数日後、朝早く。
ナタリアが林檎の木の前で待っていると、トマスがかごいっぱいに可愛らしらしい声でキュウキュウと鳴き声を上げる子犬を連れてきた。
白いボディに黒や茶の斑が飛び散った模様だ。
「ま⋯⋯まあ‼︎」
ナタリアは長い間犬が苦手だったので、子犬を間近で見るのは初めてだった。
「どうぞ奥様」
トマスが子犬を三匹まとめてナタリアに手渡した。
子犬は、ナタリアの指や腕をしきりに舐めながら懸命に尻尾を振っている。
「なんて可愛いの!」
残りの犬はすでにかごから飛び出しててんでに走り回っていて、紐で繋がれた美しいダルメシアンが愛情深い目で子犬たちを見つめている。
トマスの話によると、ギルバートの学友の所で産まれたのだが、雑種がかかってしまい母犬ごと引き取り手を探しているという。
可愛いパピー達の様子を当初の目的も忘れて眺めていると、トマスの予想通りよろよろと覚束ない足取りでアリシアが裏口から出て近づいてきた。
「お義母さま! お久しぶりです。お体はいかがですか?」
ヴェネディクトとギルバートの母親アリシアは、小柄で神経質そうな女性だ。
ナタリアは義母はヴェネディクトよりギルバートに似ていると思っている。
「体調は悪くないわ。可愛い子犬たちね、それにこんなにいっぱい」
かがみ込んで子犬を見るアリシアの目はどことなく切なげで、ひどく切実な感情を抱いているように見えた。
「ダルメシアンは少し体が弱い時があるから、雑種の方が健康で良いかもしれないわ。でもこれは雑種じゃなくてこうして先祖返りして茶色い模様が出る事があるのよ」
アリシアが茶色いスポットの子犬を抱き上げた。
「お義母さま、犬にお詳しいんですね」
それにアリシアのような貴族が犬は雑種で良いなど言うとは思ってもみなかった。
子犬を連れて来たトマスは気を利かせたのか少し離れたところで母犬に水をやっている。
アリシアは足が悪い。よろめきながらベンチに座ると傍らに置かれた石板を撫でた。石板を見る目は子犬を見る時と同じ、切ないほどやさしい。
ナタリアは石板の傍らにしゃがんで書かれている文字を見た。
「ヴェネディクトが、自分が生まれる前に死んだ犬の墓だと教えてくれました」
「そう⋯⋯」
ナタリアは石板を読んだ。
【最愛の友、私の騎士。永遠の安らぎと共にあれ】
今から二十九年前の冬の日付が掘り込まれている。
「ジェイって名前だったの。私を守ろうとして殺されたの」
「それで私の騎士⋯⋯」
「ええ、彼は永遠に私の騎士よ」
ナタリアの目は僅かに潤んでいる。
二十九年も昔に死んだ犬の事で涙を流すアリシアは、ナタリアが思っていた女性とは違う人物のように思えた。
いつもアリシアは厳しい家庭教師の様に毅然としていたのだ。
「あの⋯⋯お義母さま。離れの本棚から『満月を飛び越えて』という本が出て来たんです。中身の檸檬の木の下という文字が、林檎に書き換えられていたのですが、お義母さまの文字だとトマスが言うのです。あれはお義母さまが書き加えられたのですか?」
アリシアは少し驚いたようにナタリアを見返した。
「⋯⋯そうよ、私が書いたわ」
「あの、私もあの本を持っているんです。そしたら檸檬の木の下の部分にヴェネディクトが斜線を引いていたんです。お義母様は何故彼がそうしたのか心当たりがありますか?」
アリシアは興味をそそられたようだった。
「彼があの本を? そう、ヴェネディクトが⋯⋯。あの子はきっと私があなたと同じ本を読んでいた事に気づいて、あなたにそれを遠回しに伝えようとしたのね。はっきり言わないところがあの子らしいわ」
アリシアの微笑みはまるで今も幼いヴェネディクトがそこにいるかのようだった。
「どうして檸檬を林檎に書き変えたんですか?」
ナタリアはアリシアの悲しみに胸を打たれて、これ以上詮索したくないと思ったが、今聞かなければヴェネディクトのメッセージを解き明かすチャンスはもう来ないかもしれない。
「この木の下、とても素敵でしょう? それであの一節も林檎の方が良いと思ったからよ。ただそれだけ」
言いながらも、アリシアの目は遠いところを見ていた。その手は茶色いスポットのダルメシアンにそっと添えられている。
「あの本は随分前に図書室で見つけたのよ。なぜだったのかしら。イェーガー家にはあのような本は相応しくないわ」
アリシアが静かに言った。
「あの本はトマスが息子の本をヴェネディクトに貸したのだそうです。多分そのまま返さずに持っていたのではないでしょうか」
「トマスが? まあ、そうなのね。落書きなんかして悪いことをしたわね」
全く悪そうでもなく呟いたアリシアは少し嬉しそうな表情をしている。
同じ本を読んでいた仲間を見つけた⋯⋯そんな顔だ。読書好きの連帯感を感じて、ナタリアはアリシアと一緒にいて初めて心地良いと思った。
