「明石さん、これ」
有馬さんがそう言って、スーツのポケットへ手を入れる。そして取り出したのは、一枚のハンカチだった。丁寧に折りたたまれていたそれを、彼は静かに開く。中に包まれていたのは、片耳のAirPods。
「すみません、ありがとうございます」
私は慌てて受け取る。すると有馬さんは「いえ」と小さく返した。
……ハンカチに包んで持ってきてくれたんだ。わざわざハンカチに包んでくるなんて、律儀な人だ。しかもそのハンカチも、シンプルで清潔感のある薄いグレーで、有馬さんらしいと思ってしまう。
どうして私は、こんな細かいところまで気になってしまうんだろう。
それを受け取って、私はそっとケースの中へ戻した。カチ、と小さな音がして蓋が閉じる。
その瞬間、ふと気づく。
……あれ。会社に着くまで、あと15分くらいある。
この残りの時間、どうしたらいいんだろう。AirPodsは返してもらった。目的はもう終わった。じゃあ、このままここにいていいの?それとも、適当に別の車両へ移動したほうが自然?
頭の中でぐるぐる考えてしまう。
ちら、と横目で有馬さんを見る。彼はもうAirPodsを耳につけてはいなかった。でも、だからといって私に話しかけてくるわけでもなく、静かな表情で窓の外を眺めている。
……まあ、別に。話すことなんて、特別あるわけじゃないし。
そう思いながら、私も視線を窓の外へ逃がす。車窓に映る自分の顔が、少しだけ落ち着かない表情をしていて嫌になる。電車が揺れるたびに、吊り革が小さく音を立てる。
車内には、新聞をめくる音と、スマホをタップする音。それくらいしか聞こえない。静かだ。静かなのに、私の心臓だけがやけにうるさい。



