もっと早くにこうして話をすることができたら良かったのに、とも。
しばらくしてアリシアはトマスの所に行って、母犬は自分が引き取ると言った。
老執事は「子犬の方は⋯如何いたしましょうか」と遠慮がちに切り出した。
子犬は十匹ほどもいる。
「さっきも言った通り、子犬は雑種じゃないと思うわ。でも元の飼い主が血統書を用意しないのなら雑種扱いになってしまうから、しばらく私の所に置いて乳離れするまでに飼い主を探してあげる」
それを聞いたトマスは無表情を崩しはしなかったが、ナタリアの目にはホッとした様子に見えた。
ナタリアは今までアリシアに親しみを感じることが全くなかったので、思いがけず見た義母の優しさ愛情深さを感じさせられる姿に、愛する夫の面影を見てとてもうれしかった。
(夫との思い出以外にも美しいものを見ることが出来てよかったわ)
ヴェネディクトの優しく素朴な性質はいつでもナタリアの胸をぎゅっと締め付ける。それは夫の魂が天に召された今も変わらない。
(ヴェネディクトが本に斜線を入れていたことに、何かすごい秘密があると思っていたわけではないわ。でも⋯⋯)
亡き夫が母親を真似てあの本に斜線を引いたかと思うと、母親の後ろ姿をじっと見つめる幼い少年の姿に切ない気持ちになる。
ヴェネディクトの言葉の端々に、母アリシアに対する愛情と顧みられない寂しさを感じていたからだ。
だがこうしてヴェネディクトや犬の話をするアリシアは、決して冷たい人間とは思えない。
しばらくアリシアと二人で子犬達と遊んだ後、ナタリアは掃除のためにヴェネディクトと二人暮らしをしていた離れに行った。
だが鍵を開けようとして違和感に気がついた。
(中に誰かいる⋯⋯?)
家の中からコツコツと人が歩き回る靴音がしているのだ。ベスではない。彼女は買い物に出掛けて、まだ帰ってきていない。
(アルフォンス?)
その想像はナタリアの心を熱く波立たせたが、まさかそんなはずはない。
バンパイアであるアルフォンスが、ハンターの屋敷に 昼間から侵入するとは思えない。
(それに、招かれなければ、家には入れないと言っていたわ)
そう考えると、ナタリアはまた強い違和感を感じたが、中に入る勇気はなく、じりじりと後退りした。
トマスか誰か呼んだ方がいいと思ったのだ。
だが、ナタリアがドアの前から離れるより早く、ドアは内側から乱暴に開かれた。
「ナタリア!」
語気荒く出てきたのはギルバートだった。
「! ギルバート!」
この屋敷そのものがギルバートの物とはいえ、ここはナタリアとヴェネディクトの家だ。五年間を夫と二人で過ごした二人の家だ。
「何かご用ですか? ギルバート」
つっけんどんな物言いで、ナタリアは不快感をあらわにしたが、義理の兄ギルバートはずいっと一歩踏み込んできた。
「母と何の話をしていた!」
「え?」
(何のって⋯⋯)
アリシアとした話は『満月を飛び越えて』のメモのこと。犬の話、犬の墓。
ギルバートはあまり母親に関心がないようだったしアリシアもまた、ヴェネディクトにそうであるのと同じようにギルバートにも無関心に見えていた。
ナタリアは寂しげだったアリシアのことを思い出すと、ギルバートにその話をする気になれなかった。
「お義母様はお元気がないので気晴らしに犬を連れてきていただいたんです」と、当たり障りのない話だけを教えた。
「ああ、犬!」ギルはやはり不機嫌そうに言い捨てる。
ナタリアは一層不快な気持ちになった。
バンパイアであるアルフォンスでさえ犬に優しいのに、この男は母親の思い出さえも疎ましいようだ。
さっさと中に入りたいナタリアだったが、そこにまた居合わせて欲しくない人物が現れた。
「ギルバート! なぜナタリアの家から出てくるの⁉︎」
義姉のエリーゼだった。
恐ろしく怒りを含んだ形相でブルブルと震えている。
何もやましいことはないが見られたくない場面だった。エリーゼはとにかく嫉妬深く控えめに言っても意地悪な親族なのだ。
