あの人が来ると、空気が変わる―正論では、人は動かない―

夕方。

リビングには、それぞれの音が重なっていた。

テレビの音。
ゲームの音。
タブレットの動画。

キッチンでは、フライパンの音。

「ちょっと、もうご飯できるよ!」

美咲が声をかける。

「あとでー」

恒一が返す。

目は画面のまま。

「今って言ってるでしょ?」

「今無理!」

少し強い声。

その横で、陽菜はスマホを見ながら、前髪をいじっている。

湊はゲームに夢中。

「ねえ、みんな一回止めて」

声を強める。

「ご飯の時くらいちゃんとしようよ!」

その時。

「今やってるって言ってるやん」

恒一がイラッとした声で言う。

「毎回毎回、タイミング悪いねん」

――え?

言葉が刺さる。

「タイミングって…」

「だって今いいとこやし」

「じゃあいつならいいの?」

「知らん!」

空気が一気に荒れる。

その時、リビングのドアが開く。

「ただいま」

悠斗が帰ってきた。

「あ、おかえり」

美咲が振り向く。

「ちょうどいいとこ。ご飯できてるから」

「今?」

悠斗が少し顔をしかめる。

「ちょっと休んでからでもいい?」

――は?

「みんな同じこと言うやん!」

思わず声が上がる。

「なんで誰も今やろうとしないの!?」

「いや、俺は仕事終わりで…」

「だから何!?こっちはずっとやってるけど!?」

ピリッと空気が張り詰める。

子どもたちも、動きを止める。

「なんでみんな、自分のことばっかりなん!?」

言った瞬間、

しまった、と思った。

でも、もう止まらない。

「ママだって自分のことばっかやん」

ぽつり、と陽菜が言った。

「え…?」

「ちゃんとしてって言うけどさ」

恒一が続く。

「ママのタイミング押しつけてるだけやん」

言葉が、重なる。

――違う。

そんなつもりじゃない。

でも、

言い返せない。

「…もういい」

思わず背を向ける。

キッチンに戻ろうとした、その時。

「ちょっといい?」

静かな声。

振り向くと、あの女性が立っていた。

「……」

もう驚かない自分がいる。

女性は、リビングを一度見渡した。

「今のさ」

少しだけ笑う。

「全員、正しいよね」

――え?

「ママは“ちゃんとしてほしい”」

美咲を見る。

「子どもは“今やってること大事”」

子どもたちを見る。

「パパは“ちょっと休みたい”」

悠斗を見る。

「全部、間違ってない」

誰も、何も言えない。

「でも」

少し間を置く。

「全部、“自分のタイミング”なんだよね」

――あ。

空気が、少し変わる。

「自分は正しいって思ってるから」

静かに続ける。

「相手がズレてるように見える」

誰も否定できない。

「じゃあどうするか」

女性は、ゆっくり言った。

「“誰のタイミングに合わせるか”じゃなくて」

一拍置く。

「“みんなで決める”」

シンプルだった。

でも、

それだけだった。

「例えばさ」

女性は軽く手を叩く。

「ご飯の時間、どうする?」

誰もすぐには答えない。

でも、

さっきとは違う沈黙だった。

「…7時とか?」

湊が小さく言う。

「それならキリいいかも」

恒一が続く。

「私もそれなら大丈夫」

陽菜が言う。

悠斗がうなずく。

「それなら帰って少し休める」

美咲は、そのやり取りを見ていた。

――あぁ。

「決める」って、こういうことか。

「じゃあ、7時ね」

自然とそう言葉が出る。

さっきまでのイライラが、少しだけ消えている。

女性は、その様子を見て、ふっと笑った。

「ね?」

その一言だけ残して、

いつの間にか姿は消えていた。

リビングには、

少しだけ整った空気と、

静かな時間が流れていた。