トマスのアイデアは、長年イェーガー家に勤めている人間ならではといえる妙案だった。
だが、準備が必要なので数日待ってくれと言われて、イェーガー家を離れて早く別荘に戻りたいナタリアは、ひどくがっかりした。
先の日に用事を入れてしまえば滞在はさらに伸びるだろう。
(エリーゼも、もうすぐ出産。おいそれと出歩くわけにもいかないから退屈でしょうし、最後の奉仕だと思って我慢するしか無いわ⋯⋯)
昨夜の騒動で客間に泊まるのはあまりにも苦痛だったので、ナタリアは渋るエリーゼに頼み込んで部屋を変えてもらった。
イェーガー家に来た二泊目の夜。新しく用意された客間でランタンをめいっぱい灯し、ナタリアは久しぶりに『満月を飛び越えて』のページをめくっていた。
大事な本だが、大人になるにつれやはり開くことは減っていた。
主人公の少年と少女が吸血鬼の青年と出会うシーン。三人は宝の地図を見つけ、一緒に冒険をすることになるのだ。
子供の頃熱中した物語だが、大人の新たな目線で読み進める。
するとこの物語のバンパイアが、主人公の少女を深く愛していることに気付かされた。
(大人には大人の読み方があるわね)
ナタリアが一番好きなシーンは、大怪我をした主人公の少年をバンパイアの青年が助けるために仲間にしようとするシーンだ。
件の【檸檬の木の下、満月はゆるりと歌う】という一節はこのシーンに書かれているのだ。
このシーンの三者三様の葛藤は、子供の頃も今も心に迫るものがある。
部屋の小さな窓から差し込んでいた月光がふっとくもる。
ナタリアは確信していたが、窓に顔を寄せて「誰?」と小声で問う。
すると、月光の消えた黒闇の中に紅い瞳がキラリと光って見えた。
「どうぞ、入って」
ナタリアの言葉に応えるように霧はベランダで人の形になり、窓を開けると月光とランタンに色取られたアルフォンスが滑りこんできた。
ナタリアはアルフォンスと向かい合って、彼の容貌をじっと見つめた。
いつの間にか、目の光は消えている。
ナタリアが本を置いたサイドテーブルには、ハンターが使う銀のナイフが置いてある⋯⋯これはすっかりナタリアの習慣になっている。
「そのナイフで刺さないのか?」
アルフォンスが静かに言った。
「あなたがヴェネディクトを殺したの?」
「いいや。あんたの夫を殺したのが何者かは知らない」
「そう、わかったわ」
ランプの光に照らされた若きバンパイアの横顔は美しい。
陽の光のもとで見たアルフォンス・フォグリアは、成長途中の瑞々しい若木のようだった。
あの夜檸檬の木の下で見た時は、氷の彫刻のようだと感じた。
少年期独特の、子供っぽい恥じらいの表情。
そして、時には荒々しい戦士の容貌も見せてくれる。
「あんたはもう少し警戒したほうが良いんじゃないか? こんなにやすやすと男を部屋に招き入れるなんて」
ナタリアはアルフォンスが自身を男といったのがおもしろくて、笑いそうになった。
種族が違う二人なのだ。
片や、捕食者。片や、狩人。それに、アルフォンス・フォグリアは少年だ。
「本当に不思議だわ。どうしてこんなことをしているのかしら? でも……と、顔を上げ、ナタリアは言葉を続ける。
「わたしにはそれ以上に知りたいことがあるの」
ナタリアが自分の本を開き、ヴェネディクトが斜線を引いたそのページを見せると、アルフォンスはそれを手に取った。
カンテラの明りはうるんだガラス越しにアルフォンスの横顔を照らしている。
ナタリアは不謹慎にも、彼の手元の本を見るふりをして、その横顔をじっくりと眺めた。
「【檸檬の木の下、満月はゆるりと歌う】か。これが何なのか、それを知ることがあんたが自分の命よりも欲しいものというわけだな?」
「そう言われると、私って随分とだいそれた事をしていたみたいだわ。命をかけているつもりはなかったわ。
ただ気になったから檸檬の木を見に行って、そしてあなたが言った林檎の木の下の月を見に来ただけだったのよ。この屋敷には林檎の木があって、その下に昔池があったというから」
「ああ、俺が知っているのは【林檎の木の下、満月はゆるりと歌う】だ」
「ええ、この本を見て」
ナタリアは今日本棚で見つけたカバーの外れた本を開いた。
「檸檬を消して、林檎と書き直されているな」
「ええ、そして、ここに林檎と書いたのはヴェネディクトのお母様らしいのよ」
「ハンターの女が?」
アルフォンスは首を傾げた。
「俺は⋯⋯ルカが教えてくれた。子供の頃、文字を習う時にその一節を習ったんだ」
「えっ?この本は40年くらい前の本よ。あなたが子供の頃ならもう何百年も前じゃ無いの?」
ナタリアが驚いて問うと、アルフォンスはバツの悪い顔をした。
「十何年かほど前だが」
「あら、見た目相応に若いのね。わたしは二十二歳なのよ。あなたはおいくつなの、アルフォンス様?」ナタリアは弾んだ心を隠さずアルフォンスの恥じらんだ表情を見た。
「十七⋯⋯嬉しそうだな?」
ナタリアの声に喜色が滲んでいることに、アルフォンスは気付いたようで怪訝そうな顔をする。
「ええ、だって、吸血鬼って長命なんでしょう? 自分より年下の吸血鬼がいるなんで、思ってもいなかったわ」
「たしかに、父は5百年以上生きていると言っていたな」