「ナタリアあなた、ギルバートはあなたを嫌ってるって言ってたじゃない!嘘だったのね!」
ボロボロと涙をこぼすエリーゼを見ても、彼女に対する同情心はわいてはこない。
この義姉に本当のことを言う意味はあるんだろうかと思うだけだ。
ギルバートがよそに誰か女を持っているという話はナタリアも聞いたことがあったが、それはあまり現実味を感じる内容では無かった。
だがエリーゼは全てを鵜呑みに信じてさらにはナタリアや若いメイドにさえ強い嫉妬心をむき出しにしていた。
おうっ、おうっと激しく泣き始めたエリーゼに、ギルバートは意外にも困惑したような情けない顔でオロオロと手を彷徨わせている。
《兄は不貞などしない》
ヴェネディクトの静かな声が蘇ってきて、やはり義姉を慰めべきかと口を開きかけたときだった。
「エリーゼ、この女はハンターの血筋ではない。君とは違う。私がハンターの高潔な血筋以外の者に一体何の興味を持つというんだ!」
ギルバートは呆れるほどきっぱりとそう言った。
「関係ないわ! だって女なのよ。その家から出てきておきながら血筋が悪いから何もないなんて、そんなの信じられないわ! じゃあ世の中にいるそんな商売の女は血筋がいいとでも言うの?」
エリーゼが苦しんでいる噂の一つに、ギルバートは妊娠中の妻をおいて娼婦の元に通っていると言うものがあった。
「エリーゼ、噂を信じるんじゃない! そんな汚れた女など相手にするわけがないだろう!」
ギルバートは真剣にエリーゼをなだめているが、聞けば聞くほどナタリアは腹立たしい。
そのような商売の女たちを、ナタリアとて肯定するわけではないが、ギルバートの言いようはあまりに無神経で侮蔑的だった。
「ナタリアの嘘つき! どうして夫があなたの家に入るの、何か言い訳してみなさいよ!」
エリーゼは泣き叫びながら手に持っていたカゴを地面に叩きつけた。使い古しのタオルなどが入っていたので、おそらく子犬のために持ってこようとしたのだろう。
激しく泣き続けるエリーゼを持て余したような顔をするギルバートだが、決して妻であるエリーゼに触れようとしない。
エリーゼが夫の胸を叩こうとしたのか拳を振り上げた。
それを受け止める位置にいたギルバートだが、何と妻を避けたのだ。
「危ない!」
拳を空振りさせたエリーゼがよろめき、ナタリアが受け止めた。
痩せて小柄なエリーゼだが、臨月の体をとっさに支えるの事ができたのは、運が良かったとしか言えない。
「ギルバート! なんてことするの⁉︎」
ナタリアは、流石にギルバートが不貞を働いていないなどと思えない気がして大声を出した。
エリーゼはぐしゃぐしゃの顔を手で覆って「出て行ってよナタリア! 出て行って!」そう叫ぶと、重い体を揺すりながら元来た道を戻り始めた。
「エリーゼ!」
ギルバートはナタリアをギロリと睨みつけ、エリーゼを追っていった。
ナタリアは二人とのやりとりに呆れて、ため息を吐き出しながら家に入り、中を見て思わず声に出した。
「えっ! 何これ⋯⋯」
色々な荷物が、乱暴に開けられて、中を物色した後があったからだ。
「ギルバートがやったのね! うう⋯⋯吐きそうだわ」
追い討ちをかけるような惨状に、その場にへたり込んだナタリアは気持ちが落ち着くまで長い時間目を瞑って座っていた。
しばらくすると、いつの間にか買い物から戻ったベスが午前のお茶の時間を知らせに来て、部屋を見るなり「何ですか、これは!」と、ヒステリックに叫んだ。
「ギルバートよ」
ナタリアの言葉にベスは「まさか、そんな⋯⋯」と、つぶやきながらも完全に否定することは出来ないようだった。
「ベス、私エリーゼの子供が生まれたらイェーガー家を出ようと思うの」ナタリアが力無く呟くと、ベスは「それがようございましょうね⋯ナタリア様はまだお若いのですから」と言った。
「そうね」
いつも無神経だと感じていた言葉も今日ばかりは素直に心から納得した。
