「明石さん」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、そこにいたのは高瀬課長だった。
「今日、もしかして寝坊した?」
「へ?」
「いや、ここ少し跳ねてるから」
そう言って、クスッと笑いながら自分の前髪を指さす課長に、思わず自分の前髪を慌てて押さえる。
「はは、大丈夫。たぶん他の人にはバレてないよ」
高瀬課長、33歳。
営業部の課長で、私の直属の上司だ。ちなみに、長年連れ添った彼女さんと最近ついに籍を入れたらしい。
その話は社内でもすぐに広まっていて、昼休みの雑談の定番ネタになっていた。けれど、本人は特に浮ついた様子もなく、いつもと同じ顔で仕事をしているのが少し不思議だった。
社内でこの人の名前を知らない社員はいないと思う。それくらい有名な人だった。
仕事ができる。しかも圧倒的に。
判断は驚くほど早くて、どんなトラブルが起きても慌てない。普通なら空気が張り詰めるような場面でも、高瀬課長がひとこと口を開くだけで不思議と場が落ち着く。まるで最初から全部見えていたみたいに、スマートに解決してしまう人だった。
だから取引先からの信頼も厚いし、部下からの評価も高い。もちろん厳しい部分はある。でも感情的に怒鳴ったり、人を追い詰めたりするようなタイプでは絶対になかった。
冷静なのに冷たさはなくて、むしろ気遣いが自然すぎるくらい自然。誰かが困っていたらさりげなくフォローに入るし、ちゃんと見ていてほしいところはきちんと見てくれている。
私なんてまだまだで、毎日ついていくのに必死だ。それでも、こんなふうに仕事ができて、人の空気まで変えてしまうような人になれたら――と、気づけばいつも思ってしまう。



