「はい。また仕事で」
その言い方は、昨日ロビーで見た仕事の顔に近かった。真顔というか、無表情というか。感情をあまり表に出さない、落ち着いた表情。さっきまでの柔らかい空気が少しだけ遠くなる。
でも、その声さえ嫌じゃなかった。むしろ、その切り替え方まで有馬さんらしく思えてしまう。
私は「失礼します」と小さく頭を下げる。そして開いた扉からホームへ降り立った。
朝の空気が肌に触れる。人の流れに押されるように数歩歩いてから、私は無意識に振り返っていた。
プシュー、と音を立てて扉が閉まる。車内の有馬さんが、一瞬だけ見えた気がした。目が合ったかどうかまでは分からない。でも次の瞬間、電車はゆっくり動き出す。
ガタン、と音を立てながらホームを離れていく車両を、私はその場で見送った。
たった15分だ。昨日の長い会議に比べたら、本当になんでもない時間。話した内容だって、ほとんど覚えているほどじゃない。
それなのに。
胸の奥に残っている感覚だけは、やけにはっきりしていた。発車していく電車を見つめながら、私はそっとAirPodsのケースを握りしめる。
さっきまで有馬さんが持っていたもの。ハンカチに包まれていたもの。そのことを思い出しただけで、また心臓が小さく跳ねた。
……また仕事で。
朝のホームには、いつも通りたくさんの人がいる。急ぎ足で階段へ向かう人。スマホを見ながら歩く人。いつもと変わらない景色。でも私の中だけ、何かが少し変わってしまった気がした。
私はもう一度だけ、遠ざかっていく電車のほうを見つめてから、小さく息を吐いた。
そして遅れないようにと、自分に言い聞かせるみたいに改札へ向かって歩き出した。