しばらくしてアリシアはトマスの所に行って、母犬は自分が引き取ると言った。
老執事は「子犬の方は⋯如何いたしましょうか」と遠慮がちに切り出した。
子犬は十匹ほどもいる。
「さっきも言った通り、子犬は雑種じゃないと思うわ。でも元の飼い主が血統書を用意しないのなら雑種扱いになってしまうから、しばらく私の所に置いて乳離れするまでに飼い主を探してあげる」
それを聞いたトマスは無表情を崩しはしなかったが、ナタリアの目にはホッとした様子に見えた。
ナタリアは今までアリシアに親しみを感じることが全くなかったので、思いがけず見た義母の優しさ愛情深さを感じさせられる姿に、愛する夫の面影を見てとてもうれしかった。
(夫との思い出以外にも美しいものを見ることが出来てよかったわ)
ヴェネディクトの優しく素朴な性質はいつでもナタリアの胸をぎゅっと締め付ける。それは夫の魂が天に召された今も変わらない。
(ヴェネディクトが本に斜線を入れていたことに、何かすごい秘密があると思っていたわけではないわ。でも⋯⋯)
亡き夫が母親を真似てあの本に斜線を引いたかと思うと、母親の後ろ姿をじっと見つめる幼い少年の姿に切ない気持ちになる。
ヴェネディクトの言葉の端々に、母アリシアに対する愛情と顧みられない寂しさを感じていたからだ。
だがこうしてヴェネディクトや犬の話をするアリシアは、決して冷たい人間とは思えない。
しばらくアリシアと二人で子犬達と遊んだ後、ナタリアは掃除のためにヴェネディクトと二人暮らしをしていた離れに行った。
だが鍵を開けようとして違和感に気がついた。
(中に誰かいる⋯⋯?)
家の中からコツコツと人が歩き回る靴音がしているのだ。ベスではない。彼女は買い物に出掛けて、まだ帰ってきていない。
(アルフォンス?)
その想像はナタリアの心を熱く波立たせたが、まさかそんなはずはない。
バンパイアであるアルフォンスが、ハンターの屋敷に 昼間から侵入するとは思えない。
(それに、招かれなければ、家には入れないと言っていたわ)
そう考えると、ナタリアはまた強い違和感を感じたが、中に入る勇気はなく、じりじりと後退りした。
トマスか誰か呼んだ方がいいと思ったのだ。
だが、ナタリアがドアの前から離れるより早く、ドアは内側から乱暴に開かれた。
「ナタリア!」
語気荒く出てきたのはギルバートだった。
「! ギルバート!」
この屋敷そのものがギルバートの物とはいえ、ここはナタリアとヴェネディクトの家だ。五年間を夫と二人で過ごした二人の家だ。
「何かご用ですか? ギルバート」
つっけんどんな物言いで、ナタリアは不快感をあらわにしたが、義理の兄ギルバートはずいっと一歩踏み込んできた。
「母と何の話をしていた!」
「え?」
(何のって⋯⋯)
アリシアとした話は『満月を飛び越えて』のメモのこと。犬の話、犬の墓。
ギルバートはあまり母親に関心がないようだったしアリシアもまた、ヴェネディクトにそうであるのと同じようにギルバートにも無関心に見えていた。
ナタリアは寂しげだったアリシアのことを思い出すと、ギルバートにその話をする気になれなかった。
「お義母様はお元気がないので気晴らしに犬を連れてきていただいたんです」と、当たり障りのない話だけを教えた。
「ああ、犬!」ギルはやはり不機嫌そうに言い捨てる。
ナタリアは一層不快な気持ちになった。
バンパイアであるアルフォンスでさえ犬に優しいのに、この男は母親の思い出さえも疎ましいようだ。
さっさと中に入りたいナタリアだったが、そこにまた居合わせて欲しくない人物が現れた。
「ギルバート! なぜナタリアの家から出てくるの⁉︎」
義姉のエリーゼだった。
恐ろしく怒りを含んだ形相でブルブルと震えている。
何もやましいことはないが見られたくない場面だった。エリーゼはとにかく嫉妬深く控えめに言っても意地悪な親族なのだ。
