遅かれ、早かれ、恋になりまして。




「こちらこそ、ありがとうございました」


その声は穏やかだった。けれど顔を上げた瞬間、私は少しだけ息を止める。有馬さんはもう、仕事の顔に戻っていた。さっきまで見せていた柔らかい表情は消えていて、落ち着いた営業の顔をしている。

有馬さんは軽く会釈すると、そのままロビーの出口へ向かって歩き出した。磨かれた床に革靴の音が静かに響く。その背中を、私はなぜか目で追ってしまう。

すると数歩進んだところで、有馬さんがふと立ち止まった。そしてゆっくりこちらを振り返る。


「また、明日」


その言葉に、胸が大きく跳ねた。

返事をしようとしても、うまく声が出ない。ただの挨拶だ。明日の朝、電車で会えたらAirPodsを返してもらう。それだけ。本当に、それだけの約束。

なのに、“また、明日”というたった一言が、どうしようもなく頭に残る。

有馬さんはもう前を向いて歩き出しているのに、私はしばらくその場から動けなかった。ロビーを行き交う人の声も、自動ドアの開閉音も、全部遠く感じる。

耳の奥では、さっきの言葉だけが何度も繰り返されていた。

また、明日。また、明日。また、明日。

たったそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに特別みたいに聞こえてしまったんだろう。私は無意識に、自分の胸元をぎゅっと押さえる。心臓がうるさい。落ち着いてほしいのに、全然静かになってくれない。

……明日。また会える。その事実だけで、こんなにも気持ちが揺れるなんて思わなかった。