ナタリアが林檎の木の前で待っていると、トマスがかごいっぱいに可愛らしらしい声でキュウキュウと鳴き声を上げる子犬を連れてきた。
白いボディに黒や茶の斑が飛び散った模様だ。
「ま⋯⋯まあ‼︎」
ナタリアは長い間犬が苦手だったので、子犬を間近で見るのは初めてだった。
「どうぞ奥様」
トマスが子犬を三匹まとめてナタリアに手渡した。
子犬は、ナタリアの指や腕をしきりに舐めながら懸命に尻尾を振っている。
「なんて可愛いの!」
残りの犬はすでにかごから飛び出しててんでに走り回っていて、紐で繋がれた美しいダルメシアンが愛情深い目で子犬たちを見つめている。
トマスの話によると、ギルバートの学友の所で産まれたのだが、雑種がかかってしまい母犬ごと引き取り手を探しているという。
可愛いパピー達の様子を当初の目的も忘れて眺めていると、トマスの予想通りよろよろと覚束ない足取りでアリシアが裏口から出て近づいてきた。
「お義母さま! お久しぶりです。お体はいかがですか?」
ヴェネディクトとギルバートの母親アリシアは、小柄で神経質そうな女性だ。
ナタリアは義母はヴェネディクトよりギルバートに似ていると思っている。
「体調は悪くないわ。可愛い子犬たちね、それにこんなにいっぱい」
かがみ込んで子犬を見るアリシアの目はどことなく切なげで、ひどく切実な感情を抱いているように見えた。
「ダルメシアンは少し体が弱い時があるから、雑種の方が健康で良いかもしれないわ。でもこれは雑種じゃなくてこうして先祖返りして茶色い模様が出る事があるのよ」
アリシアが茶色いスポットの子犬を抱き上げた。
「お義母さま、犬にお詳しいんですね」
それにアリシアのような貴族が犬は雑種で良いなど言うとは思ってもみなかった。
子犬を連れて来たトマスは気を利かせたのか少し離れたところで母犬に水をやっている。
アリシアは足が悪い。よろめきながらベンチに座ると傍らに置かれた石板を撫でた。石板を見る目は子犬を見る時と同じ、切ないほどやさしい。
ナタリアは石板の傍らにしゃがんで書かれている文字を見た。
「ヴェネディクトが、自分が生まれる前に死んだ犬の墓だと教えてくれました」
「そう⋯⋯」
ナタリアは石板を読んだ。
【最愛の友、私の騎士。永遠の安らぎと共にあれ】
今から二十九年前の冬の日付が掘り込まれている。
「ジェイって名前だったの。私を守ろうとして殺されたの」
「それで私の騎士⋯⋯」
「ええ、彼は永遠に私の騎士よ」
ナタリアの目は僅かに潤んでいる。
二十九年も昔に死んだ犬の事で涙を流すアリシアは、ナタリアが思っていた女性とは違う人物のように思えた。
いつもアリシアは厳しい家庭教師の様に毅然としていたのだ。
「あの⋯⋯お義母さま。離れの本棚から『満月を飛び越えて』という本が出て来たんです。中身の檸檬の木の下という文字が、林檎に書き換えられていたのですが、お義母さまの文字だとトマスが言うのです。あれはお義母さまが書き加えられたのですか?」
アリシアは少し驚いたようにナタリアを見返した。
「⋯⋯そうよ、私が書いたわ」
「あの、私もあの本を持っているんです。そしたら檸檬の木の下の部分にヴェネディクトが斜線を引いていたんです。お義母様は何故彼がそうしたのか心当たりがありますか?」
アリシアは興味をそそられたようだった。
「彼があの本を? そう、ヴェネディクトが⋯⋯。あの子はきっと私があなたと同じ本を読んでいた事に気づいて、あなたにそれを遠回しに伝えようとしたのね。はっきり言わないところがあの子らしいわ」
アリシアの微笑みはまるで今も幼いヴェネディクトがそこにいるかのようだった。
「どうして檸檬を林檎に書き変えたんですか?」
ナタリアはアリシアの悲しみに胸を打たれて、これ以上詮索したくないと思ったが、今聞かなければヴェネディクトのメッセージを解き明かすチャンスはもう来ないかもしれない。
「この木の下、とても素敵でしょう? それであの一節も林檎の方が良いと思ったからよ。ただそれだけ」
言いながらも、アリシアの目は遠いところを見ていた。その手は茶色いスポットのダルメシアンにそっと添えられている。
「あの本は随分前に図書室で見つけたのよ。なぜだったのかしら。イェーガー家にはあのような本は相応しくないわ」
アリシアが静かに言った。
「あの本はトマスが息子の本をヴェネディクトに貸したのだそうです。多分そのまま返さずに持っていたのではないでしょうか」
「トマスが? まあ、そうなのね。落書きなんかして悪いことをしたわね」
全く悪そうでもなく呟いたアリシアは少し嬉しそうな表情をしている。
同じ本を読んでいた仲間を見つけた⋯⋯そんな顔だ。読書好きの連帯感を感じて、ナタリアはアリシアと一緒にいて初めて心地良いと思った。