「ナタリアあなた、ギルバートはあなたを嫌ってるって言ってたじゃない!嘘だったのね!」
ボロボロと涙をこぼすエリーゼを見ても、彼女に対する同情心はわいてはこない。
この義姉に本当のことを言う意味はあるんだろうかと思うだけだ。
ギルバートがよそに誰か女を持っているという話はナタリアも聞いたことがあったが、それはあまり現実味を感じる内容では無かった。
だがエリーゼは全てを鵜呑みに信じてさらにはナタリアや若いメイドにさえ強い嫉妬心をむき出しにしていた。
おうっ、おうっと激しく泣き始めたエリーゼに、ギルバートは意外にも困惑したような情けない顔でオロオロと手を彷徨わせている。
《兄は不貞などしない》
ヴェネディクトの静かな声が蘇ってきて、やはり義姉を慰めべきかと口を開きかけたときだった。
「エリーゼ、この女はハンターの血筋ではない。君とは違う。私がハンターの高潔な血筋以外の者に一体何の興味を持つというんだ!」
ギルバートは呆れるほどきっぱりとそう言った。
「関係ないわ! だって女なのよ。その家から出てきておきながら血筋が悪いから何もないなんて、そんなの信じられないわ! じゃあ世の中にいるそんな商売の女は血筋がいいとでも言うの?」
エリーゼが苦しんでいる噂の一つに、ギルバートは妊娠中の妻をおいて娼婦の元に通っていると言うものがあった。
「エリーゼ、噂を信じるんじゃない! そんな汚れた女など相手にするわけがないだろう!」
ギルバートは真剣にエリーゼをなだめているが、聞けば聞くほどナタリアは腹立たしい。
そのような商売の女たちを、ナタリアとて肯定するわけではないが、ギルバートの言いようはあまりに無神経で侮蔑的だった。
「ナタリアの嘘つき! どうして夫があなたの家に入るの、何か言い訳してみなさいよ!」
エリーゼは泣き叫びながら手に持っていたカゴを地面に叩きつけた。使い古しのタオルなどが入っていたので、おそらく子犬のために持ってこようとしたのだろう。
激しく泣き続けるエリーゼを持て余したような顔をするギルバートだが、決して妻であるエリーゼに触れようとしない。
エリーゼが夫の胸を叩こうとしたのか拳を振り上げた。
それを受け止める位置にいたギルバートだが、何と妻を避けたのだ。
「危ない!」
拳を空振りさせたエリーゼがよろめき、ナタリアが受け止めた。
痩せて小柄なエリーゼだが、臨月の体をとっさに支えるの事ができたのは、運が良かったとしか言えない。
「ギルバート! なんてことするの⁉︎」
ナタリアは、流石にギルバートが不貞を働いていないなどと思えない気がして大声を出した。
エリーゼはぐしゃぐしゃの顔を手で覆って「出て行ってよナタリア! 出て行って!」そう叫ぶと、重い体を揺すりながら元来た道を戻り始めた。
「エリーゼ!」
ギルバートはナタリアをギロリと睨みつけ、エリーゼを追っていった。
ナタリアは二人とのやりとりに呆れて、ため息を吐き出しながら家に入り、中を見て思わず声に出した。
「えっ! 何これ⋯⋯」
色々な荷物が、乱暴に開けられて、中を物色した後があったからだ。
「ギルバートがやったのね! うう⋯⋯吐きそうだわ」
追い討ちをかけるような惨状に、その場にへたり込んだナタリアは気持ちが落ち着くまで長い時間目を瞑って座っていた。
しばらくすると、いつの間にか買い物から戻ったベスが午前のお茶の時間を知らせに来て、部屋を見るなり「何ですか、これは!」と、ヒステリックに叫んだ。
「ギルバートよ」
ナタリアの言葉にベスは「まさか、そんな⋯⋯」と、つぶやきながらも完全に否定することは出来ないようだった。
「ベス、私エリーゼの子供が生まれたらイェーガー家を出ようと思うの」ナタリアが力無く呟くと、ベスは「それがようございましょうね⋯ナタリア様はまだお若いのですから」と言った。
「そうね」
いつも無神経だと感じていた言葉も今日ばかりは素直に心から納得した。



