていてもしかして、と思い妊娠検査薬を使ったら陽性だったのだ。産婦人科医から妊娠していますとはっきり告げられた。私は温泉で何度も彰良さんと睦みあっていたのでそのときの子だと思う。
お母様の告白を聞きながら。この子をどうしよう、とまず思った。
私は子供を産みたい気持ちが膨れ上がっていて、中絶したりすることは考えられなかった。お母様の話が本当だったら、この子はお母様にとってかわいい孫でも何でもない。自分の夢を遮る邪魔ものだ。
お母様の言う通り、私と彰良さんはまだ出会って数か月。十年以上芳人さんを慕ったというお母様の恋情と比べたらとてもちっぽけなことだろう。
私は確かに彰良さんとの恋にふわふわしていた。
最初から気があって、ちょっとしたことでデートするようになった。高校生みたいな恋。
私の彰良さんへの気持ちとお母様の芳人さんへの気持ちを秤にかけたらお母様の方に傾くことが容易く想像できた。
気になっていた事があったのでそれを口にした。
「あの......鈴音さんは、彰良さんとの結婚に前向きなんでしょうか?」
お母様ははっ、と笑った。
「あの子の男遊びのことを言ってるの?とっくに知ってるわ。いいじゃないのちょっとした火遊び。あの子だって藤堂家に入ればきちんと妻の役を勤めるでしょう。そういうふうにしむけてきたもの。今はちょっと息抜きしてるだけなのよ」
お母様の意志は鈴音さんの火遊びくらいでは揺らがないのだ。
たしかに鈴音さんは彰良さんとの結婚を狙っているように私にも見えた。ふたりきりで会ってホテルの客室に行くよう仕組むなんて、そうとしか考えられない。
鈴音さんもお母様も彰良さんとの結婚を望んでいる。
私が諦めればふたりの思う通りになる......。
深雪!
どこかで私の名を呼ぶ彰良さんの声がした気がした。
それと同時に、お腹の中の子供の存在感がぐっと強まった。
彰良さんを失っても私にはこの子がいる。
きっと男の子で彰良さんに似るだろう。この子がいれば私は生きていける。
私は顔をあげてお母様の目を見つめた。
「わかりました。彰良さんとお別れします」
自分でも驚くくらい冷静な声が出た。
「わかってくれたのね。ありがとう。あなたにもきっと一生ものの恋が訪れるときがくるわ」
にっこり微笑んでお母様は言った。
いいえ。もう一生恋なんてしない。この子と生きていきます。声には出さずに胸の内でそう言った。
【 藤堂彰良side 】
イタリア出張から帰る三日前。突然、深雪と連絡が取れなくなった。最近の深雪は電話で話していてもどこか元気がなかった。それでいつもの出張の時よりもマメに連絡しようとしたのだが、まず電話がつながらなくなり、ラインもブロックされた。
いったい、なにが起こったんだ?と、俺は激しく動揺した。俺が深雪の気に障るようなことをなにかしただろうか、と何度考えても思い当たらない。
イタリアのブックフェアで手に入れた珍しい絵本などを土産に買った。それを見て喜ぶ深雪を何度も想像していたのに。
次に俺を襲って来たのは不安感だった。
深雪の身に何かあったのかもしれない。想像したくもないが悪い輩に捕まって俺と連絡を取れないようにされた。もしくは交通事故でスマホが壊れたままで深雪が入院している可能性だってある。
想像はどんどん悪い方に傾き、俺は二日、仕事を早く切り上げて帰国することにした。成田空港からカートを引いたまま、まっすぐ吉永書店へと向かう。
タクシーに乗りながら深雪と付き合う前の事を思い出す。あの頃はまだ名前すら知らなかった。でも深雪が吉永書店のレジに立っているかと思うとそれだけでわくわくした気持ちになり、駆け足に近い早足になったものだ。
かつてはこう思っていた。
彼女はいるだろうか。たまに休みなのか早番なのかいないときもある。いてくれ。いてほしい。あの笑顔が見たい。
俺は今もその時と変わらない気持ちで。いや、つきあって深雪の事を深く知ってさらに愛しさが大きくなった。
俺は自分の心に素直になり、気持ちを吐露しプロポーズをした。
人生で初めてのプロポーズだ。
深雪がどう返事するかドキドキしたが、答えはOKだった。ああ、この子と一生一緒にいられると天にも昇る気持ちだったのに。
はやく深雪の顔を見て安心したい。
タクシーは駅ビルの前で止まり、俺は走るようにして吉永書店へと向かった。カートがガタガタと揺れてわずらわしかったがどこかに預ける暇すらもったいなかった。
吉永書店に入る。レジを見るが深雪ではない。じゃあ文庫売り場はどうだ。視界の中に制服のうしろ姿を捉えた。足早で近付く。
「みゆ......」
ふっと振り返った制服の女性は深雪ではなかった。思い出した。一度紹介された事がある。同僚で一番仲のいい......たしか真奈美さん、だったはずだ。
「あっ......藤堂さん」
彼女の顔がくもった。俺は不審に思われないよう、焦っていたが必死に笑顔を作った。
「忙しいところすまないね。深雪はどこかな。今日は出社してる?」



