「ナタリアに見せたいものが、もう一つある」
アルフォンスが階段を登りながら言った。
「何?」
「絶対ナタリアは驚くだろう」
部屋に戻って隠し扉を閉めたアルフォンスがドアになっていた棚から、一冊の本と分厚い手書きの紙束を取り出して机に置いた。
片方はよく見ると本ではなくブックケースの形の手紙入れだった。
表紙部分がぱかりと開いた。
「見てくれ」
「なに、手紙⋯⋯」
「差出人の方だ」
愉快そうに言われて、差出人を見ると、ナタリアは「ああっ!」と声をあげてしまった。
「エミール・コロー!『満月を飛び越えて』の作家だわ、どうして? それにこっちの束は『満月を飛び越えて』の原稿だわ!少し違っているから、草稿かしら⋯⋯」
「関係性は分からない。人なのかバンパイアだったのかも。だが母の知り合いだったようだ。この屋敷にも来た事があるらしい。
先日ナタリアに本を見せてもらった時、どこかで見た名前だと思ったんだ」
「え! と言うことは、この屋敷にある檸檬の木と池が、満月を飛び越えてのモデルかもしれないかしら?」
「ああ、その可能性もあるな」
ナタリアを驚かせたアルフォンスは、他愛ないいたずらが成功した子供のようだった。
ナタリアが好きなものを気にかけて、気付き、共有してくれたアルフォンスの素直さは清涼な湧き水のようだ。
手にすくい、飲み干してしまいたくなる。
アルフォンスが手紙の文字をなぞるナタリアを後ろから抱きしめた。
「アルフォンス⋯⋯」
「今度じっくり見に来たらいい。ナタリアの本も貸してくれ。草稿と見比べてみよう⋯⋯」
アルフォンスがナタリアのうなじの匂いを嗅ぎながら言った。
「ええ、ありがとう‼︎」
ナタリアが笑うと、アルフォンスがつむじに口付けを落とした。
楽しい気分で客間に戻るとベスが険しい顔で待ち構えていた。
彼女は明らかにナタリアとこの館の主人の関係を勘繰っているのだ。
だが。
「ベス、とんでもない宝物だったわ!」
ナタリアが嬉しい気持ちをそのまま口にすると、ベスは「まあ⋯⋯よろしゅうございましたね」となんとか誤魔化されてくれた。
だが、彼女の表情は晴れない。
「どうしたの? ベス」
「いえ、あの⋯⋯」
ベスが言いかけた時だった。
外で激しい炸裂音と同時に稲光がピシャっと光り暗闇を切り裂いた。
「キャアアッ」
女二人が叫び、ベスは耳を塞いで蹲る。
「ベス大丈夫?」
ベスは太った体を縮めてガタガタと震えている。
「大丈夫、今のは遠い」
アルフォンスが子供でもわかるような嘘をついてベスを宥めようとしたが効果はなく、彼女はよく聞き取れない声で何かに祈りを捧げている。
しばらく待ったが、彼女の震えは止まらない。
どうやらこのメイドは雷が恐ろしいのだ。
「ナタリア様、ベスは奥の部屋で休ませてはいかがでしょう?窓のない部屋ですし、建物の真ん中ですので音も聞こえにくいですよ」
窓の外ではまだ雷が、いつ落ちてやろうかと言わんばかりにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「ベス?」
ナタリアが声をかけると、ベスは真っ青な顔でこくこくと頷いた。
「ベス、あなたがそんなに雷が嫌いだとは思わなかったわ」
太り気味のメイドをナタリアとルカで両側から支えて歩かせ、窓のない部屋のベッドに座らせた。
「も、申し訳⋯⋯昔、目の前で雷が落ちて⋯⋯ひ、人が⋯⋯うう⋯⋯人が⋯⋯それで⋯⋯」
ベスはとうとう泣き出した。
「ベス、私はここにいた方が良いかしら?」
ナタリアが聞くと彼女は弱々しく首を横に振って言った。
「一人で大丈夫です⋯⋯あの、その代わり、ブランデーを一杯いただけますか?」
ナタリアがルカを見ると彼は「ええ、少々お待ちを」と言ってキャビネットを開けブランデーの瓶を取り出した。
「ちょうどよかった。ここのグラスは昨日磨いたばかりなんです。このブランデーは当家の極上の一本ですよ!」
ルカがおどけて酒を注ぎ渡すとベスは無理に笑った。
「ありがとうございます。あとは一人でゆっくりさせていただきます。あんまりみっともないところをお見せしたくありませんからね」
ベスはがそう言ったので、二人は静かにその部屋を出た。
「ベス、かわいそうに⋯⋯」
そう言ったナタリアは、ここ最近ずっとナタリアこそ『かわいそうに』と会う人毎に言われていたことに気づいた。
(私は、もうかわいそうの主役じゃなくなったのね)
「ナタリア様は、少しは立ち直られましたか?」
ふいにルカが、遠雷に光るナタリアの顔を見て言った。
「そうね。立ち直った⋯というのかしら⋯⋯夫を助けることも夫に助けを求めることも、もう叶わないことだって心の底から納得したわ⋯⋯これを立ち直ったと言うのかしら?」
「そうですね。どうでしょうか⋯⋯我がご主人様はあなたを慰めたいと思っているようですよ」
「ベスに聞かせないであげて!」
ナタリアは笑いながら今出て来たドアを振り返った。
「大丈夫聞こえませんよ」
「不思議ね、義兄のギルバートだってヴェネディクトの死を悼んでいるように見えないのに、一族の敵であるはずのあなた方は慰めてくれるのね」
「⋯⋯おや、ご存知でしたか。我がご主人様は堪え性がないですね」
ナタリアを見つめるルカは、声こそおどけた様子だったが、その目は赤く夜の動物のように不気味な光を放っている。
「そんなことを言わないで。アルフォンスは私を助けてくれたのよ」
ナタリアは切なく微笑んだ。
「ナタリア様、ギルバート・イェーガーはどのような人物ですか?」
突然ルカが訊いた。
「ギルバートですって?何故?」
ナタリアが返すと、ルカはこの男らしからぬ深刻な表情で言葉を詰まらせた。
「いえ、申し訳ありません、ただの好奇心です」
居間に戻るとアルフォンスがとても不機嫌そうな表情で待ち構えていた。
「楽しそうだな」
そんなアルフォンスの様子にナタリアはひどく心躍らされた。今にも抱き着いて彼をなだめたいと思った。
そうしなかったのは、今ここにルカがいるからだけだった。



