「あ、あの……」
声がうまく出ない。なのに有馬さんは軽く私の肩を押して、「どうぞ」とでも言うみたいに自然に促した。流されるまま、私はそのまま席へ座ってしまう。
……座っちゃった。
呆然としたまま顔を上げると、有馬さんは私の前に立って、つり革を掴んでいた。スーツの袖が少しだけ上がって、腕時計が見える。
昨日ロビーで見た、あのシンプルな時計。電車が揺れるたびに、その腕がわずかに動く。
距離が、近い。
座ったことで視線の高さまで変わってしまって、余計に落ち着かない。
「足、痛かったですよね」
静かな声が上から降ってくる。私は反射的に顔を上げた。
「……っ」
有馬さんは、穏やかな表情で私を見ていた。責めるわけでもなく、からかうわけでもなく、本当に当たり前みたいに。
「昨日、歩き方少し変だったので」
そんなところまで見てたの。胸の奥がぎゅっとなる。恥ずかしいのに、嬉しいと思ってしまう自分がいて困る。
「でも、俺より会社近いんですから、座れる時は座ってください」
その言い方があまりにも自然で、私は何も言えなくなった。断る隙もないくらい当たり前に気遣われてしまって、ただ心臓だけがうるさく鳴り続ける。
私は膝の上でぎゅっとAirPodsのケースを握りしめながら、まともに有馬さんの顔を見られなかった。



