キミと歌姫はじめました!


――コンコン。
不意に控室の扉が叩かれた。
「そろそろお願いします」
スタッフの声。
その一言で、空気が変わる。
「……っ」
有栖の肩がびくっと揺れた。
……来た。
有栖は立ち上がると、何度も深呼吸をした。
吸って、
吐いて。
でも、うまく整わない。
心臓は相変わらず暴れている。
「……やば」
思わず漏れる。
零も目を開けて、ゆっくりと息を吐いた。
その表情は落ち着いているように見えて――
近くで見ると、やっぱり少しだけ硬い。
「.......来たね」
短く返す。
それだけで、同じ状態だと分かる。
一瞬の沈黙。
そのあと、有栖が小さく笑った。
「……ここで逃げたらさ」
「うん」
「伝説になるかな」
「悪い意味でね」
即答だった。
思わず吹き出す。
有栖は最後にもう一度、大きく息を吸った。
胸いっぱいに空気を入れて――
ゆっくり吐く。
(怖い)
はっきりとある、消えない気持ち。
でも、
(……歌いたい)
それも、消えない。
むしろ、さっきより強くなっている。
零と目を合わせた。
言葉はない。
でも、その視線だけで分かる。
――行こう。
お互いに頷きあって立ち上がった。
扉を開ける。
外の空気が一気に流れ込んできた。
さっきまでの静けさとは違う、
ざわめきと熱を含んだ空気。
遠くから、観客の声が微かに聞こえる気がした。
足が一瞬だけ止まりそうになる。
でも。
止まらない。
有栖は一歩踏み出した。
零も並ぶ。
2人で、歩き出す。
ステージへ続く通路。
照明の裏側。
スタッフの動き。
機材の影。
すべてが現実で、すべてが『その先』に繋がっている。
心臓はまだうるさい。
怖さも、消えていない。
それでも一歩ずつ、確実に。
2人はステージへと向かっていった。
――逃げないためじゃない。
歌うために。
舞台袖に立った瞬間、空気が変わった。
さっきまで遮られていた外の気配が、一気に押し寄せてくる。
低く、波のように揺れるざわめき。
満杯の客席。
何千人もの人の声が、ひとつの塊になって届いてくる。
(……っ)
思わず息を飲む。
見えていないのに、分かる。
そこに『人』がいる。
待っている。
その事実が、重くのしかかる。
零はギターを肩にかけ、静かに準備していた。
ストラップを調整して、ピックを指で挟む。
けれどその手が――
小刻みに震えていた。
(……同じだ)
これが、本番だ。
泣いても笑っても、チャンスは一度きり。
積み上げてきたものの集大成だ。
「……いける?」
零は一瞬だけ目を閉じて、息を吐いた。
「いこう。」
短い答え。
でも、その声は震えていなかった。
有栖は少しだけ笑う。
「よし」
そして――14時。
その瞬間、会場の照明がすっと落ちた。
ざわめきが一段階大きくなる。
暗闇。
ステージも、客席も、すべてが一度リセットされたみたいに沈む。
(っ……)
心臓が一気に跳ねた。
ドクン、と大きく一回。
そのあと、さらに速くなる。
スタッフの合図。
「お願いします」
小さな声。
有栖と零は、同時に頷いた。
額につけていた狐の面を下ろす。
もう、ここにいるのは有栖と零じゃない。
IrisとNoirだ。