あの人が来ると、空気が変わる―正論では、人は動かない―

夜。

子どもたちが寝静まったあと。

リビングのテーブルに、ノートとペンが広がっている。

美咲は、ひとり座っていた。

(明日の準備して…)

(洗濯して…)

(学校のプリントも見て…)

頭の中で、やることが次々と浮かぶ。

終わらない。

「はぁ…」

小さくため息が漏れる。

時計を見る。

もう、こんな時間。

――まだ終わってない。

(ちゃんとやらなきゃ)

その言葉が、頭の中に何度も響く。

(母親なんだから)

(ちゃんとしないと)

(迷惑かけたらダメ)

ペンを持つ手が、少しだけ重くなる。

でも、止められない。

止めたら、ダメな気がする。

その時だった。

「ちょっといい?」

静かな声。

顔を上げると、そこに、あの女性がいた。

「……また?」

思わず、力が抜ける。

女性は、テーブルの上をちらっと見る。

「頑張ってるね」

その一言に、

なぜか、胸がぎゅっとなる。

「…やらないといけないことが多くて」

思わず、言葉がこぼれる。

「ちゃんとしなきゃって思ってて」

女性は、少しだけ首をかしげた。

「“ちゃんと”って、何?」

――え?

言葉が止まる。

「誰が決めたの?」

何も答えられない。

「それ、全部やらないとダメ?」

ノートを見る。

やることが並んでいる。

「…やらないと」

「なんで?」

即答できない。

「やらなかったら、どうなるの?」

言葉に詰まる。

「誰かに怒られる?」

「…いや」

「困る?」

「……ちょっとは」

女性は、やさしく言った。

「“やった方がいい”と、“やらなきゃいけない”は違うよ」

――あ。

何かが、ほどける。

「今の美咲さん、全部“やらなきゃ”になってる」

静かに指摘する。

「だから苦しい」

目の奥が、じんわり熱くなる。

「じゃあどうするか」

女性はペンを手に取った。

ノートの上に、線を引く。

「“今日やること”と、“やらなくてもいいこと”分けてみて」

シンプルだった。

でも、それだけだった。

美咲は、ゆっくりペンを持つ。

一つずつ、見ていく。

(これは今日じゃなくてもいい…)

(これは明日でも…)

少しずつ、

やることが減っていく。

気づけば、

ノートの半分以上に線が引かれていた。

「…あれ」

思わず声が出る。

「こんなに減るんだ」

女性は、少しだけ笑った。

「全部やる人じゃなくて」

一拍おいて、

「選べる人の方が、ちゃんとしてるよ」

その言葉が、すっと入ってくる。

――ちゃんとしなきゃ

じゃなくて

――ちゃんと選べばいい

ふっと、肩の力が抜けた。

顔を上げると、

もう女性の姿はなかった。

静かな部屋。

でも、

さっきまでと違って、

少しだけ、呼吸が楽になっていた。