少年吸血鬼はハンターの未亡人に愛を捧げる

「これは懐かしいですな」トマスが静かに言って本を捲った。

「もしかして、ヴェネディクトが読んでいた本は?」

「ナタリア様もこの本をご存知でしたか。はい、この本は私が貸して差し上げました。私の息子が幼い頃に読んでいた本です。息子が幼かった頃この本がちょうど人気が出て来て、どうしても見たいとせがまれましてね、田舎じゃ売っていないからと頼まれて先代の旦那様であるシェイマス様に隠れてそっと買って送ったんです。逆にヴェネディクト様が子供の頃にはあまり売っていませんでね、息子に頼んで送ってもらいましたよ」

老執事のトマスは、かつてはバンパイアハンターの戦士の一人だったというが、息子がいるとは知らなかった。

ナタリアは本家の使用人たちともあまり話をしたことが無く、トマスの事もよく知らない。ただ忠誠心が高く優秀だが無愛想な人物とだけ思っていた。

「でも、イェーガー家は⋯⋯」

ナタリアが言いかけると、トマスは口をつぐんだ。

「息子のペーターは体が弱かったんです。それで私の母親の実家に預けましてね。彼はイェーガー家の家業がどのようなものかは知らないでしょう。息子は年に一、二度この屋敷に来て小さいヴェネディクト様と遊んでいましたよ。今ではすっかり疎遠なりましたが⋯⋯」

トマスの表情は少し寂しげだった。

「この三十年ほどは《奴らとの戦争》もありません。かつてのように戦いに備える必要も感じていませんでした。この本を買ったとき我々は優勢で、奴らはすっかり影を潜め、ほとんどこの世から消え失せかけた存在になっていました。このような本を子供に与えさえしました。
ですが⋯⋯やはり我々は剣を置いてはなりません。それが我々の使命なのですから。それを今回のヴェネディクト様の事件で思い出させられましたよ⋯⋯」

「そうですね。我が身や愛するものに危機が迫った時、なんとかして助けてほしいと思います」

ナタリアは為すすべもなく眼の前で命を失った夫の最期を思い起こした。

「しかし⋯ヴェネディクト様はアリシア様の意向でハンターとは無縁にお育ちになったのです。銀のハンターのナイフを一本お持ちでしたが、こんなことになるのだったらもっと⋯⋯。
それにギルバート様も、もう少し犯人探しに熱心になられても、こんなことはあまりに薄情です。これではイェーガー家はただ⋯⋯なんの武器も持たない民衆と何ら変わりません」

トマスは爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。

ナタリアは老執事の悲しみと悔しさが、何よりもヴェネディクトへの手向けだと思った。

そして、トマスの話を聞きながら、トマスの息子とヴェネディクトが読んだという『満月を飛び越えて』をパラパラとめくっていた。

「あらっ」

本の中に、一瞬茶色いインクの筆跡が見えた。

興味をそそられたナタリアが探すと、驚くべきことに、あの檸檬の木の下の場面だった。

ヴェネが書き記した一文と同じ場所、檸檬の文字に茶色く斜線がかけられ余白に林檎と書き添えられていた。ナタリアの心臓がドドッと乱れた。

「あの、これは?」

ナタリアが訊ねると老執事は「奥様の筆跡のようですね。しかしこの本に出て来る木が林檎だと、まるでこの屋敷の林檎の木のようですね。昔は林檎の木の横には池があったんですよ。随分前に埋めてしまいましたがね。池に月が映ってとても美しい光景でした」

「お義母さまは生粋のハンターの家系でいらっしゃるのに、どうしてこんなことをなさったのかしら?」

 イェーガー家の一人娘だったアリシアが、何故『満月を飛び越えて』の本にこのメッセージをいれたのだろうか?

 ナタリアは気になって仕方がない。奇しくもヴェネディクトが、同じシーンを同じように斜線でマークしていたのだから。

「直接お尋ねになってはいかがですか?」

思いがけなくトマスが言った。

「でも、何と言って声をかけようかしら?」

 アリシアの頑なな態度をナタリアが崩せるとは思えない。

「ああ、それでしたら⋯⋯」トマスがあごひげを指で整えながら口を開いた。