時計を見ると、そろそろ10時だ。
私は小さく息を吸って、デスクの上に置いていた名刺入れを手に取る。
「課長、行ってきます」
パソコンを操作していた高瀬課長へそう声をかけると、「行ってらっしゃい」といつも通り穏やかな声が返ってきた。でも今日は、その声にちゃんと笑顔を返す余裕がない。
落ち着かない心臓のせいで、課長の顔をまともに見られなかった。
私は誤魔化すように軽く会釈だけして、そのまま足早にフロアを出る。
エレベーターのボタンを押して、閉まる扉の前に立った瞬間、ようやく一人になれた気がした。胸の奥でうるさかった鼓動が、少しずつ静かになっていく。
大丈夫。落ち着いてる。今日は、絶対ミスできないんだから。
自分にそう言い聞かせながら、エレベーターの鏡に映る自分をちらりと確認する。
髪、大丈夫。メイクも崩れてない。前髪も今日はちゃんと整ってる。昨日みたいに汗だくで駆け込み乗車したわけじゃない。だから大丈夫。
ロビーへ降りると、平日の午前らしい静かな空気が広がっていた。ガラス越しに入る光が床に反射して、受付横の観葉植物の影を長く落としている。
私は受付近くで背筋を伸ばしながら、腕時計へ視線を落とした。
あと少し。落ち着かなきゃ。
クライアント対応なんて、今まで何度も経験してきたはずなのに。今日は相手が大手企業だからか、変に緊張してしまう。



