思考が追いつかないまま、私は一瞬だけ視線を彼の手元から逸らす。
そして、即座に脳裏にあのAirPodsのことが浮かんだ。
「あの?」
彼が軽く首を傾ける。その仕草にハッとして、私は慌てて現実に引き戻された。
「あっ、すみません」
反射的に声が出て、ようやく私は名刺を受け取る。
指先が触れた瞬間、妙に現実感が強くなる。
その文字列を目でなぞりながら、私はほんの少しだけ呼吸を整える。
NEXERA株式会社 IT・法人営業部 主任 有馬千春
主任、だ。ということは、私よりもいくつか上の立場ということになる。とはいえ、見た限りではそこまで年上にも見えない。むしろ、同年代か少し上くらいに見えるのに、その肩書きだけが妙に現実味を持って重たく感じられた。
名刺から視線をゆっくりと上へずらすと、ちょうど彼と目が合ってしまう。
逃げるタイミングもなく、そのまま視線が絡む。
少しだけ口角を上げて、自然に微笑む彼。その表情は、電車の彼とはまるで別人のように見えた。きっとこれが、営業の彼にとっての標準装備なのだろう。
人前に立つための、ちゃんとした顔。
それでも思ってしまう。どこで会っても、この人はこの人だ。電車でも、駅でも、そして今このロビーでも、どうしようもなく目が追ってしまう。
こんなこと、思っている場合じゃないのに。
心のどこかで分かっているのに、視線だけが勝手に彼に引き寄せられる。



